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ネット・ケータイとつきあう子どもたちとのつきあい方

今年稚内で開かれる「第38回北海道養護教員研究大会」の講座講師を依頼されて、事前に配布されるレジュメ集原稿の締め切りが今月末だった。送ったのが以下のもの。
しかしなんとその研究大会は半年以上先の8月8日である。ずいぶんかっちりとした運営がなされているのだなぁ、と感心してしまう。

   *****************************************

ネット・ケータイとつきあう子どもたちとのつきあい方

 ウチに子どもはいませんし、地域で子どもたちと接する機会もほとんどありません。ですから書籍や報道から得られる情報によってしか子どもたちのことを理解していません。その意味でははなはだ心もとないのですが、現在のメディアとコミュニケーションをめぐる諸問題についてはいつもあれこれと調べたり考えたりしているものですから、子どもたちの直面している課題についても何かヒントになるような議論も紹介できるのではないかと思います。ただどれだけリアリティがあるかについては教育現場で直接彼らと接しておられる皆さんから検証していただき、むしろいろいろと教えていただきたいと願っています。

■対症療法の限界
 子どもたちの抱えている困難を、その表面的な現われ(いじめ、ひきこもり、非行、性的逸脱etc.)においてだけでなく、背後にある生活歴や生活環境全般の問題として取り組まなければならないのが養護の先生たちの仕事なのでないかと想像します。メディアとのかかわりについても、ただ「ケータイをとりあげればいい」とか「ネット利用を規制すればいい」というようなことではなくて、なぜ子どもたちがそれほどまでにそれらを必要としているのかについて理解することは不可欠なはずです。端的に言って、「それらのメディアがないとやっていけない」のだとすると、それに替わるものを家庭や学校が提供していない、あるいは失ってしまっているからだと考えることができます。
 一般的には、<メディアによって社会が変わる>ように見えますが、逆に<社会が必要とするからそのメディアが普及する>のです。別の言い方をすると、<メディアは新しい欲求充足の形を与える>のですが、<欲求にそぐわないメディアは選ばれない>ということです。根本の問題は欲求や、必要や、欠如にあります。対症療法的な対応だけで済むものではありません。

■対症療法の必要 
 しかしながら、対症療法が無用だということにはなりません。ケータイやインターネットの利用による、今日や明日にも起こりかねない危険があるのであれば、対処法を知っておくことは必要です。世の中の悪意や落とし穴を知らない未熟さに対しては予備知識を持ってもらわなければなりません。反対にやっかいなのは、ケータイやネットの世界そのものについては子どもたちの方が熟知している場合が珍しくないことです。特にケータイの操作方法の面では、多くの大人が子どもたちにかなわないのではないでしょうか。
 だとすると、「対処法」以前に、「何が起こり得るのか」を大人たちの側がよく知らないということになります。実際、分からないから何も手だてを打っていないという大人が多いはずです。本当は、子どもたちに教えてもらいながら大人が一緒になってその世界を経験し、話し合いながら利用の仕方を模索できればいいのでしょうが、よくある危険についてはとりあえず知っておくことにしましょう。

■子どもへのイメージ
 大人が子どものやっていることをよく知らない・理解できないのだとすると、それは単に大人が子どもほど新しいメディアにうまく適応できないからなのでしょうか。あるいは、子どもたちがよほど異常になっているから理解できないのでしょうか。「メディアのせいで子どもがおかしくなる」といった物言いがよくされるのですが、例えば「少年による犯罪が急増・凶悪化している」という事実はありません(逆に「治安は全体として悪化していて犯罪被害者となる子どもが急増している」という事実もありません)。子どもに「メディアに気をつけろ」という前に、メディアのふりまくイメージに大人が振り回されてはいけないはずです。
 当たり前ですが、外側から眺めているだけでは理解できません。やりとりして初めて理解への回路が開かれるのです。「子どもがおかしい」ということを前提にすることで理解への回路を自ら閉ざそうとする、理解しようとしない自分を正当化するような風潮があるように見えます。ネットやケータイに頼る子どもたちのコミュニケーション状況を理解できない本当の原因は、大人が子どもたちときちんとコミュニケーションを図らないことにあると考えます。
 こうした意味では、大人の側の状態、大人の側からの視線をこそ検討する必要があるということになるでしょう。

■大人の側の変化
 1995年から5年おきに実施されている調査では、(仕事上・役割上必要なものを除いて)10分間以上のまとまった会話時間を一日に一度もとっていない人がここ10年間でほぼ一貫して増加し、最近では7割近くの人が該当するという結果が出ています。他方で「会話する人」の会話時間は逆に増加の一途です。つまり「会話する人」はますます饒舌になる一方で、「会話する人」自体は減り続けているのです。ひきこもり傾向の子どもがいる一方で、「何をそんなに話すことがあるんだ」とあきれるほどにメールや通話でおしゃべりし続ける子どもも目立つのですが、日本社会全体における「会話の衰退」の中での一種の抵抗、あるいはあがきだと見ることはできないでしょうか。
 個食や孤食が増えたのは子どもの責任ではないのですし、コンビニや自動販売機ATMやネット通販など、対面的なコミュニケーションがなくとも生活できる便利で効率的な仕組みを営々と築いてきたのは大人です。子どもたちはそうした社会に必死に適応しようとしている、そう理解すべきだと考えています。
 
 当日は、およそ以下のような構成でお話ししようと思っています。

1.大人はなぜ不安になるのか
(1) モンスター・チルドレン?
(2) ネット・ケータイで被害者になる子ども/加害者になる子ども
(3) 子どもが見通せない

2.子どもはなぜネット・ケータイに魅かれるのか
(1) コンビニ化・個人化する生活におけるネット・ケータイ
(2) 二極分化(孤独への恐怖/他者への恐怖:ココロ系、自傷らー)
(3) つながりへの強迫/「居場所」としてのネット・ケータイ

3.大人に何ができるのか
(1) リテラシー(ネチケット、フレーミング、個人情報、フィッシング、チェーンメール、ウィルスetc.)
(2) 規制(フィルタリング)
(3) きちんと向き合う(生、性)
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週刊新潮50周年--「客観報道」をめぐって

