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上機嫌力

齋藤孝『上機嫌の作法』を読み始めた。
「発声」を大事にしているこの人自身の声はいくらかかん高く感じられて実はあまり好きではないのだが、主張している内容にはずっと注目してきた。

さて、テレビで見る齋藤さんはたしかにいつも上機嫌だ。
そこでこの本は<上機嫌でいるための作法>を説いているのに違いないのだが、<上機嫌でいることが生きる作法だ>ということをまず主張している。
 なんて無意味に機嫌の悪い人が多いのでしょう。
 不機嫌にしていることで、メリットがあるのでしょうか? 考えてみてください。誰かが気分よくなったり、もしくは仕事が進んだりするのか。不機嫌モードを発していることで仕事がうまく進むのであればともかく、実際そんなことがあろうはずがない。くよくよして、むっとして、無気力でいて、何か新しいものが生まれるでしょうか?
  [‥]
 厭なことがあって不機嫌、いいことがあったら上機嫌というのはふつうのことです。しかし、人と接するときに気分をそのまま出すことは、かつてはあり得ないことでした。気分などという個人的なものはさりげなく包み隠し、互いに人への気遣い、場への気遣いをしながら営んでいくのが社会生活の常識だったのです。
 世の中にこれほど不機嫌が蔓延してしまった原因は、この「気遣う」ということをしなくなったからです。共存空間を心地よくするために、人を思いやる、場に対して気配りをするといった感覚を教えてこなかった、養ってこなかったがために、今やそれが当たり前であることすらわからなくなっている。(p.11-16。太字はママ。以下同様)

以前、<笑うから楽しい>に「笑顔を見せることで不利益をこうむったりするのでない限りは、仏頂面でいるより自分もまわりも少しだけ幸せになれそうな気がする。」と書いた。家の中では比較的うまくいっているつもりだけれども、ほかのところではなかなかねぇ。
でも方向性としては間違ってないのかな、と改めて思った。
気分に逆らって無理に笑顔をつくったり上機嫌を装うのではない。気分そのものをコントロールしようということだ。

それは「技(わざ)」なのだと齋藤氏は言う。
 円滑なコミュニケーションのための手段として、「上機嫌」な状態を自分の「技」にすることを提唱したいのです。これは天然の上機嫌とは違います。意識して身につけ、いつでも自在に上機嫌モードに入れるようにする技。だから「上機嫌力」なのです。(p.12)

たとえばこんなことだ。
 私は意図的に「上機嫌をやっている」のです。癖づけたのです。すると不思議なもので、敢えて上機嫌にしようと思わなくても、教壇のような場所に立つだけで、内側から機嫌がよくなるようになった。疲れが溜まっていたり、ちょっと具合が悪くて気分がよくないときでも、壇上に立ち、生徒や聴衆を前に上機嫌に話していると、次第に気分もからだの調子までもすっきりしてくるようになったのです。
 今では、授業をする、講演をする、仕事の打ち合わせをすることで気分が晴れ、真の上機嫌になれる。心身が上機嫌の技に馴らされているのです。

身につまされる。
僕はとてもこんな境地には遠い。学生の不機嫌に直面すると自分の存在感が不安定になって上機嫌どころではなくなる。

<きちんと聞いてもらえる--自分の存在が受け容れてもらえる>

という構造が崩壊するから。

学生がきちんと聞かない・不機嫌になるのは僕の話の内容に興味をもてないからだろうが、それ以前に僕が十分に「上機嫌力」を備えていないからだろう。伝染させるパワーをもっていないということだから。

昔はもっとひどかった。
授業の感想に「身を削って授業しているかのようで‥」と書かれたことがあったが、見ていてかわいそうなほどつらそうだったようだ。上機嫌どころではない。
「線が細い」と評されたこともあった。不機嫌に見えるということとは違うだろうが、けっして上機嫌が与える印象ではないだろう。そういえば、「自信なさそう」というのもあったな。
「アナウンサーみたい」と書かれて一瞬うれしかったけれども、冷たい雰囲気だってことだとするとこれも上機嫌とは反対物だ。

今はましになっているらしい、というところで納得しておこうか。

いや、安心していられないらしいぞ。
 四十代以上、特に四十五を過ぎた男性は、激しく不機嫌になります。中年と言われる年齢にさしかかった人たちは、実際には不機嫌ではないにしても、ふつうにしているだけで不機嫌に見えるという十字架を背負っているのです。
  [‥]
 一つには反応が鈍くなるため。反応が鈍いと、周囲から見ると不機嫌そうに見えます。

