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沖縄基地問題の基本−日本による包摂と差別

※「稚内 憲法を学ぶ会」の学習交流会で報告した内容を会報用に文章化したものです。


1.日本への併合:軍事基地化と同化

 1609(慶長14)年の薩摩による侵攻以来、琉球は薩摩藩と清に両属するかたちとなります。首里城をはさんで北殿と南殿があるのですが、中国風建築の北殿には清からの客を迎え入れ、日本風建築の南殿では薩摩からの客を接待していたといいます。薩摩藩は、琉球と清との関係を継続させることによって琉球経由で貴重な中国物産を入手し、経済力を高めることができたのでした。こうした関係は、米のとれない松前藩が中国物産およびカムチャッカやアリューシャンの物産をアイヌとの交易で獲得し、藩財政を成立させていたのと似ています。

 明治政府は1872(明治5)年には琉球藩を設置しますが、琉球はその段階では清への朝貢関係を絶っていません。しかし当時、列強と比較して軍事力で圧倒的に劣勢な日本は、できるだけ本国から遠方に国境線を引き、国防拠点を確保しようとしていました。そこで北方ではアイヌモシリを奪って北海道の植民地化を進め、南方では琉球を軍事化するために「琉球処分」を行って日本の支配下におきます。“周辺の国々から敵視されてかえって危険を招く”という理由で軍隊を持たなかった琉球でしたが、1879(明治12)年の「沖縄県」設置とともに農民の土地が強制的に収用され、基地化が始まります。沖縄はそのはじまりから軍事基地であり、日本にとっての国防拠点という役割を負わされていたということです。

 他方では、日本による支配を正統化し、日本への帰属意識を持たせるために、歴史認識および風俗・言語の「日本化」教育も行われます。1897(明治30)年、全国で小学校教科書国定化が決定する6年前の段階で、北海道・沖縄用の尋常小学校読本が編集されました。そこでは、源為朝が沖縄に残した子が初代島主となったにもかかわらず、中世以来本土との交通が途絶えたために沖縄人は「日本人であることを忘れた」のであって、あたかも異民族に見えるのは「進歩」が遅れているからだ、というような価値観が謳われていました。琉球語も日本語の一方言なのだから保存する価値はないとされ、「方言札」の使用に見られるような琉球語抑圧に結び付いていきます。

 1903(明治36)年に大阪で開催された第五回内国事業博覧会で設置された「人類館」に台湾高砂族やアイヌなどとともに沖縄人が「展示」された際に、沖縄メディアが「沖縄人は同じ日本人なのに、アイヌ民族そのほかと同列にあつかうとは何事か」と訴えたのは、こうした日本化政策のひとつの「成果」でした。

 その後、太平洋戦争では沖縄は時間稼ぎの「捨て石」として扱われ、日本に包摂された際の当初の役割を背負わされる結果となります。

 

2.米軍占領下:監視基地から出撃基地へ

 終戦前の1943年に米・中・英によるカイロ会談の段階では、連合国側は、日本が再びアジアを侵略することのないように、沖縄を一種の監視基地に使用したいとする考えを持っていました。こうしてアメリカの海軍省作戦本部は、日本に勝利する前から沖縄を日本から分離し、軍事基地化する計画を立てていたのです。1945年には婦人参政権を盛り込んだ選挙法改正が行われますが、同時に沖縄県民の選挙権が停止され、まず立法府から沖縄が分離されます。ですから、この後沖縄の軍事要塞化とある意味“引き替え”ないし“ワンセット”で制定されることになる憲法の戦争放棄条項は、当事者である沖縄の代表者のいないところで審議されるということになりました。

 1947年にはマッカーサーが外国人記者に向かって「米国が沖縄を保有することにつき日本人に反対があるとは思えない。なぜなら沖縄人は日本人ではなく、また日本人は戦争を放棄したからである。沖縄に米国の空軍を置くことは日本にとって大きな意義があり、あきらかに日本の安全に対する保障となろう」と述べました。このことばが示すのは、アメリカが日本および琉球の歴史等を事前に詳細に研究していたこと、そして軍事基地としての沖縄の存在が戦争放棄条項と相容れないと同時に相互補完の関係にあると認識されていたということです。

 このころ昭和天皇は、アメリカが沖縄を軍事占領し続けることを希望すると表明し、その占領は「日本に主権を残存させた形で、長期の−25年から50年ないしそれ以上の−貸与をするという擬制の上になされるべきである」としていました。こうして「両者」の思惑が一致した中で、沖縄の軍事占領が本格化していくことになります。

 当初は「日本の非武装化と引き替え」の沖縄軍事基地化でしたが、冷戦がはじまって1948年にはすでに米陸軍長官が「日本を反共の防壁とする」構想を発表し、日本の限定的軍備計画の策定が開始されます。1950年の朝鮮戦争勃発、1952年の日米安保条約発効を経て1953年には沖縄において「銃剣とブルドーザー」による土地収用が始まりました。戦後沖縄の軍事基地は「日本に対する監視基地」という役割を出発点としつつも、米軍の「出撃基地」に機能を転換することになり、事件や事故の続発のみならず米軍による沖縄に対する抑圧・差別は強まっていきます。そうした中、コザ反米暴動に見られるような抵抗とともに「本土復帰」への願いが高まり、1972年の復帰に至りました。

 

3.復帰後:「開発」と基地の恒久化

 現在の沖縄には38の米軍施設があり、全島の10%、本島の20%を占めています。日本の0.6%の面積の土地に75%の米軍基地が集中しているという現状であり、本土復帰後も沖縄の軍事要塞としての機能はほとんど衰えていません。ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争への出撃基地となり、例えば2004年の沖縄国際大学への米ヘリ墜落事故も、イラクへの出撃準備が多忙に過ぎて、ずさんな整備しか施されなかったがゆえに起きたものでした。

 この事故の際には、「日米地位協定」の「財産権」を盾に日本側の捜査は行えませんでしたが、米兵による犯罪に対しても日本の捜査権が及ばないことがほとんどです。「公務外」における犯罪に対しては米政府によって補償が支払われるということになってはいますが、例えば1990年〜1995年に起きた「公務外」の事件・事故4,569件のうち、補償が実施されたのは168件に過ぎません。ベトナム帰還兵のアレン・ネルソンさんによれば、「オキナワに行けば、女でも酒でも楽しめるのだ」「我々がどんなことをやらかしても、何もおとがめはないのだ」という話が海兵隊員の間に広まっていたといいます。

 日本政府も、沖縄返還協定の締結に伴って「土地原状回復費用負担」や「核持ち込み」に加え「裁判権放棄」の密約をアメリカと交わしていただけでなく、1997年には駐留軍用地特措法を改定して首相権限による土地収用を可能にするなど、基地使用の恒久化を支援するような施策に終始してきました。