『SPA!』 2006年2月21日号
文壇アウトローズの世相放談
坪内祐三&福田和也「これでいいのだ!」
で『週刊新潮』創刊50周年に関わってこんなことが言われている。

福田 たとえば‥‥警察官がパトロールの途中、ある青年を射殺してしまったとして、警察は「青年がナイフで襲ってきたから」と発表するじゃない? でも、実はナイフじゃなくて、油絵を描くときのパレットナイフだったと。そういう時、『週刊新潮』は記者を2人派遣して、1人を警察、1人を青年側に張りつけるんだって。すると、それぞれが感情移入するから、両方の記者が双方の立場から議論をして、「お前、これ取材したのか?」とツッコミあって、翌日にもう一度取材する。
坪内 単に、発表を受けて記事を流すのとはちがうよね。


おお、週刊新潮を自分で購入したことはおそらく一度もなくて、もっているイメージとしては「派手な見出しで地味なつくりの保守雑誌」くらいだったけれど、けっこう慎重なスタンスだったりもするのか。

だけれども、少し後にはこんな風に。

福田 『週刊新潮』は、今もそうだけど、創刊した斎藤十一さん(平成12年没)の主義でね、タイトルを最初に決めてから取材をさせるわけよ。だから、客観的に真実を追究しましょうというスタイルじゃない。コイツがやったに決まっているから材料=証拠を探して来い。偏見に満ちたところから、突破力で展開していく。偏見の突破力だよね

どっちが本当なんだろう?
福田和也は自らの発言の整合性が気になったりはしなかったのだろうか。
それとも両方本当で矛盾はしないなんてことがあるのかな。
<公式発表に依存せずに、自分の“決めつけ”にしたがって取材をする>のならとりあえず両立したりするだろうか。

「客観性」とか「中立公平」とかがそのまんま成立するとは思えず、実はそういう大義名分があることによって、権力や世間への迎合が正当化されてしまっているように見える。
しかしだからといって、客観的な真実への志向そのものを放棄してもいいということにはならんだろう。


で、遅ればせながら創刊50周年記念の別冊を読んでみた。

答えがあるわけではなかったけれど、「単に、発表を受けて記事を流すのとはちがう」という面については、鵜飼久市氏が「週刊新潮の源流」だとする月刊『新潮』のスタンスについて述べている。

 ニュースが発表ものばかりになったのは記者クラブ制度のせいだと激しく反発しています。それまで記者クラブに関して書くことはタブーだった。
 新聞記者が都庁クラブに2,3年配属されると様々な口利きをして、小さな蔵が一杯になる、と言われている時代だった。さらに、公営団地などに通常の抽選を経ないで住んでいた新聞記者がずいぶんいたのです。そういう著しい不正義に対する強烈な不信、反発を週刊新潮が引き継ぐことになったわけです。


ここで言われているよう特権が現在までそのままの形で存続していることはないだろうけれど、“仲間内”以外のジャーナリストを記者会見から排除しようとするな記者クラブ制度の働きは当時から一貫しているようだ。
相変わらず雑誌メディアは排除されている。
これに抵抗することには相変わらず意味があるだろう。

しかし、記者クラブ制度に弊害があるとして、じゃあそれを解体すればそれで問題が解決するのかというと必ずしもそんなことはなくて、本質は「メディア企業が官僚化し、闘う姿勢がなくなったことにあるのではないか」という指摘が重要なのだと思う。


さて、冒頭の疑問は解決していない。

元編集長の「厳正中立の良識の目」が理想だということばが紹介されているが、佐野眞一によれば「『金・色・権力』に対する人間のむきだしの欲望を週刊誌づくりの基本に据えた」とある。
これらがどのように両立するのか。
この雑誌が果たしてきた役割をそれこそ「客観的」に評価するのでないと、答えは見えてきそうにない。
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メディアの未来予想図

コンピュータ合理化研究会が出している機関誌『反コンピュータ通信』2006年1月号の記事
<「便利」の背中に貼り付く「恐怖」
 --「EPIC2014」が語る未来予想図>
で知った「EPIC2014」というフラッシュムービー作品(日本語字幕全文はdSb :: digi-squad*blog)。


『通信』での紹介によると、

アマゾン・ドット・コムがグーグルと2008年に提携し、2010年にはアクセス内容やすべてのブログから消費者データベースを作成する。これに基づき個人向けのニュースを一方的に配信していく。2011年、ニューヨークタイムズは最後の抵抗として著作権をめぐる訴訟を起こし、敗れる。膨大なインターネット広告収入からフリーランスの記者が急増し、記事と情報を自由に組み合わせた嘘の扇情的なニュースが世界を支配する。

アマゾンが「あなたはきっとこの本に興味があるはずです」と勧めてくるように、「あなたはきっとこんな話題に興味があるはずです」とニュースを送ってくるというのだ。ひとりひとり別々に。

あらゆるコンテンツへのアクセスが可能になることによって、私のあらゆる関心が蓄積され分析される、そんな世界だ。
「雪祭り」をgoogle検索したら開催期間中の札幌の天気予報やホテルの空室情報を勝手に届けてくれる--例えばそんなことかな。

EPICは、消費行動、趣味、属性情報、人間関係などをベースに、各ユーザー向けにカスタマイズされたコンテンツを作成する。

アマゾンのサービスは確かにありがたいと感じたりもするんだけれど、データで先を読むということでいうと、起こりうる犯罪が起きる前に犯人(になるはずの人)を捕まえてしまうという『マイノリティ・レポート』の世界(観てないんだけれども、確かそんな感じのテーマだったはず)にも通じそうだ。

シミュレーションによる監視。
ウィリアム・ボガード『監視ゲーム--プライヴァシーの終焉』(アスペクト、1998年)はこんな風に描く。

コンピュータに接続すれば、個人がいつでもどこでも何百万ものファイルにアクセスできる世界。衛星を経由した電子的コマンドや制御センターが、スクリーン上で戦争を起こしてみてから現実に戦争を開始するかどうか決定する世界。両親が、生まれる子供の遺伝子の「来歴」を選択し、子供は両親の特徴より健康や美の規範に同調した形質をもって生まれる世界(まもなくだろう)----こうした幻想的な場面は、監視が際限なく進んだ未来の光景を思い起こさせる。すべてが前もって可視的となり、すべてが透明、不毛で危険はなくなり、秘密は消え失せ、できごとが前もって完全に知られる。