今年45になる。

思い出したのが、『海馬』での池谷さんの次のことば。
 大人はマンネリ化した気になってモノを見ているから、驚きや刺激が減ってしまう。刺激が減るから、印象に残らずに記憶力が落ちるような主観を抱くようになる…。
 ですから、脳の機能が低下しているかどうかということよりも、まわりの世界を新鮮に見ていられるかどうかということのほうを、ずっと気にしたほうがいいでしょう。
 生きることに慣れてはいけないんです。慣れた瞬間から、まわりの世界はつまらないものに見えてしまう。慣れていない子どものような視点で世界を見ていれば、大人の脳は想像以上に潜在能力を発揮するんですよ。(p.21)

<生きることに慣れてはいけない>

なるほど。

「感動する能力」を研ぎ澄ましておくことができれば脳は活発に機能するし、上機嫌でもいられるということなのだろうな。

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モデルとしてのおとな

道新2005年2月13日「親が生き生きしてれば子の9割「未来に希望」---やっぱり「子は親の背中見て育つ」/子に望む生き方 実践は少数派」より。
 親が生き生きしていれば、子どもも未来に希望が持てる--。親の生き方が子どもに影響を与えることが、くもん子ども研究所(大阪)の全国調査でわかった。しかし、わが子に「情熱」や「チャレンジ」など果敢な生き方を望む親の大半は、自ら実践してはいなかった。「子どもに希望を持たせるためには、自分の行動や考え方を見つめ直す必要がある」と専門家は指摘している。(大口弘明)

 調査は昨年3月、全国の小学4年-高校3年生とその父母に郵送で行い、711組から回答を得た。
 親には「生き生きして張り合いのある生活をしているか」、子どもには「自分の力が未来に影響を与えられるか」と問いかけ、その結果をクロス集計した。
 親が「生き生きしている」場合、「自分の未来に大きな影響を与えられる」と答えた子は6割に上った。「少し与えられる」を加えると、9割の子が自分の可能性を意識している。
 しかし、親が「生き生きしていない」場合、「大きな影響を与えられる」と考える子は4割と半数以下。「少し与えられる」を含めても、可能性を感じる子は75%だった。
 また、親が子どもに望む生き方と、親自身の生活には大きな落差がみられた。9割の親が子どもに「自分の目標に向かって情熱を傾ける」ことを望んでいるが、そのように生きているという回答は3割にとどまった。
 「社会や人びとのために役立つ」ことを求める親も8割にのぼったが、実践している人は3割。「新しいことや難しいことにチャレンジする」は8割の希望に対し、行っているのは4割だった。

 こうした結果について、同研究所は「子どもたちが一番影響を受けるのは家庭。親の姿や意見を通じて社会を感じ、未来に思いをはせる。子どもたちが未来に希望をもち意欲的になるためには、やはり親の意識から変わる必要がある」と提起している。

調査結果の前段については、まぁ、あたりまえの結果だとまずは感じた。
だが自分の可能性を信じる子どもの割合が、親の姿勢によって90%と75%の差だというのはむしろ小さいか。
親が反面教師になっているということもあり得るな。「こうはならないぞ」と。

いや、太字にした「言ってることとやってることが違う」「自分のことは棚にあげる」態度をおそらく感覚的に見抜いている子どもからすれば、親は反面教師というより「当てにならない人」として映っているのかもしれない。
だから別のところに希望を見出していたりして。

だがこの<親−子>という関係を<教師−生徒>さらに一般化して<おとな−子ども>という図式で考えたら希望が見えてくるかというと必ずしもそうとは思えない。
教師一般も、おとな一般も、背中を堂々と晒せるように生きているかというとそうでもなさそうだから。

『OK?ひきこもりOK!』での対談で宮台真司は次のように言う。
 成熟社会においては、関係性に敏感な人間にだけ、天下国家のことを考えてほしいと念願するからです。そうでないと、とてもじゃないが、彼がもたらさんとする天下国家を信用できない。なのに残念ながら、関係性を享受する敏感さを欠いたオヤジが、欠落を補償するために天下国家を憂えているという「貧しき構図」が、日本では、論壇から政治家まで覆い尽くしているのです。[…]
 天下国家を論じている人間がどういう家族を営んでいるんだという問題[…]
 関係性と天下国家と両方に敏感であれと言っても、そういう生き方をする年長世代がほとんどいないという問題です。子どもに自己決定せよという教師が「お前はどうなんだよ」という問題と同じ構図で、現行の教育システムの中ではモデル提示機能が期待できないということです。[…](p.89-90)
 メディアのモデル提示機能が際立ちます。たとえばコギャルたちに多大な影響力をもつ安室奈美恵の結婚と出産が、彼女らが援交から離脱して彼氏一筋がいいと言い出すキッカケでした。保守論壇の「説教しろ」などという叫びは屁にもならないわけです。(p.96)