 そうした中、1995年に起きた米兵3名による少女暴行事件とそれに対する米軍の対応への怒りから沖縄県民の反基地感情が爆発し、県民総決起集会が開かれ、沖縄に集中する米軍基地の整理・縮小や日米地位協定の見直しを求める訴えが高まるに至りました。こうした動きを受けてSACO(沖縄に関する特別行動委員会)が設けられ、1996年には普天間基地の全面返還と11施設5,002ヘクタールの返還が日米間で合意されるのですが、普天間基地の代替施設として辺野古への新基地建設が付随しており、その後の混迷をもたらしています。辺野古かキャンプシュワプ沖か、工法をどうするか、V字型かI字型か、といった議論ではなく、沖縄がそのはじまりから担わされてきた軍事基地としての機能をいかに終わらせていくかという構想こそが求められているはずです。

 マスメディアはこれまで沖縄の基地問題を無視ないし軽視、あるいはミスリードするような報道を行ってきました。例えば米軍ヘリ墜落事故当日、NHKのトップニュースは「ジャイアンツ渡邉恒雄オーナー辞任」であり、事故は5番目の扱い。全国紙もトップで報じたところはありませんでした。2010年の沖縄県民大会の際には、TBSが事業仕分けとタイの子ども手当、テレビ朝日が沢尻エリカを主要話題や冒頭に据えるなどテレビは軒並み二の次にしていたのです。朝日新聞は1面に掲載しつつも「普天間『県外へ』決議」として「国外へ」のことばをおそらく作為的に見出しから排除しました。「辺野古移設に反対するなら対案を」といかにも「対案」が提出されていないかのようなコメントを述べたり、「グアム移転」案に対して「そんなに遠くに移転して日本を守る上で大丈夫なのか」とゲストに言わせていかにも海兵隊が日本を守る存在であるかのように描いたりもします。

 また、「基地があるから沖縄の経済は成り立っている」というイメージも流布されていますが、これに対する反論としては太田昌秀さんの主張を以下に掲げることにします。(「基地の中の沖縄」『DAYS JAPAN200410月号)

「日米両政府は、基地があるからこそ沖縄の経済は破綻せずに済んでいるなどと公言を吐いている。だが、実際はまるで逆だ。沖縄は、復帰後32年経った現在でも全国最下位の貧乏県であり、失業率も全国平均の約2倍である。基地の存在が、実際に地域社会の経済発展に結び付くのであれば、例えば町面積の83%が基地である嘉手納町は、今頃沖縄随一の豊かな町になっているはずである。ところが実際は、県下52市町村のなかで年間一人当たりの所得が一番多い所は、基地がなくてサトウキビの生産に頼っている南大東と北大東である。しかも本土復帰前は、5万人以上の地元の人々が軍事基地で雇われていた。それが、現在では8678人しか働いていない。基地はほとんど削減されないまま、基地従業員は大量に解雇されたからだ。それに伴い、基地から入る収入も大幅に減少した。ちなみに67年の軍関係からの収入は、2250万ドルで、これは県民所得の55.4%を占めていた。しかし72年の復帰時にはそれが15.6%に現象。さらに01年度になると5.1%にまで激減している。」

 公共事業依存の経済構造であるのは事実ですが、観光業を中心に自立していく方途はあるはずです。しかしそのためにも基地は障害物です。周囲から敵視されないように軍隊を持たなかった時代にこそ、琉球はさまざまな地域と自由な交易を行っていたのだという事実をここで思い起こすべきでしょう。

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戦場への想像力とメディア (1)

元アメリカ海兵隊員 アレン・ネルソンの講演を記録したブックレット『そのとき、赤ん坊が私の手の中に--みんな、聞いてくれ これが軍隊だ』を読んだ。「稚内 憲法を学ぶ会」の設立総会のときに手に入れたものだ。
このブックレットは安斎育郎が代表をしている「憲法九条・メッセージ・プロジェクト」(k-9mp)が発行しているもので、市販はしていない模様。ページ左端のメニューに「リーフレット・ブックレット・現代の万葉集等ご注文申し込み」というのがあるので、そこから注文することができる。

アレンは例えばこう問いかける。
射撃訓練は、最初は同心円状の標的(「牛の目」というのだそうだ)の真ん中を狙えと教えられる。その次は人の形をした標的で訓練するのだが、この人型のどこを狙えと言われるか?
頭ではない -- 体のなかで一番小さい部分だから失敗しやすい。
脚でもない --「殺す」ために撃つのだからそこではない。
心臓でもない -- 体の隅は撃ち損じやすいし、即死させる必要もない。

 ではどこを狙えというのか?「ここ(男性の股間)、急所を狙え!」と教えています。
 さきほど「グルーピング」といいましたが、下腹部に命中する弾は一発ではありません。五発も六発も集中します。このような負傷では、即死することはありません。私の戦友たち、いずれも十八、十九の若者で、こういう負傷のあげく死んでいくのを、この目で見てきました。激痛のなかで、何時間も泣きわめいて、やっと死んでいくのです。


知らなかった。いかに間違いなく殺すか、ということからするとそういうことになるのか。
アレンは、軍隊というのが「殺す」ということにいかに特化した組織であるのかを強調する。そこでは自分で考えることは許されず、ただ命令に従うだけの存在として鍛えられる。「お前たちの仕事はなんだ?」「kill!」とありったけの声で叫ばされるような日常。
毎日「殺し」という暴力を仕込まれているのだから、その兵士たちが街に繰りだすとき、暴力性だけを基地に残しておくというわけにはいかない、という。だから沖縄などで度重なる米兵による不祥事は起こるべくして起こるのだ、と。

そうして、さらに戦場のリアリティについて。

 この腐乱死体の臭いのすさまじさといったら、思わず胃のなかの物がこみあげてきて、ゲロを吐いてしまいます。目に涙がたまる。鼻汁が垂れる。全身の力が抜けてしまうような強烈さです。この臭いは、私は未だに忘れることができません。これが私にとっての、戦争の臭いです。
 映画のなかにも、『プラトゥーン』『プライベート・ライアン』など名画といわれるものがありますが、名画といえども「リアルである、本物だ」とはいえません。
 そこには、決定的に臭いが欠けています。みなさんは映画館にいくと、キャンデーを食べたり、ジュースを飲んだりして映画を鑑賞しますが、もし、戦場の臭いを伝える映画ができたら、「二度と戦争映画はゴメンだ」といって、映画館に足を運ばなくなるでしょう。*
 戦争の臭いとは、死体の腐る臭い、死体の燃える臭い、血の臭い、そして弾薬・硝煙の臭いです。