ムービーは<最良の、そして最悪の時代>ということばで始まり、紹介した記事の題は<「便利」の背中に貼り付く「恐怖」>だったわけだけれど、「最悪」であるとも「恐怖」であるとも感じなくなることによってこうした事態は進んでいくのだろうな。
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ブッシュとしてのダースベイダー

道新2005年7月29日「卓上四季」から。
▼カンヌ映画祭などでは、ブッシュ米大統領を暗に批判した作品ではないか、と話題を集めた。イラク戦争を進めるため、国民の自由を制限し、権力を集中した経過と似ているという▼たとえばこんな場面だ。悪役ベイダーが戦いを前に「わたしに味方をしないなら、おまえは敵だ」とすごむ、どこかで聞いた白黒の二文法。「わたしは平和と正義、自由と安全をこの帝国にもたらした」と豪語するせりふなども、大統領演説と印象が重なる▼周囲の人は独裁者にだまされてゆく。ヒロインが不安をつぶやいた。「民主主義が滅んで、この共和国そのものが悪になっているのでは?」「自由はこうして死んでゆく。万雷の拍手を受けながらね」▼ブッシュ支持派は怒って鑑賞拒否を呼びかけた。当のジョージ・ルーカス監督は、大統領を直接批判する意図を否定しつつ、現実の政治を意識していると認めた。ファンのスリルをかき立てた六部の大作は、論争を残し終幕となった

このへんの評価については「Days of Books, Films & Jazz 編集者 日々のコラム」の『スター・ウォーズ』のブッシュ批判?に詳しい。

この映画には実はほとんど関心がなかった。
シリーズ全部観ないとちゃんと楽しめないのじゃないかという億劫さもあるし。

なのにこういう“政治ネタ”として取り上げられることによって「観てみようかな」となるのはきっと邪道なんだろうな。

ただ、製作する側がそれを主要なテーマとして訴えようとしているのでなくても政治的なメッセージは発せられうる。
最近の自衛隊映画について山田和夫は次のように分析している。(『しんぶん赤旗』2005年7月21日「映画時評」)
 「本物」を自衛隊がほとんどタダ同然に貸してくれるのだから、映画会社にとってこんなおいしい話はない。憲法改正の動きでタカ派勢力が活気づいているから、自衛隊の宣伝になれば観客動員も見込める、企業側の思惑は一見単純で、とくに政治的意図があるとは見えないが、とてもそうはのんびりしておれない。何よりも防衛庁=自衛隊が協力するからには、必ず協力条件がつく。端的にいえば自衛隊に有益であること。
 たとえば「戦国自衛隊1549」は富士山麓の演習場に大がかりな戦国時代の城のセットを建て、戦闘ヘリコプターや戦車を無償で使わせてもらった。ただ防衛庁当局がくどいほど念を入れたのは「どんな事態になっても、自衛隊が先に発砲しないこと。専守防衛ですから」と。ひどく憲法に気を使っているのは見ておどろかされる。実際の画面ではその通り、タイムスリップした自衛隊部隊が、どんなに織田軍の攻撃を受けて、犠牲者が出てもいちいち指揮官に連絡をしないと発砲できない。観客は「射てばいいじゃないか」と思ってしまう。結局「専守防衛」と戦闘部隊である自衛隊との矛盾を「交戦権」肯定に導くのではないか。
 「亡国のイージス」では反乱を起こしたイージス艦が、僚艦に撤退を求める。「撤退しないと艦対艦ミサイルで攻撃する。しかし貴艦は海上自衛隊の規則で先制攻撃はできないから、撤退しか道はない」と通告。僚艦は拒否して反乱イージス艦のミサイル攻撃で爆沈する。「某国」(だれが見ても北朝鮮)工作員は「撃たれる前に撃て、それが戦争の原則だ」とくり返し強調する。ここでも「交戦権」を認めない現憲法第二項の規定が、いかに彼らにとってカセになっているか、早くそのカセを外したがっているかが、歴然だ。

そういえば、映画『突撃!「あさま山荘」事件』を観たときは、なかなか決断を下せない警察側責任者のだらしなさが強調されていて「あ〜、細かい規則や手続きなんかいいからさっさと行けよ!」みたいな気分になってしまった。
あとで、そういう気分にさせるのが狙いなのかもしれないと反省したけれども。


現実の政治的動きに対して「おかしいんじゃないの?」と疑義を呈するにせよ「仕方ないんじゃないの?」と同意を促すにせよメディアのメッセージは時代の気分に形を与える働きをするだろう。
そういう働きは直接的な政治的メッセージによってではなく、むしろ“娯楽”という姿でこそ威力を発揮する----と誰かが言っていた。何を“快い”とするかという感性に訴えるからだろうか。

ここで、江川達也が以前「子どものよこしまな欲望の自己正当化を強化する『ドラえもん』は危険だ・悪書だ」と主張していたことを思い出したのだけれど、それはまた別の話だな。
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「無観客試合」の真実

『創』2005年8月号、浅野健一「サッカー日朝戦「無観客試合」のウソ」のリードはこうだ。

これがどうして「無観客試合」なのか。現実には日本人観客が800人も観戦していた。現地で筆者が目にした現実をマスコミは報道しなかった。これでは大本営報道ではないか。

以下、要点部分を引く。(以下、すべて太字は引用者)
 日本の2得点と試合終了のホイッスルの瞬間には、メインスタンドで大きな拍手と大歓声が起きた。まるで日本の「ホーム」試合のようだった。
    [‥]
 朝鮮側のVIPはバンコクにある朝鮮の大使館関係者ら約50人。朝鮮から来た人はゼロ。朝鮮から来ていたのは選手とコーチ2人だけだ。日本からの在日朝鮮人蹴球協会の関係者が10人。ピョンヤンからは報道機関の人は1人も来ていなかった。このほか、韓国メディアが20人。タイを含むその他の外国メディアは計約100人。
 一方、日本は報道だけで556人。日本人VIPは約200人以上いたと思われる。「在タイの日本大使館、日本人会がVIPパスを発行してもらったのではないか。FIFAのスポンサーになっている日本企業もVIP券を発行したのではないか」と地元記者は見ている。従って、約1000人のうち約800人は日本人だとアート氏(タイ・サッカー協会事務局員--引用者)は言った。


