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▼カンヌ映画祭などでは、ブッシュ米大統領を暗に批判した作品ではないか、と話題を集めた。イラク戦争を進めるため、国民の自由を制限し、権力を集中した経過と似ているという▼たとえばこんな場面だ。悪役ベイダーが戦いを前に「わたしに味方をしないなら、おまえは敵だ」とすごむ、どこかで聞いた白黒の二文法。「わたしは平和と正義、自由と安全をこの帝国にもたらした」と豪語するせりふなども、大統領演説と印象が重なる▼周囲の人は独裁者にだまされてゆく。ヒロインが不安をつぶやいた。「民主主義が滅んで、この共和国そのものが悪になっているのでは?」「自由はこうして死んでゆく。万雷の拍手を受けながらね」▼ブッシュ支持派は怒って鑑賞拒否を呼びかけた。当のジョージ・ルーカス監督は、大統領を直接批判する意図を否定しつつ、現実の政治を意識していると認めた。ファンのスリルをかき立てた六部の大作は、論争を残し終幕となった
「本物」を自衛隊がほとんどタダ同然に貸してくれるのだから、映画会社にとってこんなおいしい話はない。憲法改正の動きでタカ派勢力が活気づいているから、自衛隊の宣伝になれば観客動員も見込める、企業側の思惑は一見単純で、とくに政治的意図があるとは見えないが、とてもそうはのんびりしておれない。何よりも防衛庁=自衛隊が協力するからには、必ず協力条件がつく。端的にいえば自衛隊に有益であること。
たとえば「戦国自衛隊1549」は富士山麓の演習場に大がかりな戦国時代の城のセットを建て、戦闘ヘリコプターや戦車を無償で使わせてもらった。ただ防衛庁当局がくどいほど念を入れたのは「どんな事態になっても、自衛隊が先に発砲しないこと。専守防衛ですから」と。ひどく憲法に気を使っているのは見ておどろかされる。実際の画面ではその通り、タイムスリップした自衛隊部隊が、どんなに織田軍の攻撃を受けて、犠牲者が出てもいちいち指揮官に連絡をしないと発砲できない。観客は「射てばいいじゃないか」と思ってしまう。結局「専守防衛」と戦闘部隊である自衛隊との矛盾を「交戦権」肯定に導くのではないか。
「亡国のイージス」では反乱を起こしたイージス艦が、僚艦に撤退を求める。「撤退しないと艦対艦ミサイルで攻撃する。しかし貴艦は海上自衛隊の規則で先制攻撃はできないから、撤退しか道はない」と通告。僚艦は拒否して反乱イージス艦のミサイル攻撃で爆沈する。「某国」(だれが見ても北朝鮮)工作員は「撃たれる前に撃て、それが戦争の原則だ」とくり返し強調する。ここでも「交戦権」を認めない現憲法第二項の規定が、いかに彼らにとってカセになっているか、早くそのカセを外したがっているかが、歴然だ。
日本の2得点と試合終了のホイッスルの瞬間には、メインスタンドで大きな拍手と大歓声が起きた。まるで日本の「ホーム」試合のようだった。
[‥]
朝鮮側のVIPはバンコクにある朝鮮の大使館関係者ら約50人。朝鮮から来た人はゼロ。朝鮮から来ていたのは選手とコーチ2人だけだ。日本からの在日朝鮮人蹴球協会の関係者が10人。ピョンヤンからは報道機関の人は1人も来ていなかった。このほか、韓国メディアが20人。タイを含むその他の外国メディアは計約100人。
一方、日本は報道だけで556人。日本人VIPは約200人以上いたと思われる。「在タイの日本大使館、日本人会がVIPパスを発行してもらったのではないか。FIFAのスポンサーになっている日本企業もVIP券を発行したのではないか」と地元記者は見ている。従って、約1000人のうち約800人は日本人だとアート氏(タイ・サッカー協会事務局員--引用者)は言った。