文中の「関係性」ということばがわかりにくいかもしれないけど、「足元の生活」とか「日常のコミュニケーション」に置き換えてみればおおよそ意味は通じるだろう。

安室奈美恵の結婚と出産がそんな影響力を持っていたとは知らなんだ。そういうものなのかもしれない。
メディアはもはや「現実」を構成する最大の世界なのだから。

それでもあいかわらず、身近な親・教師・おとなには、説教するより自分がやってみせる・体現するってことが求められているんだと思う。
「いまどきの若者は…」などとのたまう前に、自分を、自分のまわりのおとなをよく見ろということでもあるな。

自戒をこめて、そう思う。
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「PTSD」の危うさ

<虐待「不安」の増加>に引き続き『「心の専門家」はいらない』から。「PTSDと「心のケア」」が興味深かったので紹介する。
もっとも、この本は全体が興味深い。“問題を「心」に閉じ込め、さらにそれを専門家に譲り渡すようなことはするな”というのが主旋律になっている。それは不登校、介護、犯罪被害などいろいろな場面で必要とされる「ケア」の意味をとらえなおすための基本的な視座を与えてくれるものだと思った。

事件や災害が起きると「専門家を派遣せよ」という主張がよく聞かれるようになった。
だが見知らぬ人が“専門家でござい”と現れて心を開けるものではなかろう。しかも多くの場合、治されようとするのは“心”であって決して原因である“状況”ではない。例えば震災の下でケアを必要とするのは生活の具体的ないちいちの困難であって、それと切り離された“心”ではないはずだ。
「心の専門家」はどのように役に立ち、どのように役に立たないのか。

Amazonのカスタマーレビューに
「自分に都合の良い具体例だけを挙げて結論づけてゆくのは、仕方のないことであるけれど、説得力を半減させている」
という指摘があったが、今のところ僕には「典型的な具体例」が挙げられているとしか感じられない。
「この本は、将来心理臨床にたずさわろうとしている人は一度読んで見る価値が、あるかもしれません。この本に書かれているどの部分が一理あり、どの部分がそうでないかをよく考えることは、心理臨床家の社会への説明責任を考える上で、ためになるのではないでしょうか。
 この本にはカウンセリングブームが残した、マイナス面が強調されすぎ、その「一部の人間の活動」を心のケアひいいては心理臨床全般に拡大解釈して書かれている感があります。その点、一般の方が読んだときに、心理臨床活動に対して著しい誤解が生じることが危惧されます。
 私はこの本を読んで、やはり心の専門家は必要であると再認識させられたまでです。参考になりました。」
公平な感じで書かれているようでいて、最後のところは捨て台詞に聞こえてしまう。「一部の人間の活動」以外については心理臨床活動を進める立場の人たちによる記録を読めばいいのだろうけど、小沢氏の議論に対する内在的な批判を読んでみたい。どのへんが「一理ない」のだろうか。
おそらく、「心の専門家」はいま必要なのだ。いなくなると対処に困るという意味で。だがなぜ困ってしまうのかという状況把握についても、小沢氏の議論に説得力を感じる。

大学入学時に「実の成る木を描け」という課題が与えられたのを思い出した。「バウムテスト」というらしいが、当時は「これで何かヘンな性向が見つかったりするのかな」とちょっとビクついたかもしれない。何でもなかったようだが。
(『新版 精神医学事典』(弘文堂、1993年)によると、
「木の全体の形、大きさや豊かさ、幹や枝の形と伸びる方向、葉や実のつきかたと性状、根の形状、全体のバランス、勢い、筆圧などについて細かくみながら、(1)樹木の形態分析、(2)鉛筆の動態分析、(3)樹木の配置のもつ空間象徴の解釈、の3側面から総合的に分析と解釈を行い、発達的、性格的、病理的観点から判定する。」
だそうだ。)

のちに聞いたのだが、このテストに引っかかって大学の「保健管理センター」に毎年呼び出されていた友人がいた。分析・解釈されて「あぶない」ないし「心配な」人格だということにされたらしく、本人は憤っていた。
「そんなんで何がわかるんだよ」
と。
僕たちは必ずしも、権威や科学や専門家に自分をゆだねようとは思わないのである。

だがここで「占いソフトに頼らないと自分を解釈できない症候群」(?)を思い出した。塾講師時代、そこにパソコンが置かれたときに、誰かが(僕だったかもしれない)いくつかの占いソフトをインストールしたのだが、入学願書を書く時期になってそれが大活躍してしまったのだ。
「自己PR」みたいな欄に何を書けばいいのかわからないというので生年月日やら星座と血液型の組み合わせやらを入力して「どういう人」か判定してもらい、そこで与えられたことばを実際に願書記入に使うのである。
単に彼らにボキャブラリーが不足していたからだと解釈することもできるけれど、不思議な思いで眺めたものだ。