これに対し、SportsNavi.com の「宇都宮徹壱のバンコク日記」2005年06月09日には正反対のことが述べられている。「無観客ではなかった」のは同じだが、多くの北朝鮮側観客こそが騒いだという。
 それにしても無観客試合とは、果たしてどのようなものなのか―― 今日のゲームの重要性を十分認識した上で、それでも私は生涯で初めて目にする無観客試合というものに、猛烈な好奇心と憧憬(しょうけい)を抱きながらスタジアムの門をくぐった。とりあえず、メーンスタンドを駆け上がって、ぐるりとスタジアムを見渡してみる。確かに、バックスタンドと両方のゴール裏はポッカリと無人になっていた。しかしながら、メーンスタンドには妙に人がいるではないか。それも、どう見てもメディア関係者でも大会運営スタッフではない、家族連れやカップルの姿が目立つ。彼らはいったい、何者なのだろうか。

 私の席の付近では、アジア系の人々が数十人、一区画を陣取っていた。相ぼうや話している言葉からして、北朝鮮の人々であることは間違いない。うちわのようにあおいでいるIDカードには「VIP」と書かれてあったので、おそらく在バンコクの大使館関係者の家族と思われる。それも、かなりのエリート層に属しているのであろうか。大人も子供も一様にいい服を着ていて、何ともふくよかな顔つきをしている。
 そんな彼らが、試合が始まると北朝鮮のプレーに一斉に拍手したり、歓声を挙げたりするものだから、無観客試合の不条理を期待していた当方としては、大いに面食らった。いったい、これのどこが無観客試合だというのか。このまったり感は、アジア最終予選というよりも、むしろ天皇杯3回戦に近い。

 ちなみにこの日、無観客試合にもかかわらずバンコクに駆けつけた日本サポーターは、12番ゲートに集結して、精いっぱいの応援をしていた。当然、彼らはゲームを見ることはできない。それでも、日本の最終予選突破を祈願して、壁の向こう側から懸命に魂を送っていたのである。それを考えると、私の目の前で「きゃあきゃあ」と騒いでいるVIPの集団が、何やら非常に許し難い存在に思えてきてしまう。
 もっとも、こうした「偽VIP」は、決して北朝鮮の関係者だけでなく、地元のタイ人もかなりいたし、数は多くはないものの日本人もいたようである。いずれにせよ、この日のスタンドには、メディア関係者でも大会運営スタッフでもない人間が、おそらく1000人以上はいた。そう、この試合は断じて「無観客試合」などではなかったのだ。


また浅野は<「観戦」した村上龍氏の独善記事>との見出しで6月9日付読売新聞朝刊の記事を紹介している。
わたしを囲んだ「北朝鮮のVIP」たちの集団は、サッカーというゲームを知らない人たちばっかりだった。金日成バッジを胸で輝かせているおばさんたちは、状況に関係なく選手がボールを持てばそれだけで耳障りな嬌声を上げるし、日本にボールが移ると、別に危険な局面ではないのに金属的な悲鳴を上げる。

浅野健一、宇都宮徹壱、村上龍、同じ現場にいてどうして認識が違うのだろう。
宇都宮と村上の叙述はかなり符合するから、多数決でそれが正しいということか。

ネット上にはすでに無くて原文を確認することはできなかったが、浅野が傍証としてあげているのは6月9日付の次の二つの英字紙記事だ。
「無観客試合のはずなのに、日本のプレスという名の小軍隊と、メディアではない日本の人々がどこからか潜り込んでいた。」(バンコク・ポスト)
「日本は自国の報道陣とVIP招待客を含む国民の前で勝った」(ネーション)

いずれにせよ、スタンドにいた約1000人とグラウンドの選手たちは事実を知っているのだから、どちらの言い分が正しいのかはそのうち明らかになるだろう。

問題は、それを「無観客試合」と報じたマスメディアだ。
浅野のまとめによるとそれはこんな具合だった。
 日本では「見えるのは警官、警備員だけで、静まり返ったスタンドで行われた」と報道し、テレビ中継もメインスタンドの群集を一切映さなかった。スタンドで取材した記者なら、「タイ警察の警察約二百人の姿がやけに目立つ」(日経)ということではなく、千数百人の入場者がいたことが分かったはずだ。
 6月9日の朝刊各紙は、「3万人以上は入れるスタンドはほぼ無人だった」(朝日)、「試合終了を告げるホイッスルが観客のいないスタンドに反響した」(毎日)、「数百人の報道陣や協会関係者の一角を除き、がらんとしている」(読売)、「無観客、静寂の競技場」(日本経済)と伝えた。

なぜそんなことで一致団結して事実を隠す必要があるのだ。
僕にとっては些細なことだから、なおさら不気味だ。
いや、観客がいたかいなかったか、あるいはどちらの観客が多かったのかが重要問題だとしよう。
だとしても、1000人の目撃者がいるにもかかわらずウソを報ずる姿勢というのはいったい何なのだろう。

過去の史実が改ざんされたのではない。目前の、現在進行形の事実が堂々と改ざんされるのだ。
テロにせよ、政治イベントにせよ、映像で見たからといってそれが真実を映し出しているとは限らないし、マスメディアがこぞって同じことを言っているからのいって正しいわけではないのだ。
その教訓としてこの件は記憶にとどめておきたい。
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虐待「不安」の増加