それにしても無観客試合とは、果たしてどのようなものなのか―― 今日のゲームの重要性を十分認識した上で、それでも私は生涯で初めて目にする無観客試合というものに、猛烈な好奇心と憧憬(しょうけい)を抱きながらスタジアムの門をくぐった。とりあえず、メーンスタンドを駆け上がって、ぐるりとスタジアムを見渡してみる。確かに、バックスタンドと両方のゴール裏はポッカリと無人になっていた。しかしながら、メーンスタンドには妙に人がいるではないか。それも、どう見てもメディア関係者でも大会運営スタッフではない、家族連れやカップルの姿が目立つ。彼らはいったい、何者なのだろうか。
私の席の付近では、アジア系の人々が数十人、一区画を陣取っていた。相ぼうや話している言葉からして、北朝鮮の人々であることは間違いない。うちわのようにあおいでいるIDカードには「VIP」と書かれてあったので、おそらく在バンコクの大使館関係者の家族と思われる。それも、かなりのエリート層に属しているのであろうか。大人も子供も一様にいい服を着ていて、何ともふくよかな顔つきをしている。
そんな彼らが、試合が始まると北朝鮮のプレーに一斉に拍手したり、歓声を挙げたりするものだから、無観客試合の不条理を期待していた当方としては、大いに面食らった。いったい、これのどこが無観客試合だというのか。このまったり感は、アジア最終予選というよりも、むしろ天皇杯3回戦に近い。
ちなみにこの日、無観客試合にもかかわらずバンコクに駆けつけた日本サポーターは、12番ゲートに集結して、精いっぱいの応援をしていた。当然、彼らはゲームを見ることはできない。それでも、日本の最終予選突破を祈願して、壁の向こう側から懸命に魂を送っていたのである。それを考えると、私の目の前で「きゃあきゃあ」と騒いでいるVIPの集団が、何やら非常に許し難い存在に思えてきてしまう。
もっとも、こうした「偽VIP」は、決して北朝鮮の関係者だけでなく、地元のタイ人もかなりいたし、数は多くはないものの日本人もいたようである。いずれにせよ、この日のスタンドには、メディア関係者でも大会運営スタッフでもない人間が、おそらく1000人以上はいた。そう、この試合は断じて「無観客試合」などではなかったのだ。
わたしを囲んだ「北朝鮮のVIP」たちの集団は、サッカーというゲームを知らない人たちばっかりだった。金日成バッジを胸で輝かせているおばさんたちは、状況に関係なく選手がボールを持てばそれだけで耳障りな嬌声を上げるし、日本にボールが移ると、別に危険な局面ではないのに金属的な悲鳴を上げる。
日本では「見えるのは警官、警備員だけで、静まり返ったスタンドで行われた」と報道し、テレビ中継もメインスタンドの群集を一切映さなかった。スタンドで取材した記者なら、「タイ警察の警察約二百人の姿がやけに目立つ」(日経)ということではなく、千数百人の入場者がいたことが分かったはずだ。
6月9日の朝刊各紙は、「3万人以上は入れるスタンドはほぼ無人だった」(朝日)、「試合終了を告げるホイッスルが観客のいないスタンドに反響した」(毎日)、「数百人の報道陣や協会関係者の一角を除き、がらんとしている」(読売)、「無観客、静寂の競技場」(日本経済)と伝えた。
叩いてしまったり抱きしめたり、怒鳴ったり甘やかしたり。子どもに一貫した態度など取れないものだ。折檻をすれば誰かが仲裁してくれたり、子どもが誰かのところへ逃げていったり。そんな具合に日が過ぎて、子どもは大きくなっていく。いろいろな親があり、子にとって迷惑な親でもそれは如何ともしがたく、ただ関係が閉ざされてさえいなければ、大概のことは折り合いがついていく。親子の関係はいつの時代も、そんなものであったろう。
ただし、関係が閉ざされていなければ、という一語が重要だ。虐待の場は、きまって閉ざされている。声を掛けていく人、おせっかいを焼く人がいなくなり、おたがいが無関心になれば、虐待は増えていく。人の関係がどこでも閉ざされていくこと自体にわたしたちが危機感を持たなければ、この状況を変え始めることはできない。