*香りつきの映画というのは実際に試みられているから技術的には「臭いつき戦争映画」も可能なはずだが、確かに実現はしないだろう。

阪神淡路大震災の被災者から聞いて印象に残っていることの一つは、「一番印象に残っている記憶は、“臭い”なんです」という話だった。そのときの衝撃とか喪失感とか不安とかは“臭い”の記憶と切り離せない、そういう経験だったということだろう。
文字情報や視覚情報に頼ってものごとを経験することに慣れ親しんでしまっている僕たちはそれで「分かった」つもりになりがちだけれども、もちろんそれが十全な経験であるとは言い難い。「だからどうせわかりっこない」とあきらめたり文字情報や視覚情報を軽んじていいというのではなく、それが制限された経験だという自覚は必要だろうということだ。その上で、想像力を働かせなければならない。

写真誌『DAYS JAPAN』の編集長、広河隆一は「戦場を見ずに、戦争を必要悪だと言うな」と題したインタビュー(マガジン9条・この人に聞きたい)で次のように言う。

 実際の戦争というのは、一人の人間の体がずたずたにされて腐乱していく。その光景を見たら、一生逃れられないくらいのショックがあるのです。
 だから僕から言わせたら、それを必要悪として是にするなんていうのは、当然成り立ちませんよ。それは見ればすぐにわかること。1人の人間がそのようにして無惨に殺された光景を見ただけでそれだけのショックを受けます。ましてや何千人、何万人という人がそうやって殺されていくというなんていうのは、許されるはずがない。
 だから僕らは目をそらさずにその事実を見なければいけない。
 本当の戦争のことを知らない人が、戦争は必要悪だと言ったって、そんなものは通るはずがありません。

 やはり戦争というのは人間の体が吹き飛ばされて、焼け、目鼻が外れ、腐乱し、髪の毛がバーッと壁にへばりついて、人間のどこの部分なんだろうというような肉片が転がって……、そういうことなんです。人間の体が真っ二つになるというのは、ほんとに恐ろしい光景です。おとなだけでない。小さな男の子や女の子までも。それが戦争です。

 誰だって、自分たちはこういう状況だから殺されても仕方ないんだって思う人はひとりもいないのです。自分の娘の顔が半分に割れて壁に付着しても仕方のないことだと思う人なんかいないですよ。そこを見なければならない。目をそらさずに。


ここで「戦場を見る」というのは、さまざまな情報から自分なりに戦場の経験を組み立てなければいけないということだろう。しかも、自分の生活がそういう状況に陥ったら、自分の親しい人がそういう目にあったら、と自分の問題として引き受けながら。

授業で「戦場への想像力が奪われてがちだ」という話をした際、マスメディアには出てこないような写真の掲載されているWebページのことを紹介したら、「被害者の写真なんて見なくてもいい。“何人死んだ”でわかる。戦争の悲惨さを一方的に伝えるようなのは偏っている。」という反発を受けたことがある。
「“何人死んだ”でわかる」という「わかり方」で十分だとする感性。そして彼/彼女にとって、報道や教育における「公正・中立」とは“何人死んだ”かのみを伝えることであって、生や死の具体的な現実は余計な修飾なのだ。こうして、「必要悪だ」とか「理想じゃなく現実を見なきゃ」といった“現実主義的”なもの言いは戦場の“現実”を切り捨てることによって成立する。
おそらくそれは彼/彼女が独自につくり出した世界認識の方法なのではなく、そのようにメディアが世界を構成してみせているからだ。パワー・ポリティクスないしパワー・ゲームという「現実」が強調されて戦争の必要性・必然性が語られ、戦場は戦略や軍事技術をやりとりするゲームのボードのようだ。

つまり、「戦場」の現実を見なくても「戦争」を理解できるかのようにマスメディアは伝える

それは、現実のマスメディアの宿命なのだろうか?
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「憲法9条フォーラム」レジュメ

以下、4月28日に行った学習会のレジュメ(資料は略)
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1.戦争と平和をめぐる情勢
■アメリカの単独行動主義
 イラク 「大量破壊兵器」
  イラン 「核兵器」 (資料1,2)
  but ・軍産複合体/石油産業の利益
   ・ドル基軸通貨体制の維持/中国封じ込め
   ・国内的危機(財政赤字・貿易赤字・債務超過/格差社会)の隠蔽
 
■アメリカに追従する日本
 ・小泉首相「アメリカと仲良くすることがアジアとの関係にとっても一  番!」
 ・基地 グアム移転7000億円 その他合わせて3兆円 (資料3)

<推移>
  デタント期(70〜80年代)ソ連海軍力封じ込め(宗谷・津軽・対馬海              峡封鎖)
  冷戦終結後(90年代)「国際貢献」という名の自衛隊の海外展開 
    91年 ペルシャ湾への掃海艇派遣
    92年 PKO法成立(カンボジア・モザンビーク・ルワンダ・ゴ       ラン高原・東チモール・アフガニスタン)
    97年 新ガイドライン-- 極東から「周辺」へ
    01年 テロ対策特別措置法--米軍の兵站
    03年 有事関連三法(自衛隊法改正・武力攻撃事態対処法・安       全保障会議設置法改正) 
    04年 日米物品役務相互提供協定(ACSA)改定―米軍と自衛隊       の一体化  (資料4)

■アジアの中の日本
 ・靖国参拝問題
 ・領土問題

 

2.戦争ができる国家体制の整備
■新憲法案
 ・「国家への命令」から「国民の規範」へ but 憲法に国民の義務規定   はいらない (資料5)
 ・「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」へ but 人権を制限するの    は別の人の人権だけ
 ・ー鸛蠍限 ∈眄コントロール 7鎧裁判所 っ亙自治     (山内敏弘)

<前文・9条>
 ・積極的平和主義  (資料6)
 ・集団的自衛権と徴兵制の桎梏としての9条2項:「戦力不保持」「交戦  権放棄」→最小限の自衛

■国民投票法
 ・公務員・教育者・報道機関への表現規制  (資料7)
 ・一括投票

■教育基本法
 ・愛国心(cf.国旗国家/新しい教科書)
 ・教育内容への政治介入 (資料8,9)
 
■共謀罪 (資料10)



3.改憲へのイデオロギー
■ポピュリズム 
 ・犯罪被害者保護(25条3)、環境権(25条2)、知る権利(21条
  2)、障害者の権利(14条)
 ・「「いいんじゃないの」、「いいんじゃないの」という反応を個別に  引き出していって、9条の改正も含めて全体として「新憲法草案」を飲  ませよう」(奥平康弘)
■正戦論 (資料11,12)
■「おしつけ憲法」論
■ナショナリズム/「現実」主義/パワーポリティクス : 強い国家へ の期待 
■「攻められたらどうする」
■「改憲は世界の流れ」論




4.運動の方向
■スローガン (?)
 ・「平和を望むならば、平和を準備した方がいい」(加藤周一)
 ・「平和を守る」=「私たちのいま続いている日常を守る」(井上ひさ  し)
    1945年の平均寿命:男性23.7歳、女性32.3歳

■「9条の会」 (資料13)

■共同できる個人・団体
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殺しているのは誰か

暗いニュースリンク
2005年11月28日 (月)
ブルース・ウィリス、イラク戦争を大絶賛:「戦争ヒーロー映画を制作する」
によると、彼はこう言って米軍のイラクからの撤退に反対しているそうだ。

「イラク国民は、自宅から買物に出かける時に殺される心配をする必要のない世界に住みたいと思ってるんだ。誰だってそうだろう?」

本気で言っているのか?