<臆病の蔓延>に出てきた『「心の専門家」はいらない』の中に児童虐待についての記述がある。
<「民事不介入」と児童虐待>のつづきとして。しかし違う観点から。「誰のせいで問題が顕在化しなかったのか」ではなく、そもそもどういう状況を背景にして虐待が起こるのか、あるいは問題化されるのかということだ。
 叩いてしまったり抱きしめたり、怒鳴ったり甘やかしたり。子どもに一貫した態度など取れないものだ。折檻をすれば誰かが仲裁してくれたり、子どもが誰かのところへ逃げていったり。そんな具合に日が過ぎて、子どもは大きくなっていく。いろいろな親があり、子にとって迷惑な親でもそれは如何ともしがたく、ただ関係が閉ざされてさえいなければ、大概のことは折り合いがついていく。親子の関係はいつの時代も、そんなものであったろう。
 ただし、関係が閉ざされていなければ、という一語が重要だ。虐待の場は、きまって閉ざされている。声を掛けていく人、おせっかいを焼く人がいなくなり、おたがいが無関心になれば、虐待は増えていく。人の関係がどこでも閉ざされていくこと自体にわたしたちが危機感を持たなければ、この状況を変え始めることはできない。
 ところが、事態は別の方向に進んでいる。人びとがつながりやすい条件の援助ではなく、専門家と行政による対応の充実の方向である。人びとは気になることがあると、その家族に直接声をかけずに、行政に通報するようになった。
[…]
 「最近は虐待する親が増えてきた」と報道されるが、必ずしもそれだけではない。虐待にスポットを当てて行政と専門家が対応する件数が増えているのである。(p49-50)

行政や専門家に頼るということはそれ以外の関係に頼らずに済ますということであり、虐待の原因である「閉ざされた関係」をますます強化あるいは免罪するという構造になっているということのようだ。

かと言って現実の「閉ざされた関係」自体が変わるのを待ってから虐待問題に取り組みましょう、というわけにもいくまい。その間に子どもはますます傷つけられたり殺されたりしてしまうだろうから。社会的な原因を解消することにはならなくとも、当の親子の困難には対症療法的な行政や専門家の介入が必要な社会になっているということだろう。

だがマスコミのはたらきも加わって、本来なら“必要のない”介入を産み出しうるという。
 相談現場から語られる疑念をその記述(戸垣香苗・瀬川三枝子「児童相談所から見えてきたこと」『社会臨床雑誌』第9巻1号--引用者)からいくつか引かせてもらうことにしたい。
 第一に、マスコミに煽られた虐待不安が作られ、広がっているのではないかということだ。「2000年11月に虐待防止法が施行されてから、『虐待してしまうかもしれない』という不安を訴えてくる親が多くなっている。この間のマスコミ報道が、育児不安を煽っているのではないかと思う。虐待への不安をさらに一歩進めて、『子どもが嫌いだから虐待しそう、だから他の人に育ててほしい』という話が持ち込まれてくる。マスコミ報道に付随して心理学が送り込んでくる知識をどう崩していくのかが大変」。専門性をちりばめたマスコミ報道にひきずられる社会が、この現象を作り出している面がある。実際、わたしのところにも、知り合いの若い母親から個人的に虐待不安の声が届いてくる昨今だ。アダルトチルドレンや親からの暴力の再生産などの心理学情報も、そこに絡まっていることが多い。(p.50-51)

「マスコミが無視してきた」ことよりも「マスコミが問題化した」ことの問題性を指摘している。
“ことば”が与えられることによってその存在が明示化され、それまで気づかれなかった差別や抑圧に光があてられるようになるということはとりあえず「良い」ことのように感じられるだろう。
「セクハラ」とか「DV」とか、抑圧構造の中で「そんなもの」と見なされていた事態が実は問題があるものだとして発見された。

だが他方で、それが育児に対するよけいな「不安」を広げるという効果をももたらしているのだとすれば、相談件数の急増は必ずしも虐待そのものの急増を反映するものではないということになる。
一般に、事件数にせよ相談件数にせよ、統計的な増加現象が (1)事実が増えた (2)認識が増えた に加えて (3)意味が拡大した ということを意味する可能性がありそうだ。このことには注意しなければならないと思う。

「セクハラ」という“ことば”についてもこのことが言えそうで、「セクハラだ」と言えばなんでもセクハラなのかブログ--現役一橋大学生が卒論で考える、セクハラと表現の自由。私たちに「下ネタを喋る自由」はないのか? で問題にされているように、差別や抑圧の構造がないところにも拡大適用されて糾弾の根拠になるということが起こりえる。
(ある団体が、冬のソナタをパロディ化したミュージカルを始めた。
パク・ヨンハ役が言う。「君は、チェを傷物にしてしまった」
ペ・ヨンジュン役は答えて「傷物・・・、何のことだい?」
するとチェ・ジウ役が現れる。「あなた(注・ペのこと)への思いが私の中で大きくなりすぎて・・・私の中で大きく・・・、ていうかあんた大きすぎ、大きすぎだよ、羽賀研二だよ、ハガケン、ハガケン、サガケン!」
---これがセクハラだとされて電源を切られて公演中止に至った。誰を傷つけたんだろう?)


だから「大騒ぎするな、たいした問題ではない」ということではない。実際の虐待と、虐待(してしまう)かもしれないという不安とは区別しつつ、両者を生み出す社会的根拠のところを対象に据えなければいけないということだろう。

次の問題。
 第二に、行政や専門性が上に立って親を判定する構図が進行していることだ。「虐待の防止マニュアルがあって、親子関係でピックアップしたものが項目に当てはまれば虐待になる。客観的にやっているように思えるが逆にこわい。親の知らないところで虐待になってしまう」。[…]
 親子の関係は戸垣の言うとおり、「この親にこの子あり」のそれぞれの世界で、比べる問題ではない。親の姿も複雑だ。チェックリストで描けるほど、人間は単純ではない。[…]マスコミ報道だけで「鬼のような親像」をわたしたちは勝手に思い描き勝ちだが、それは観客席のひとりよがりなのだと思う。(p.51-53)

マニュアル化と上からの判断によって個別性と自律性が見失われる。
第三者が判断を加える以上、ある程度のマニュアル化は仕方のないことのようにも思える。そのせいで実態を正確に把握できないとすれば、それは第三者に判断をゆだねること自体がはらむ問題だろう。