ところが、事態は別の方向に進んでいる。人びとがつながりやすい条件の援助ではなく、専門家と行政による対応の充実の方向である。人びとは気になることがあると、その家族に直接声をかけずに、行政に通報するようになった。[…]
「最近は虐待する親が増えてきた」と報道されるが、必ずしもそれだけではない。虐待にスポットを当てて行政と専門家が対応する件数が増えているのである。(p49-50)
相談現場から語られる疑念をその記述(戸垣香苗・瀬川三枝子「児童相談所から見えてきたこと」『社会臨床雑誌』第9巻1号--引用者)からいくつか引かせてもらうことにしたい。
第一に、マスコミに煽られた虐待不安が作られ、広がっているのではないかということだ。「2000年11月に虐待防止法が施行されてから、『虐待してしまうかもしれない』という不安を訴えてくる親が多くなっている。この間のマスコミ報道が、育児不安を煽っているのではないかと思う。虐待への不安をさらに一歩進めて、『子どもが嫌いだから虐待しそう、だから他の人に育ててほしい』という話が持ち込まれてくる。マスコミ報道に付随して心理学が送り込んでくる知識をどう崩していくのかが大変」。専門性をちりばめたマスコミ報道にひきずられる社会が、この現象を作り出している面がある。実際、わたしのところにも、知り合いの若い母親から個人的に虐待不安の声が届いてくる昨今だ。アダルトチルドレンや親からの暴力の再生産などの心理学情報も、そこに絡まっていることが多い。(p.50-51)
第二に、行政や専門性が上に立って親を判定する構図が進行していることだ。「虐待の防止マニュアルがあって、親子関係でピックアップしたものが項目に当てはまれば虐待になる。客観的にやっているように思えるが逆にこわい。親の知らないところで虐待になってしまう」。[…]
親子の関係は戸垣の言うとおり、「この親にこの子あり」のそれぞれの世界で、比べる問題ではない。親の姿も複雑だ。チェックリストで描けるほど、人間は単純ではない。[…]マスコミ報道だけで「鬼のような親像」をわたしたちは勝手に思い描き勝ちだが、それは観客席のひとりよがりなのだと思う。(p.51-53)
戸垣と瀬川が語る問題の第三点目は、大人が子どもにつきあえなくなっている現実だ。行政や専門家が「正しい」規準で対応しようとすれば、親自身はそこにまかせて、ごたごたした苦労から手を引こうとする。「妻が子どもにつらく当たる、虐待ではないか、と相談を仰ぎにくる父親がいた。自分が体を張るのではなく人にやってもらって責任のがれをしたいのだと思う。[…]親がもう子どものトラブルにつきあうのがしんどいらしい、いや面倒くさいのかもしれない。何しろ傷つくことは、大人のほうが怖いのだ。取り返しのつかないように感じ、怯えているとしか思えない」。
[…]日常の生活の核にある人と人との関係、すなわち近隣や友人知人、親子や夫婦の関係を自分たちで引き受けていくかわりに、引き受け先に手軽にゆだねようとすることの問題である。
関係をどう引き受けていくかは、生き方の基盤であるが、それは手間ひまがかかり模索と工夫と辛抱が必要なものだ。だからこそ自分のもの自分たちのものと感じることができる。しかし人の関係にかかわる領域の引き受け先が出現すると、そこにゆだねる流れができる。しかも専門性の名のもとの「望ましい」方法なのだ。「ラクをしてよろしく生かしてほしい」との願望と、仕事とするからにはそこに応え、しかも顧客を増やそうとする消費社会の法則が呼応して、その流れを加速させる。「正しい親子関係、人間関係」の枠に人びとを管理しようとする行政の動きがそれに加わる。その事態を黙認してしまえば、人と人との関係は自分たちの手をはなれ、人は「生かされる消費財」としていっそう浮遊することになるであろう。
2005.02.15
寝屋川での小学校教職員殺傷事件について緊急コメント