自宅から買い物に出かけるときに殺すのは米兵だ。

イラク・ホープ・ダイアリー
11月11日 なぜ、アメリカはボクたちを殺そうとするの?(ラマディからの手紙2)から。
 2005年10月8日
 夜中の3時25分、米軍の戦車がラマディ市内に入ってきました……。見てはいませんが、騒々しい音を聞いていました。ヘリコプターやF16戦闘機の音も、爆発音が鳴り響き始めましたが、それは遠くに聞こえ、町のはずれのようでした。30発以上の爆発音を聞きました。それは朝7時まで続きました。それから、米軍は撤退していきました。今回は誰も米軍に対する攻撃をしなかったのですが、米軍はラマディ周辺の至るところを攻撃していきました。それにしても、なぜ米軍はラマディ市内から戦車でそれらを攻撃していたのでしょうか?

 ラマディ市内に通ずる2つの橋と他の道はすべて閉鎖され、誰もが市内に入ることを許されていません。住民たちはこれから数日のことをとても心配しています。国民投票前に、米軍に殺されるか脅かされるだろうからです。たいていの人たちは、彼らの息子や娘を学校に行くことを許しませんでした。そして、みな家に閉じこもっているのです。米軍の戦車が市内を動き回る時、そこには「死」がまとわりついており、彼らは目に映る民間人を殺していくのです。
 今日、私は1週間分の食料を調達しなければなりませんでした。そこで市場に行こうとしたのですが、途中で地元の人たちが私を引き止め、自宅に戻るように言いました。話によれば、その辺りに米軍の狙撃兵が高層の建物に潜んでおり、30分前にタクシードライバーの若い2人が射殺されたというのです。
 確かに……。米軍の戦車と米兵たちがいました。私はあわててすぐ隣の家に走り、ドアをノックしました。しばらくして、一人の女性がドアの向こうから「誰?」と聞いてきました。私は「イラク人だ。隠れさせてくれ。米兵に見つかったら殺される……」と言いました。女性はドアを開けてくれ、「早く入りなさい」と私を招き入れ、すばやくドアを閉めました。

 彼女は客室に私を招き、座るように言いました。彼女は40歳くらいで、穏やかでやさしそうな感じがしました。私が自己紹介をすると、彼女は私の家族を知っていました。彼女はお茶も何も振る舞いませんでした。なぜなら、今はラマダン(断食月)なのです。

 彼女は3人の娘と1人の息子の母親でした。彼女の息子のジアッドがやって来て、私を歓迎してくれました。そして「外の様子はどうだい?米兵はいるの?」と聞いてきました。外の様子を知らないようでしたが、彼は寝ていたようなので、私は特に驚きはしませんでした。「あぁ、米兵がいるよ」

 すると、彼は怒りながら「もう勘弁してくれよ!いつだってあいつらはやって来て、家に押し入っては家族を捕らえるんだ。そして、家は狙撃兵の格好の場所として使われるんだ。あいつらは、俺ん家の屋根からたくさんの民間人を殺したんだ!」

全文はhttp://iraqhope.exblog.jp/m2005-11-01/#3760350を。
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憲法9条のために

最近届いた、カタログハウス『通販生活』に『憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言』という冊子が添えられていた。
ついさっきまでカタログハウスが作ったものだと勘違いしていたが、これは岩波ブックレットの一冊だった。

多くの人がすでに内容を知っているかもしれないと思いつつも、気に入ったフレーズを記録として留めてておきたい。(太字は引用者)

 中村哲
 中東においては、第二次世界大戦中に、日本の占領など、直接の被害に遭わなかったこともあり、広島・長崎の被害への同情だけでなく、戦後、復興をとげたアジアの国として、日本は一種の憧れの対象でした。また、その後の歴史のなかでも、はぶりのいい国というのはたいてい、戦争をするものだけれど、半世紀にもわたり、経済的な豊かさにもかかわらず、他国に戦争をしかけなかった国、平和の国・日本として、親近感を持たれてきました。
 つまり、実際に、戦争をしない国・日本の人間である、日本人である、ということに守られて仕事ができた、ということが数限りなくあったのです。
 「9条」というものを現地の人は実際には知りません。しかし、現実として、「平和の国・日本」というイメージが浸透していたのは、意識・無意識の別なく、国の方針としての9条の精神、「交戦しない国・日本」が伝わっていたからだと思います。日本人であるから命拾いをした、助けてもらったというのも、9条のおかげだと思っています。
 それが、自衛隊の海外派兵が始まってから、雲行きが怪しくなってきました。日本人だから守られてきたのに、日本人だから命を狙われる、という妙な事態になってきた‥‥。そのうえ9条に手をつけるとなれば、現地の人はいったい、どう思うでしょう。それが現地の人にメッセージとして、どう伝わるか、よくよく考えるべきことです。
 9条を変えて「軍隊を派兵できる普通の国になるべきだ」という論理の、その「普通の国」の意味がよくわかりませんね。そんなことを言うのは、“平和ボケ”した、戦争を知らない人たちの意見なのではないでしょうか。改憲したい、と言う人々は、戦争の実態を、身をもって体験していない人なのではないか、と思いますよ。
     [‥]
 戦争もつきつめれば、外交手段の一つです。9条の主旨はつまり、武力による外交手段を放棄する、というものですね。ということは、武力に頼らない外交手段を、あらゆる手をつくして模索する、という宣言でもあるんです。それをきちんと果たしてきただろうか。それがまず、大きな疑問ですね。

中村さんが中心となって活動しているペシャワール会の活動には注目しつつ、敬意を払ってきた。
中村さんたちは戦争と紛争のさなかでの生活支援活動をしていて、その人が「丸腰の強さ」(引用部分にはない)を主張するのは重いと思う。