親はなぜ判断をゆだねようとするのか。
 戸垣と瀬川が語る問題の第三点目は、大人が子どもにつきあえなくなっている現実だ。行政や専門家が「正しい」規準で対応しようとすれば、親自身はそこにまかせて、ごたごたした苦労から手を引こうとする。「妻が子どもにつらく当たる、虐待ではないか、と相談を仰ぎにくる父親がいた。自分が体を張るのではなく人にやってもらって責任のがれをしたいのだと思う。[…]親がもう子どものトラブルにつきあうのがしんどいらしい、いや面倒くさいのかもしれない。何しろ傷つくことは、大人のほうが怖いのだ。取り返しのつかないように感じ、怯えているとしか思えない」。
 […]日常の生活の核にある人と人との関係、すなわち近隣や友人知人、親子や夫婦の関係を自分たちで引き受けていくかわりに、引き受け先に手軽にゆだねようとすることの問題である。
 関係をどう引き受けていくかは、生き方の基盤であるが、それは手間ひまがかかり模索と工夫と辛抱が必要なものだ。だからこそ自分のもの自分たちのものと感じることができる。しかし人の関係にかかわる領域の引き受け先が出現すると、そこにゆだねる流れができる。しかも専門性の名のもとの「望ましい」方法なのだ。「ラクをしてよろしく生かしてほしい」との願望と、仕事とするからにはそこに応え、しかも顧客を増やそうとする消費社会の法則が呼応して、その流れを加速させる。「正しい親子関係、人間関係」の枠に人びとを管理しようとする行政の動きがそれに加わる。その事態を黙認してしまえば、人と人との関係は自分たちの手をはなれ、人は「生かされる消費財」としていっそう浮遊することになるであろう。

傷つきたくない、面倒は避けたい、責任から逃れたい、相手と向き合いたくない、という姿勢が第三者への依存を招いているとすれば、それは虐待や虐待不安そのものの根拠でもあるだろう。
そしてそれは「厳しくしつけてやってください」「学校で禁止してください」といった学校依存と同根であろうし、さらに子どもの顔色をうかがって好きなものを与えつづけるような態度をも生み出しているだろう。

つまり、「思い通りにならないから」と虐待するにせよ、外部の権威に頼っておとなしくさせるにせよ、カネやモノでご機嫌をとるにせよ、性根としては同じだということなのかもしれない。

この事態--関係を手間ひまかけて引き受けることができない--が親子関係にだけ起きていることではないとすれば、僕たちにとっても身近な問題なのであろうし、またそのぶん深刻なのだと思う。
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【転載】寝屋川事件とゲーム

藤川大祐 授業づくりと教育研究のページから転載させていただく。藤川さんは千葉大学教育学部助教授(教育方法学・授業実践開発)。ほかにも興味深い考察が読めそうだ。
2005.02.15
寝屋川での小学校教職員殺傷事件について緊急コメント

 昨日、大阪府寝屋川市の小学校で、卒業生である17歳の少年が教員1名を殺害し、2名の教職員に重傷を負わせるという事件が起こった。教育に関わる者として、加害者に対して憤りを覚える。被害に遭われた方や関係の皆様に対して、何と言ってよいかわからない。

 この事件については、加害者の供述がほとんど報じられておらず、背景はよくわからない。しかし、加害者が小学校低学年の頃からテレビゲーム好きであり、小学校の卒業の際にはゲーム雑誌の編集者かゲームの3Dのデザイナーになりたいと書いていたこと、中学から不登校でゲームばかりやっていたらしいこと等から、テレビゲームと事件との関連が話題になりつつある。私はテレビゲームに関わる授業実践に携わってもいるので、この事件についての現段階でのコメントを、以下に記しておく。

1)大阪教育大附属池田小の事件以来、学校は外部からの侵入者への警戒を強めてきた。今回の事件も侵入者の犯行であるため、学校の安全対策が話題になることはあるであろう。もちろん、模倣犯への警戒等、学校関係者は安全対策を再点検することになろう。だが、完璧な安全などありえない。全国に何万件もある学校で、外部からの侵入者が殺人を企てた数は、ごくわずかである。こうした事件で子どもや教師が被害に遭う確率は、交通事故に遭ったり誘拐されたりする確率よりも、おそらくずっと低いであろう。学校の安全対策について、冷静な議論がなされることを期待する。

2)加害者の家庭環境についてはまだ何もわからないが、小学校低学年からのゲーム漬けは望ましくないはずだ。幼いうちは、身体を使って遊んだり、さまざまな人とコミュニケーションしたり、たっぷり睡眠をとったりすることが重要なのであり、長時間ゲーム漬けになることは、他の時間を奪うことになる。もちろん、ゲーム漬けが殺人に直接結びつくわけではないだろうが、時間管理のできない幼い子どもにゲームを与えることはまずいということを、私たち大人は再確認すべきであろう。

3)加害者が小学生時代からゲームに関わる仕事をしたいという夢をもっていたこと自体は、悪いことではない。しかし、ゲームに関わる仕事はゲームにのめりこむだけではできないということを、おそらく学んでいなかったのであろう。私たちの「テレビゲーム・リテラシー」の授業に協力くださったエンターブレイン(『週刊ファミ通』の発行会社)社長の浜村弘一さんは「現実の世界のもの、サッカーや野球をまずやってみてください」と言っている。また、ゲームクリエイターの飯塚隆さんも、「ゲームをたくさんした人が、デザイナーになれるわけではない。むしろ現実の社会でいろんな見聞を広め、楽しいこと新しいことをたくさん吸収し、それをゲームの世界でうまく取り入れることのほうが大切だ」と言っている(以上のインタビューは『週刊朝日』2005年2月18日号「テレビゲームにはまらない子の育て方」より)。こうしたゲーム関係者の言葉を、ゲームにはまる子どもたちにもっともっと伝えたい。

4)今回の事件と直接関連づけたくはないが、テレビゲームは、産業としては日本の貴重な輸出産業であり、ゲームクリエイターは子どもたちに人気の職業であるので、社会科やキャリア教育の枠組みで、もっとテレビゲームのことを扱うべきである。私は以前からこのように考えて、企業教育研究会で継続的にこの問題に取り組んできた。こうした取り組みを、今後も積極的に進めていきたい。