昨日、大阪府寝屋川市の小学校で、卒業生である17歳の少年が教員1名を殺害し、2名の教職員に重傷を負わせるという事件が起こった。教育に関わる者として、加害者に対して憤りを覚える。被害に遭われた方や関係の皆様に対して、何と言ってよいかわからない。
この事件については、加害者の供述がほとんど報じられておらず、背景はよくわからない。しかし、加害者が小学校低学年の頃からテレビゲーム好きであり、小学校の卒業の際にはゲーム雑誌の編集者かゲームの3Dのデザイナーになりたいと書いていたこと、中学から不登校でゲームばかりやっていたらしいこと等から、テレビゲームと事件との関連が話題になりつつある。私はテレビゲームに関わる授業実践に携わってもいるので、この事件についての現段階でのコメントを、以下に記しておく。
1)大阪教育大附属池田小の事件以来、学校は外部からの侵入者への警戒を強めてきた。今回の事件も侵入者の犯行であるため、学校の安全対策が話題になることはあるであろう。もちろん、模倣犯への警戒等、学校関係者は安全対策を再点検することになろう。だが、完璧な安全などありえない。全国に何万件もある学校で、外部からの侵入者が殺人を企てた数は、ごくわずかである。こうした事件で子どもや教師が被害に遭う確率は、交通事故に遭ったり誘拐されたりする確率よりも、おそらくずっと低いであろう。学校の安全対策について、冷静な議論がなされることを期待する。
2)加害者の家庭環境についてはまだ何もわからないが、小学校低学年からのゲーム漬けは望ましくないはずだ。幼いうちは、身体を使って遊んだり、さまざまな人とコミュニケーションしたり、たっぷり睡眠をとったりすることが重要なのであり、長時間ゲーム漬けになることは、他の時間を奪うことになる。もちろん、ゲーム漬けが殺人に直接結びつくわけではないだろうが、時間管理のできない幼い子どもにゲームを与えることはまずいということを、私たち大人は再確認すべきであろう。
3)加害者が小学生時代からゲームに関わる仕事をしたいという夢をもっていたこと自体は、悪いことではない。しかし、ゲームに関わる仕事はゲームにのめりこむだけではできないということを、おそらく学んでいなかったのであろう。私たちの「テレビゲーム・リテラシー」の授業に協力くださったエンターブレイン(『週刊ファミ通』の発行会社)社長の浜村弘一さんは「現実の世界のもの、サッカーや野球をまずやってみてください」と言っている。また、ゲームクリエイターの飯塚隆さんも、「ゲームをたくさんした人が、デザイナーになれるわけではない。むしろ現実の社会でいろんな見聞を広め、楽しいこと新しいことをたくさん吸収し、それをゲームの世界でうまく取り入れることのほうが大切だ」と言っている(以上のインタビューは『週刊朝日』2005年2月18日号「テレビゲームにはまらない子の育て方」より)。こうしたゲーム関係者の言葉を、ゲームにはまる子どもたちにもっともっと伝えたい。
4)今回の事件と直接関連づけたくはないが、テレビゲームは、産業としては日本の貴重な輸出産業であり、ゲームクリエイターは子どもたちに人気の職業であるので、社会科やキャリア教育の枠組みで、もっとテレビゲームのことを扱うべきである。私は以前からこのように考えて、企業教育研究会で継続的にこの問題に取り組んできた。こうした取り組みを、今後も積極的に進めていきたい。
5)衝撃的な犯罪が起こると、私たちは何かに原因を帰属させて落ち着こうとする。だが、同様の事件が続発しているのでもない限り、原因は加害者本人に求められるべきである。安易に学校の安全対策やテレビゲームの問題に原因を帰属させてはならない。
彼らは、どこかにいるはずの完璧な理解者を求めているんです。[…]自分を100%理解してくれる理想の相手がどこかにいて、その人とはコミュニケーションしたい。逆に言えば、自分をわかってくれない相手は、すべてシャットアウト。コミュニケーションへの憧れが強すぎるあまり、見かけ上はどんどん自閉的になるという逆説が、ここにあるわけです。