“平和ボケ”という言葉は「現実を見て武装しなきゃいかん」と言うための「理想主義派」への攻撃スローガンとして使われることが多かったが、このように反転させてつき返すというやり方に同意したい。
単にレトリック上の違いのようではあるけれども、どの「現実」をこそ見るべきなのかという視点の転換をもたらしてくれる。

 姜尚中
 たとえば9条が存在せずに、集団的自衛権が無条件に行使されていたら、アメリカのイラク戦争に対して日本は協力を拒否できただろうか。
 9条の存在するいまの憲法体制でも派遣せざるを得なかったのです。拒否なんてできるわけがない。
 確かに日本はイラク戦争に自衛隊を派遣した。しかし9条があるおかげで、「非戦闘地域」に派遣するだけですんだわけです。
     [‥]
 憲法「改正」については、このイラク戦争をどう総括するか、ということを議論のベースにするべきでしょう。国民の多くは、9条があるおかげでこれだけですんだ、ということに薄々気づいているのではないでしょうか。

姜さんの提起を僕なりの表現にすると、「9条のおかげで誰か迷惑をこうむりましたか?」ということになる。アメリカが少し迷惑していたかもしれない。
「将来、国民が迷惑をこうむる」というのが改憲派の考え方なのだろうが、「9条を変えると将来、迷惑をこうむる」という可能性の方が高いと考える。

 松本侑子
引用されている、長沼ナイキ訴訟の札幌地方裁判所の判決文(1973年9月7日)を孫引き。日本に自衛権があるとして、それをどのように行使しうるのかという一つの見識である。
 第9条において、いっさいの戦力および軍備をもつことを禁止したとしても、このことは、わが国が、独立の主権国として、その固有の自衛権自体までも放棄したものと解すべきでないことは当然である。
 しかし、自衛権を保有し、これを行使することは、ただちに軍事力による自衛に直結しなければならないものではない。
 すなわち、まず、国家の安全保障(それは究極的には国民各人の生命、身体、財産などその生活の安全を守ることにほかならない)というものは、いうまでもなく、その国の国内の政治、経済、社会の諸問題や、外交、国際情勢といった国際問題と無関係であるはずがなく、むしろ、これらの諸問題の総合的な視野に立ってはじめてその目的を達成できるものである。
 そして、一国の安全保障が確保されるなによりも重要な基礎は、その国民の一人一人が、確固とした平和への決意とともに、国の平和問題を正しく認識、理解し、たえず独善と偏狭を排して近隣諸国の公正と信義を信頼しつつ、社会体制の異同を越えて、これらと友好を保ち、そして、前記した国内、国際諸問題を考慮しながら、安全保障の方法を正しく判断して、国民全体が相協力していくこと以外にありえないことは多言を要しない。

「攻められたら・戦争が起きたらどうする」という風に問題をまず立てる人は、「攻められないように・戦争が起きないようにどうする」という論点を無視しがちであるように見える。
「どうせ武力に頼らざるを得ないのさ」というあきらめ(あるいは期待)の心情は、アメリカのやり方がスタンダードだと無意識のうちに刷り込まれているからではないのか。

 井上ひさし
 1977年には[‥]、ジュネーブ諸条約の追加議定書が作られます。 その追加議定書には、無防備都市をさらに発展させた、無防備地域の考え方が盛り込まれました。ある自治体が「私たちの町にはいっさい兵隊がおりません。軍事施設もありません。私たちの町に戦争に関係のあるものは何もありません。ですから私たちは町を開放します」と、無防備地域であることを宣言した場合、国際条約によって、そこは絶対に攻めてはいけないと決められるわけです。
 この無防備地域の考え方は、日本国憲法の前文および第9条の非武装平和主義にうながされてできたものです。この先、日本のような国にみんななりたいのだけれども、日本のような国がもし攻められたらどうしたらいいかということを、日本人以外の人が一所懸命に考えていたのです。コスタリカや日本などの軍備を持たない、あるいは持たないと憲法で決めている国の生き方が、みんなを励ましているのです。

この条約のことは知らなかった。
アメリカのオーバービーという人が日本の最近の「九条の会」よりずっと以前から「Article 9 Society」の活動を始め、「第9条を地球憲法に」と提唱していることは聞いたことがあった。

いずれにせよ、大きく知られていることではないだろう。

だが、目指すべき方向はどちらなのかということなのだと思う。
「昔ながらの紛争解決手段しかない」と決め付けることはなかろう。

以前紹介した北野幸伯さんの言葉----「例えばアメリカが100年前、イラクを植民地化しようと企てたと仮定します。/その場合、大統領は、「アメリカの国益上イラクの石油は絶対必要だ!」と本音を言えばそれでよかったでしょう。/今のように、「大量破壊兵器がどうのこうの」「国際テロとの関係がどうのこうの」と嘘をつく必要などなかった。/つまり今は、嘘をつかなければ、戦争を始められない状況になっているということ。/これは、(戦争はなくなっていないが)良いことでしょう?」

つまり、人類全体としては「殺すな」という方向に進んできたという「現実」がある。
その「現実」を踏まえた方向に希望を見たっていいじゃないか。

 渡辺えり子
 いま津波でたくさんの人が亡くなったり、凶悪な犯罪で人が殺されたりしている。そのことに対してこれだけ親身になることのできる人たちが、どうして戦争の人殺しだけ許すのか‥‥。戦争を認めたら人を殺してもいいってことになってしまいますよね。
     [‥]
 私が今言っているのは、反戦活動家じゃなくたって誰でも思う普通のことですよ。
 それを大声で言えなくなってしまっている今の日本は異常だと思います。こういうことを言うと仕事がなくなる、と自粛しなくてはいけない。すでに戦前のニオイがするでしょ?

こういう「普通のこと」に対して、戦争準備こそが「普通のこと」なのだという対立がある。

ひとつ明らかなのは、いま国家によって弾圧されているのが「殺すな」という側の「普通のこと」だということだ。
渡辺さんのように「自粛」しなければならなかったり、立川反戦ビラ事件のように「反戦」を訴えると逮捕されるという状況が続くことからして、どちらが国家にとって都合のいい「普通」感覚であるかは明らかだ。

他方で映画『男たちの大和』の俳優への記者会見で「家族を守るためなら戦争に行きますよ」という発言は「男らしい」と称揚される。

ナイキ訴訟判決文にあったように、「国家の安全保障」は「究極的には国民各人の生命、身体、財産などその生活の安全を守ることにほかならない」。
だとしたら、<生命を守るために生命を犠牲にしなければいけない>という転倒した状況をいかに回避するか。

戦争によって利益を得る少数の者たちが「国家」の名によってそういう転倒をつくりだすのだという構造が暴かれなければならないだろう。
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【転載】サマワでの被曝、について