5)衝撃的な犯罪が起こると、私たちは何かに原因を帰属させて落ち着こうとする。だが、同様の事件が続発しているのでもない限り、原因は加害者本人に求められるべきである。安易に学校の安全対策やテレビゲームの問題に原因を帰属させてはならない。
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臆病の蔓延

『OK?ひきこもりOK!』より(p.45)。(以下太字は引用者)
彼らは、どこかにいるはずの完璧な理解者を求めているんです。[…]自分を100%理解してくれる理想の相手がどこかにいて、その人とはコミュニケーションしたい。逆に言えば、自分をわかってくれない相手は、すべてシャットアウト。コミュニケーションへの憧れが強すぎるあまり、見かけ上はどんどん自閉的になるという逆説が、ここにあるわけです。

斎藤環氏によるひきこもりの「彼ら」についての見方だ。
「それはかわいそうな人たちだ」
と哀れんでいられるだろうか?

人間関係に臆病なのは彼らだけではないだろう。

小沢牧子『「心の専門家」はいらない』(洋泉社、2002年)には次のような記述がある(p.36-37)
 「心の専門家」待望の背景には、人間の関係に渇望しながらそれをおそれる人びとの心情が渦巻いている。[…]
 安心できる何かに頼りたいという心もとなさが、「心の専門性」をうたう権威への依存心を強めている[…]できることなら日常の関係のなかで安心したいがそれは叶えられないと、人びとはあきらめているかのようである。人との直接的関係をおそれる気分は、あらゆる年代に共通していると感じられる。臆病の蔓延である。大学生たちの場合、その背景は次のように語られる。
 まず、幼いころからおとなたちに絶えず評価のまなざしで見られてきたと感じていることである。「わたしは親にずっと否定されてきたと感じている。いつも、もっと頑張れと言われ、これでいいと認められることがなかった。自分をともかく肯定してもらいたい。それをカウンセリングに求めるのだ」「わたしたちはずっと、親や教師にいつも評価のまなざしで見られ、いわば値踏みされてきた。そして自分も他人をそのまなざしで見るようになっている。おたがいを値踏みしあう、それがわたしたちの日常の人間関係なのだ」などに、その心情が表現されている。個人=自分が強く意識させられる情報・消費社会のなかで、他から認められたいという欲求はエスカレートするが、意に相違して、おとなたちは子どもを認めない。まだまだ、もっと頑張れの言葉がふりそそぐ。子ども・若者にしばしば使われる「傷つく」という言葉も、この事態に関係しているのであろう。

<寂しいけど深入りしたくない>
<人間関係は苦手だけど友だちはほしい>
<傷つきたくないけど理解されたい>
という気分についてはいろいろなところで論じられている。
この種の問題について僕が最初に目にしたのは大平健『豊かさの精神病理』(岩波書店、1990年)だったと思う。
「モノ語り」をキーワードにして、ブランドもので身を固める=身を守るなどのふるまいの背後にある対人関係の変化を読み解こうとしていた。
対人関係上の葛藤について、葛藤を避けるふるまいを身に付けているがゆえに親しい人にも相談できない。深入りすることでお互いが傷つくかもしれないから。
葛藤を避けるからこそ成り立っている“親しさ”なのだから、そこに葛藤を持ち込むようなことはできない。
だから、“第三者”であるクールな立場の精神科医に相談して判断をゆだねる…
小沢氏の言う「心の専門家への依存」が生まれるのに似た構図が描かれていた。

『豊かさの精神病理』は15年前に出版されたものだから、問題は「いまどきの若者」に特有のものではすでにないだろう。
“臆病”は再生産されつつ蔓延しているということになるのではないか。
(余談:僕は共通一次第一世代だが、70年代の終わりから大学で心理学の人気が高まっていた。関係はありやなしや。そういえば、ブランドを軽やかに消費する『なんとなく、クリスタル』の世界もそのころから顕在化したのだったか? 「熱い議論」や「まじめな話題」が疎んじられはじめたのもそのころかもしれない。)

ひきこもりがその“臆病”のひとつの形であって社会への適応の一種だと考えれば、ひきこもってない人がひきこもっていないのは偶然のたまものだと言うこともできよう。
「一般人」--運よく殺人者にも、強姦者にも、またロリコンにも被強姦者にもまた拒食症にも過食症にもならなかった人々は、そうした「異常」の部分をつねに、社会からの逸脱、そのような異常を犯した個体自体の異常性に原因を帰して考えたがる。そのことで「自分は正常である」という安心感を得、それによって「自分は適応している」ということを確かめたいからである。(中島梓『コミュニケーション不全症候群』筑摩書房、1991年)

誰もが殺人者や強姦者やロリコンetc.になり得た。でもそのことより、抱えている問題は同質のものであり得るということに注意を喚起したい。

すると次の問題はその「同質の問題」がどのように生じるのかということになる。
大学生の声として紹介されていた「自分を肯定してもらいたい」「値踏みされたくない」という意識をヒントにすれば、<本音を聞いてもらえる=存在を肯定して受容してもらえる>経験の欠如はどのようにして起きてきたのかということに言い換えられるだろうか。
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ひきこもりの犯罪?

おとといから斎藤環『OK?ひきこもりOK!』(マガジンハウス、2003年)を読み始めたところ。そこに、小学校教諭を刺殺の17歳が「引きこもり傾向」の報道。
世の中のひきこもりの人々はますます引きこもってしまうんじゃないかなー、とまず思った。

<ひきこもり→ヘンな人→犯罪しそう>

という図式がもしぼんやりとでも頭にあれば、ひきこもり“だから”そんなことしたのだろうと一応の納得をして安心してしまうのかもしれない。逆に、自分の子どもがひきこもっていれば「うちの子は大丈夫か?」と不安になるのだろうが。
だが斎藤氏はひきこもりが増えると犯罪率は減る、と推測する。長期間ひきこもっていると欲望そのものが希薄化し、エネルギーのいるアクティング・アウト(行動に移すこと)に至ったりしなくなるからだという。(p.47-48)