「心の専門家」待望の背景には、人間の関係に渇望しながらそれをおそれる人びとの心情が渦巻いている。[…]
安心できる何かに頼りたいという心もとなさが、「心の専門性」をうたう権威への依存心を強めている[…]できることなら日常の関係のなかで安心したいがそれは叶えられないと、人びとはあきらめているかのようである。人との直接的関係をおそれる気分は、あらゆる年代に共通していると感じられる。臆病の蔓延である。大学生たちの場合、その背景は次のように語られる。
まず、幼いころからおとなたちに絶えず評価のまなざしで見られてきたと感じていることである。「わたしは親にずっと否定されてきたと感じている。いつも、もっと頑張れと言われ、これでいいと認められることがなかった。自分をともかく肯定してもらいたい。それをカウンセリングに求めるのだ」「わたしたちはずっと、親や教師にいつも評価のまなざしで見られ、いわば値踏みされてきた。そして自分も他人をそのまなざしで見るようになっている。おたがいを値踏みしあう、それがわたしたちの日常の人間関係なのだ」などに、その心情が表現されている。個人=自分が強く意識させられる情報・消費社会のなかで、他から認められたいという欲求はエスカレートするが、意に相違して、おとなたちは子どもを認めない。まだまだ、もっと頑張れの言葉がふりそそぐ。子ども・若者にしばしば使われる「傷つく」という言葉も、この事態に関係しているのであろう。
「一般人」--運よく殺人者にも、強姦者にも、またロリコンにも被強姦者にもまた拒食症にも過食症にもならなかった人々は、そうした「異常」の部分をつねに、社会からの逸脱、そのような異常を犯した個体自体の異常性に原因を帰して考えたがる。そのことで「自分は正常である」という安心感を得、それによって「自分は適応している」ということを確かめたいからである。(中島梓『コミュニケーション不全症候群』筑摩書房、1991年)
『ゲーム脳の恐怖』は間違いだらけ/「脳波」に関する初歩的な間違い
アルファ波は「徐波」ではない/イーオス社のプロモーション?
脳波の現物がないのもおかしい/前頭前野しか測れない脳波計
そもそもいったい何を測りたかったのか?/「不関電極」をおでこにつけるのも間違い
脳波を測るならちゃんとした脳波計で/正しい脳波の測りかた
こんな人に脳波のことを語ってほしくない/森昭雄氏の知識はシロウト以下
少年犯罪は増えてない/「ストレス」に関する間違い
「医学博士」は医者じゃない/「反射神経」に関する間違い/ゲーム業界にも後ろめたさがある?
最近ではテレビやビデオにどっぷりつかり、映像の中身が子どもたちに悪影響を与え、それによって子どもがまるで洗脳されたかのように、極悪非道の犯罪行為まで起こすようになってきています。(p.6)
かつて起こった少女誘拐事件のうち、アニメおたくの青年二人が犯人だったというものがありました。仮想現実と、本当の現実との区別がつかなくなっていたのでしょう。アニメのビデオを見つづけたため、少女を自分たちのそばにおいておくことに、なんの抵抗も感じなくなってしまったという、アニメに洗脳された例です。(p.100-101)
これまでの常識では理解しがたい事件などが起きて不安や不気味さを感じているときに「原因はゲームなのです」というわかりやすい説明が与えられると、その科学的根拠や実証性はともかく、人々は「そうだったのか! やっぱり」と受け入れようとする […]やや皮肉めいた言い方をあえてすれば、「ゲーム脳」こそ人々が待ち望んでいた概念だったのだ。(p.49-50)
「ゲーム脳」がどれほど科学的に信頼性がある仮説かよりも、その概念で自分が抱えていた不安や疑問がどれくらい払拭されたかが、大切なのだ。(p.55)