先日アップしておいた<【転載】サマワでの被曝>についてだけれども、特に「自衛官の子供に奇形が」という点についてはネット上に流布している“つくり話だ”という愛・蔵太さんからのコメントが入り、詳細な根拠リンクも提示されていたのでとりあえず非公開にしました。
改めて調べてみます。
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【転載】仕組まれた?「自爆テロ」

PUBLICITYから。2005.05.18付、2005.05.24付より抜粋する。

<911の陰謀説>に書いたことにも通ずる。強者の「当局発表」が時の「公式」な事実として流布されるけれど、戦争をめぐる過去の経験に照らせばそれらは十分に疑わしいということだ。
▼齊藤力二朗が運営するメーリングリスト「アラブの声」は、実に密度の濃い情報が交換されているMLの一つだが、

http://groups.yahoo.co.jp/group/voiceofarab/

そのなかでも次のような情報は、絶対にニッポンのマスメディアには載らない類のものだろう。すなわち、

イラクでの自爆テロは、

アメリカ軍が仕組んでいる

などという証言である。

▼まず、「14日付のバスラ・ネット、メソポタミア・アルカーイダ機構広報課のアブー・マイサラ氏の報告」から。

アメリカ軍は、ゲリラの妻など、女性を人質にとる。
また、住宅を迫撃砲で攻撃し、ゲリラの仕業だと思わせる。

アメリカ軍は、自分たちで爆発物を学校や病院近くに仕掛けた後にやってきて、それを「発見」する。

アメリカ軍は、検問所で捜索する振りをしている間に、車の後部荷台に爆弾を仕掛け、適当な場所と時間を見計らって、遠隔操作で爆発させる。などなど。

▼具体的な証言として、「12日付のイラク・パトロール」での、イラク共産党カーデル派(傀儡派のイラク共産党から分離独立)サイト、カーデル・ネットからの引用。

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数日前、米軍の一団があるイラク市民の運転免許証を没収し、取調べのために翌日バグダードのサダム(国際)空港近くの米軍キャンプに出頭するよう言い渡した。

翌日基地に出向いたイラク人は、車と共に入ることを許され、30分程度取調べを受けた。その後取り調べの将校が言った。

「よし、結構だ。君に対する容疑は見つからなかった。だがご存知のようにイラクの主権はイラク政府にあるから、調書をカーゼミーヤ(バグダードのシーア派地区)警察署に廻した。それを受け取るために今すぐそちらに行き、フセイン・ムハンマドという警察官を訪ねなさい。彼は君を待っているから、出かけてしまわないうちに急いで」

車に乗り基地を出たイラク人は、車が幾分重いように感じた。また彼を追跡するかのように上空を旋回するヘリコプターの存在に疑念を抱いたので、下車し車を点検した。すると後部座席とそのクッションに100キロを越える爆発物が詰め込まれてるのを発見した。

出向くように言われた警察署を爆発する目的で車に地雷が仕掛けられたとしか説明が付くまい。ヘリコプターは、恐らく遠隔操作で爆発させるか、事の次第を見届けるために追跡旋回していたのだろう。

行き先の警察署がカーゼミーヤであるからには、「シーア派の殲滅」という罪状が用意されていたに違いない。そして、いつもお決まりの手口で、占領軍の手先の卑劣漢たちが書き立てていたことだろう。

事情を悟るや否や、彼は車を乗り捨て、近くの警察署に連絡した。車は移送されたが、その後結果を告げた者は誰も居なかった。

このような出来事は北部のモスルでも繰り返された。車と運転免許証が押収されたある市民は、(警察署に)出掛け、車を受け取った。だが帰路に故障したので災難が防げた。やって来た整備士はスペアタイヤに爆発物が充填されているのを発見した。この市民も運転免許証を受け取るために警察署に行くよう言われていたのだ。

よって、似たようなことが起きた場合、自家用車で米軍基地に行かないか、基地から出たら車を点検するように皆さんに訴える。

イラクの愛国抵抗勢力の攻撃対象にされる警察署があることを我々は否定はしないが、このような警察署には、市民の最大の疫病神となっているバドル軍団(シーア派のイスラム革命最高評議会配下の民兵組織)や(タラバーニとバルザーニの)クルド人2大政党その他占領を支持する民兵組織の一味が入り込んでいるのだ。抵抗勢力は全ての警察署を襲撃するわけでもないし、無差別攻撃もしない。

http://www.iraqpatrol.com/php/index.php?showtopic=9509
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


▼アメリカ軍が、何も知らない民間人の車に爆弾を仕込み、自爆テロ犯人に仕立て上げる、という衝撃的な話は、最近だけの出来事ではなく、1年以上前から起きている。そのことを示す同様の投稿も紹介されている。

「アラブの声」では、アメリカ軍の戦車の上にイラク人の女性や子どもを座らせて、攻撃できないようにしている、という、卑劣極まりない話も紹介されていた。

また、妻を人質にとり、夫であるゲリラが出頭すれば、妻を帰す、という話もある。

ぼくは、これらの証言はほぼ間違いなく正しいと思う。なぜなら、戦争とは、そういうものだからだ。最も効果的だと思われる作戦を躊躇なく選び実行しなければ、戦争には勝てない。

ただし、それらの作戦が、「本当の勝利」に結びつくとは限らない。というか、ほとんど必ず、結びつかない(「本当の勝利」って何だ?)。


イラク人体験者が語る米軍検問所の自爆テロ演出

イラクの自動車による自爆攻撃に米軍が関与しているとの報道
がアラビア語の独立系メディアなどで発表されてきたが、告発
者が米軍の報復を恐れて匿名であったり、場所など正確な描写
が無かった。しかし18日付のイスラム・メモは体験者の生々
しく詳細な体験談を実名を挙げて報じた。

−−−−
イスラム・メモの首都バグダード支局長は、米兵とある異常な
体験をしたヒッラの住人でシーア派のハッジ・ハイダルさん(
64歳)と会った。ハイダルさんの体験談はイラク人全てに拡
がっている。

農民のハイダルさんは、収穫物を自家用のピックアップ型車に
積み、首都バグダードのオルワト・ラシード野菜市場に売りに
出かけるのが日課だった。彼は、恐れも無く躊躇もせずに、実
名を記述するよう固執した後に、語り始めた。

私に降りかかった出来事を私が、誰かから聞いたなら、「そん
な馬鹿な!」とその男を嘘つき呼ばわりしだだろうよ。でもこ
れは先週の金曜日に、私に現実に起きた本当の話なんだ。

その日私は20のプラスチック箱に収穫したトマトを車の荷台
に積んでバグダードに向かっていた。途中、米軍の検問所で止
められ、私と同乗していた孫は車から降りるよう言われた。