マスメディアは「ひきこもり」だけでなく「いじめ」「茶髪」「テレビゲーム」「インターネット」などをキーワードに設定してなんとか読み解こうとしているが、詳しく分かってみれば見当違いだらけだったということは十分にあり得る。断片的な情報を元にしてなんとか理解可能な形で伝えたいという意図はわかるのだが、当てにはなるまい。
犯人だと決まったわけではないのに「どうしてこんなことをしたんでしょうね」と心理分析してみせたり、容疑者の影も見当たらない段階で「どんな人がやったんでしょう」とプロファイリングしてみせたりするのに似て何だかこっけいだ。

今日あたりから、ひきこもってばかりでもなかったようだという情報が流れ始めた。オートバイを乗り回して事故った、とかお姉さんに手伝ってもらいながら大検に合格したとか。
今後の標的はゲームやインターネットにしぼられていくだろうか。「ゲーム脳」の森昭雄氏も動員されていたし、尾木直樹氏は「殺人サイト」で煽られたのではないかと憶測しているし。

だが“きっかけ”レベルのことをあれこれ論じてみてもあまり実りがあるようには思えない。
今日における対人関係不全がどのように醸成されていくのかという問題の方が根本的だろうし、しかも誰もが自らの抱える状況として直視なければならない論点だろう。「ひきこもり」や「ゲームのめりこみ」や「ネット依存」とは無関係な人間にとっても無関係ではないということだ。
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ゲーム脳?

森昭雄『ゲーム脳の恐怖』(日本放送出版協会、2002年)は売れたらしい。何部くらい売れたのか調べるのは面倒だが、僕の持ってるやつが4ヶ月少しで七刷り目に達しているから、けっこうな勢いだったと思われる。ググると40800件ヒットするから、新語にしては「ゲーム脳」の知名度は相当のものではないか。

だがことばの衝撃度に劣らず、その内容のお粗末さも衝撃的らしい。
「ティービーゲームドットコム」の「斎藤環氏に聞く『ゲーム脳の恐怖』」)の目次を以下に。
『ゲーム脳の恐怖』は間違いだらけ/「脳波」に関する初歩的な間違い
アルファ波は「徐波」ではない/イーオス社のプロモーション?
脳波の現物がないのもおかしい/前頭前野しか測れない脳波計
そもそもいったい何を測りたかったのか?/「不関電極」をおでこにつけるのも間違い
脳波を測るならちゃんとした脳波計で/正しい脳波の測りかた
こんな人に脳波のことを語ってほしくない/森昭雄氏の知識はシロウト以下
少年犯罪は増えてない/「ストレス」に関する間違い
「医学博士」は医者じゃない/「反射神経」に関する間違い/ゲーム業界にも後ろめたさがある?

かつて当該の書籍を手に入れる前にその内容を紹介したAERAの記事を元にして授業で紹介したら、レポートで「プロパガンダのお先棒をかついでる」と学生にこっぴどく叱られてしまった。反省。
このサイトを読むと、科学的装いをもったもっともらしさの仕組みがわかる。

森昭雄氏のさらに刺激的な題名の『ITに殺される子どもたち』(講談社、2004年)では明らかな印象批評というか、決め付けが目に付いてそのいかがわしさは分かりやすくなるのだが、むしろさらに不安感を醸成する効果を上げたのかもしれない。
例えば、
 最近ではテレビやビデオにどっぷりつかり、映像の中身が子どもたちに悪影響を与え、それによって子どもがまるで洗脳されたかのように、極悪非道の犯罪行為まで起こすようになってきています。(p.6)
 かつて起こった少女誘拐事件のうち、アニメおたくの青年二人が犯人だったというものがありました。仮想現実と、本当の現実との区別がつかなくなっていたのでしょう。アニメのビデオを見つづけたため、少女を自分たちのそばにおいておくことに、なんの抵抗も感じなくなってしまったという、アニメに洗脳された例です。(p.100-101)

もっともらしいだろうか。少なくとも、α波やβ波をいくら調べてもその脳に「極悪非道のこころ」とか「仮想と現実の混同」とかが存在することは証明しようがない。
『ネット王子とケータイ姫』では坂元章氏の「「ゲーム悪影響論」の議論はほぼ五年のサイクルで繰り返し起こる」という調査結果を紹介しつつ、悪影響論を受け取る側の問題を提起している。
 これまでの常識では理解しがたい事件などが起きて不安や不気味さを感じているときに「原因はゲームなのです」というわかりやすい説明が与えられると、その科学的根拠や実証性はともかく、人々は「そうだったのか! やっぱり」と受け入れようとする […]やや皮肉めいた言い方をあえてすれば、「ゲーム脳」こそ人々が待ち望んでいた概念だったのだ。(p.49-50)
 「ゲーム脳」がどれほど科学的に信頼性がある仮説かよりも、その概念で自分が抱えていた不安や疑問がどれくらい払拭されたかが、大切なのだ。(p.55)

分かりやすい物語を求め、“犯人”にレッテル張りして安心しようとする意識が安易な結論を得ようとする。この問題に限らず、犯罪や事件においても同じメカニズムが働くだろう。マスメディアはそういう社会意識を反映ないし代行して説明を与える。
森氏は『ITに〜』で「ひんぱんにテレビゲームをしていたため、むだな神経ネットワークを使うことなく、適切なボタンを素早く押せるようになっただけのことです。脳の神経ネットワークが単純化された結果だということもできます。」(p.100)と述べる。
だがむしろ単純化されているのは<メディア→脳→行為>という図式の中で説明できるとする神経の方ではないか。
レッテル張りすることで不安感をとりあえず払拭することはできるかもしれないが、そこから立てられる対策は的外れに終わるだろう。

余談。
レッテル張りはそれなりのリアリティを備えていなければ受け入れられることはないだろうが、「ゲーム脳」については最近の「脳ブーム」と言えるような風潮が後押ししているように感じる。
『平然と車内で化粧する脳』『平気で暴力をふるう脳』『女の脳と男の脳』などのネーミングに見える「脳還元主義」的発想や、『脳を鍛える』みたいな自己啓発本および『IQサプリ』の類のテレビ番組の流行がそれだ。
これは何を反映しているのだろう。
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