一人の兵士が、トマトの箱が積んである荷台に上がり、検査を
初め、別の兵士も上がり先の男を手伝っていた。私たちが降車
してから10分も経たぬうちに検査は終了し、馬鹿に丁寧な口
調で出発するよう言われた。

発車してから1分もしないうちに11歳の孫のアリーが、「荷
台に上がった米兵の一人が、トマトの箱の間に鉛色をしたスイ
カのようなものを置いたよ」と私に告げたのだ。

米兵たちから離れたところで停車し、荷台に上がり、箱の間を
探したら、なんと中型の爆弾があるではないか。その脇には1
0.9.8、、、、と数字が打たれた表示盤が付いていた。私
は軍隊経験があるので爆弾の形状には精通している。

極度の恐怖で蒼白になった私は、孫にすぐ車から降りるように
叫び、車から離れて300メートルほど走らせた。私自身も逃
げようとしたが、生活の糧である車のことが心配になり、思い
直した。

恐怖に震え、神様のご加護を祈りながら、そっと爆弾を掴み荷
台から降りた。運の良いことに、深い穴を見つけたのでそこに
投げ込み大急ぎでその場から立ち去った。帰路にその場所に立
ち寄ったら、爆弾は既に爆発していた。聞けば、件の穴に近寄
った羊飼いが頭に傷を負い、雌羊3頭が吹き飛んだという。

あのまま爆弾を発見しないでバグダードに向かっていれば、雑
踏の野菜市場か、交差点かどこかで爆発し、抵抗勢力の名声を
陥れるために、「テロリストによる自爆攻撃」だと言われたこ
とだろう。 
http://www.islammemo.cc/taqrer/one_news.asp?IDnews=428


アブー・グレイブ刑務所での拷問のように、このような事実は
、半年か1年後に、西側メディアで「スクープ」し、世界が知
ることになるのであろう。

かつて英軍は、インドを分裂するために、モスクに豚の死骸を
投げ込み、翌日ヒンズー寺院に牛の死体を投げ込んだことは有
名な話。
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【転載】戦士のトラウマ

高遠さんのイラク・ホープ・ダイアリー4月22日付より。

戦争の悲惨さは、それによって利益を得るごく一部の人間たちのために、兵士や民衆が殺し・殺される立場に追いやられることだと改めて思った。
昨年の11月、長崎の平和大会で一人のアメリカ人男性と知り合った。彼は元米海兵隊。アメリカ軍第7海兵隊に所属していた。彼の部隊は2003年に1月にクウェートに展開し、3月にはイラクに侵攻、ブッシュ大統領の戦闘終結宣言の2週間後に救急用ヘリでイラクを出た。

彼はアメリカに帰って軍をやめ、同じような苦しみを抱えた仲間とともにアメリカ中を講演して歩いているのだそうだ。重いPTSD(心的外傷後ストレス障害)症状は帰国してからもずっと続いており、私が彼と会った時にもその様子は痛いほどわかった。私は当時、ASD(急性ストレス障害)と診断されたが、悪夢、耳鳴り、フラッシュバックと症状は似ていた。感情が揺れ、理解されないという思いからくる絶望感。けれど、彼の苦しみの深さは私にも計り知れないものだった。彼はイラクで何十人も殺してしまっていた。しかも、子供を含む非武装の民間人ばかり。彼は「私は軍服を着ていたので罪には問われない」と言っていた。しかし、彼が生きたまま負った心の傷は深い。その深さを推し量ることもできず、私は彼を目の前にして言葉につまってしまった。

この日、私はバスラ出身のイラク人ドクターと一緒に長崎を訪れていた。最初に記者会見があって、NGOの方と私たちが順番にこのイベントで何を話すのかということを短く報告した。イラク人ドクターは自分の専門分野から、イラクで激増する白血病やがんについて。そして、私は特にファルージャについて。そして、元海兵隊の彼はほとんど「罪の告白」とも言える内容だった。彼は、私やイラク人ドクターの話を聞く時に通訳のヘッドフォンをしっかり手で押さえ聞き入っていた。その姿を見るのも辛くなるほど、彼は萎縮しているように見えた。

奇しくも、私と彼の話の内容は一致する部分が多かった。彼が一番イラクの人を殺してしまった現場、検問所での話しはめまいがするほど同じだった。「撃つ側」と「撃たれる側」、悲劇はどちら側から語られても悲劇のままだった。

彼が所属する部隊だけでも1日に50人近くの民間人を撃ち殺してしまった日もあったそうだ。これがイラクのいたる所で起きていた。そして、ファルージャはその悲劇の最たる場所であった。

米兵は握り拳を右肩の上で作り、イラク人の車を止めようとした。でもこのサインはイラク人の誰にもわからなかった。なぜなら、それは米軍だけに通用する「止まれ」のサインだったからだ。彼の場合は手のひらをかざし、空に向けて威嚇射撃をしていたそうだ。彼はもちろん、検問所に向かってくるイラク人を片っ端から殺そうなんて思っていなかった。けれど、殺してしまった。なぜ、サインを無視して止まってくれなかったんだ、彼はしばらくの間嘆いていたそうだ。しかし、ある時、一人の女性が悲しそうにその理由を教えてくれた。

「そのサインはイラクではこんにちは、の意味です。また、空に向けて銃を撃つということは祝砲を意味します。テレビでサダムが銃を空に向けて撃っているのを見たことありませんか?」

彼は殺したくなんかなかった。ましてや非武装の民間人や子供なんて絶対に殺したくなんかなかった。検問所とはある意味、両者の意思疎通が行われるべきところのはずだ。しかし、その多くはそれ以前に「銃」をもって断ち切られる。戦争中も、「戦後」の今もこれはいまだに続いている。戦争は殺した側にも殺された側にも、確実に傷しか残さない。

先日、大学生に「どうして軍服を着ていたら罪に問われないのですか?」と質問された。戦争は公認された殺人だからだ。殺すことを命じられているからだ。しかし、現場でそれを実行する者にはやはり殺人でしかない。世間一般で非難されるあの「殺人」だ。

帰還兵はこの「問われない罪」によって、ある時は賞賛され、ある時は非難される。また、同僚を目の前で失ったある兵士は、感情を失い心を壊した。2週間の休暇を故郷で過ごした後、戦場に戻れないほど体の不調を訴えた別の兵士は、町中から「臆病者」と非難された。自分が攻撃した現場でたくさんのイラク人の遺体を見た兵士は、その時からフラッシュバックがひどくなった。軍はその兵士を帰還させた。しかし、祖国で彼を待っていたのは軍法裁判だった。彼は「臆病罪」に問われた。イラク戦争中、激戦地となったサマワに駐留していた米兵は、帰国後に子供を授かったが、その子に指はなかった。

戦場の内側には被害者しかいない。

長崎で出会った元海兵隊の彼と、別れ際に握手をした。
「私たちはイラクで恐ろしい体験をしてしまったけど、今はその体験を通して戦場で何が起きているかを伝えましょう。それが私たちの与えられた仕事よね」と言うと、彼は何度も深くうなずいてくれた。

来月、私はニューヨークに行く。アメリカに行くのはイラク戦争前の2002年12月以来だ。第一の目的は帰還兵の人たちに会うこと。そして、もう一つはイラク写真展を開くこと。
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中国への「援助」

『Internet Zone::Movable TypeでBlog生活』2004年12月13日付「中国への無償ODAって、こんなに少なかったのね」より。太字は引用者。
対中国ODAの見直しが声高に主張されています。ODAというと、何となく“タダでくれてやる”的なイメージがありますが無償援助はわずか52億円でODA、全体のわずか5%。残り大部分(約967億)は円借款です(※)。

※中国向けODA開始(80年度)から2003年度までの累計3兆3000億円のうち、円借款は3兆472億円にたいし無償援助は1416億円(4.3%)。「毎日」12/14付による。

円借款というのは、お金を“やる”のではなく、低利とはいえ利子を取って資金を“貸す”もの。その資金で、日本企業から物資を購入する場合もあって、その場合は回り回って日本企業の利益にもなるわけです。しかも、谷口誠著『東アジア共同体』(岩波新書)によれば、中国は、この借款をきちんきちんと返しているとのこと(※)。“中国は経済成長したのに、いつまでも日本からODAをもらおうとして、けしからん!”というイメージとは、実は、まったく違っているということです。

※「毎日」12/14付によれば、2003年度は借款967億円にたいして償還額1058億円ということで、差し引きで日本は中国からお金を返してもらっているのです。

ワイドショーで日中問題が語られる際、「中国には多額の金を援助しているのに」みたいな言い方が頻繁になされる。
「援助している」のは事実だ。お金を貸すのも「政府開発援助(ODA)」の中に定義上含まれているし、実際に開発のお役にも立つことだろう。低利だし(年利0.75%)。

問題は、「タダでくれてやっている」みたいなイメージが振りまかれてしまうこと。

話はずれて<援助する国-される国>全体のことだけれども、次のような指摘がある。(グループKIKI『どうして郵貯がいけないの』北斗出版、1993年、p.91-92)
援助資金の流れは「北の豊かな国から一方的に途上国に流れて来たし、今もそうだろう」と考えがちだが、それは間違っている。事実は逆で、図にあるように[略]83年の時点より、資金は南の貧しい国の側から一方的に先進国に流れているのである。無償援助などを差し引いても、毎年500億ドルほどが豊かな国へと流出しているのである。「援助」を受けているのは、むしろ私達先進国の側なのだ。

「貧しい国」に対して一方的に「助けてやってるのだ」という意識はもたない方がいいように思う。

そして中国への援助に関しては少なくとも「多額の金を貸してやってるのに」と正確に表現した上で言えることを言えばいい。
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【転載】靖国問題

PUBLICITY(2005/04/20)からの孫引き。自民党の衆議院議員、河野太郎さんの「中国側の言い分」(2004年12月1日付)より。
おかげで事柄が整理できた。太字は引用者。
▼もともと靖国神社に日本の総理大臣が参拝することに対して、中国政府から抗議や反発はありませんでした。三木武夫首相は在任中に靖国神社に参拝していますし、昭和天皇も靖国神社
に参拝されていました。

▼1972年9月に、当時の田中角栄首相と大平正芳外相、二階堂進官房長官が中国を訪れ、毛沢東主席や周恩来総理と会談し、日中共同声明に署名して、日中国交正常化への第一歩を記しました。

その日中共同声明のなかで、日本は「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」との立場を明確に文書にしました。
当時の中国国内には、日本に戦時賠償を求めよとの世論もありましたが、毛沢東主席、周恩来総理をはじめとする中国の指導者は、戦争は日本国内の一部の軍国主義者によって発動されたものであり、大多数の日本国民も戦争の犠牲者であるとの認識を示して、戦争の被害者が同じ戦争の被害者に賠償を求めることはできないとの立場を取りました。

日本側が戦争の責任をきちんと受け止めて反省していることを前提に、共同声明では中国側が賠償を放棄することを明確にしました。

ここでいう一部の軍国主義者の象徴が、極東軍事裁判で戦争の指導的責任を問われたA級戦犯です。

そのA級戦犯が、1978年に、靖国神社に他の戦没者と一緒に合祀されてしまったことが、この靖国神社問題の発端です。


戦後、憲法上の政教分離の原則の下、靖国神社も一つの宗教法人になりました。そして、宗教法人に対して政府が介入することもできなくなったため、靖国神社の運営は全く政府とは別個のものとなったのです。そして、靖国神社は宗教法人としての独自の判断で、A級戦犯の合祀を行ったのです。

この合祀の後、昭和天皇は靖国神社への参拝を行われなくなりました。

そして、1985年8月15日に中曽根首相が靖国神社に「公式参拝」を行ったのをきっかけに、中国政府も日本政府に対し、首相、外相、官房長官が靖国神社への参拝をしないよう求めるようになりました。

つまり、

日中共同声明の中で確認した、戦争と中国国民に対する重大な損害に責任のある「一部の軍国主義者」が神として祀られている場所に、その日中共同声明に責任のある首相、外相、官房長官という役職にあるものが参拝することは、共同声明の合意に反することになる

という主張です。

1972年に日中共同声明に署名をしたのは田中角栄であり、大平正芳でしたが、この二人は個人として署名したわけではなく、首相、外相という日本を代表する役職として署名したわけですから、この役職にある人物は、共同声明における合意事項を誠心誠意守るよう努力するべきだというのが中国側の主張です。

つまり、首相を辞めた田中さんが靖国神社に参拝するのは良いが、現に首相の役職にある小泉さんが靖国神社に参拝するのは、中国側から見れば、日中の合意に反するということになります。

中国国民から見れば、本来多額の賠償を取るべきだったにもかかわらず、同じ戦争の被害者だからという中国指導部の主張に沿って賠償を放棄したら、その責任を取るべき「一部の軍国主義者」が神として祀られてしまった。

まあ、そのことは日本政府とは関係のない一宗教法人の行為ですが、その宗教法人に首相が参拝すれば、共同声明に合意した日本政府の代表が宗教法人の行為を追認したことになってしまいます。

日本側が共同声明の合意をほごにするのならば、こちら側も賠償放棄を取り消して、賠償を求めようではないか、ということになってしまいます。

だから、中国政府は、日本政府に対し、A級戦犯が合祀されている靖国神社に、首相が参拝することは、日中間の合意を踏みにじる行為だから、やめてほしいと言ってくるのです。
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