最近、細木数子のことばに真剣に耳を傾けている(ように見える)出演者の表情を見たりすると、決して身近な親しい人ではない“誰か”“何か”に頼って自分を理解したいという心情は共通しているように感じる。
「そんなんで何がわかるんだよ」
とは反発せずにむしろ受容している。

不安を埋め合わせる“権威”として機能するという意味では、占いも心理学も同じ位置にいるのかもしれない。

で、本題。
 阪神・淡路大震災をきっかけとして世に広まった言葉のひとつにPTSDがある。Posttraumatic Stress Disorder の略で、心的外傷後ストレス障害と訳されている。戦闘体験や自然災害、交通事故、暴力、虐待、強姦などの強烈な被害体験、また犯罪場面への遭遇体験などをきっかけに引き起こされる後遺症状であるとされる。不眠、悪夢、フラッシュバック(災厄シーンの再体験)、鬱状態などが、被害体験者を苦しめる。
 PTSDという診断名は、アメリカにおいて1980年版の『DSM掘弊鎖声栖気凌巴播計マニュアル第三版)』に加えられた。そもそもPTSD様の症状はアメリカにおいて、ベトナム戦争からの帰還兵のなかに見られるものとして注目されてきた。帰還兵のなかには、相手を至近距離から殺害したフラッシュバックに悩まされる人びとがおり、この人びとの回復を援助するために、多くのVeteran's Hospitarlと名づけられた療養の場が作られた。
 一方、時を同じくして女性解放運動の高まりがあり、そのなかで「レイプ・トラウマ」問題が積極的に取り上げられた。被害を受けた女性たちは共通した精神症状に悩まされたのである。男性の戦争体験と女性の強姦被害に共通するものは、症状を形成する社会状況であるとの認識が進み、PTSD概念が登場してきた。日本でこの語は、アメリカの精神科医ジュディス・ハーマンの著書『心的外傷と回復』の翻訳書が1996年に出版されてから、いっそう広く知られるところとなり、マスメディアの介在もあって言葉が一人歩きし、流行語の趣を呈しているほどである。当然そこに「心の傷」や「心のケア」という言葉が付随している。(p.173-174)

ここまでは、「ことばの経緯」として確認しておけばいいかな。
 PTSDは、極度に衝撃的な場面に遭遇することによって発症すると理解されている。しかしじつは、衝撃的体験をしたあとの「人間の関係」に問題があって、それが症状を強める場合が多いのではないかと、わたしには思えてならない。そのことはあまり論じられていないと思う。災害や事故そのものだけが症状を引き起こすように考える人がほとんどだ。災害や事件そのものの衝撃を否定するものではないが、そこから二次的に派生する周囲の無視や差別や裏切りなどに苦しみ、しだいに症状が深刻化されることがあるのを見落としてはならない。周囲の人びとの対応や関係のありようを抜きにして「発端の衝撃的なできごと」のみを取り沙汰すれば、症状は個人のなかに閉じ込められ、周囲の不適切な対応は問題のそとに括りだされてしまう。そのときPTSDという診断名は、本人の周囲の人びとを免罪する機能を果たすことになる。そこに医療による「心のケア」が加われば、本人は「不運なできごとに遭遇した気の毒な人」としてカプセルに入れられるようにして、関係から切り離されていくのである。診断名がもたらす隔離である。(p174-175)

このあと小沢氏はひとつの具体例をあげる。
火災に出会ったのちに失火責任者ではないかと誤解され、信頼していた職場の上司や仲間は自己保身のために守ってくれないという状況の中で心身に極度の不調を来たした女性の場合、被災体験をその原因とするPTSDと診断された。だが彼女を追い詰めたのは火災の体験そのものよりも、その後の周囲との人間関係ではなかったのか、と言う。
衝撃自体とその衝撃をひきずらざるを得ない状況の両方を対象にしなければならないにもかかわらず、その衝撃的体験をその後の経過から切り離し、さらに個人的体験としてそれを周囲との関係から切り離して「心の病」の問題に押し込めるとしたらPTSD概念は罪作りだということになりそうだ。
そうした診断の下に行われる治療は、過去のできごとを清算したり赦したりできるように心の持ちようを変えさせるということになるのだろうが、過去をひきずらせた今現在の周囲の関係に変化は起きないということになる。
治療そのものも<専門家--クライアント>という閉じた関係の中で完結させられようとしがちだろう。

そのように「隔離するためのレッテル張りとして機能する」という事態は確かに起こりそうだが、逆に本人が“診断名”を与えられて安心するという役割も果たすのではないか、とも思った。
「アダルトチャイルド」なんかも、“名称”が存在するからには同じような生きずらさを感じている人が他にも少なからずいるわけで、それを知ることによって一定の安心を与えられるだろうし、自分の状態に説明原理を獲得することでラクになることもできるのではないか。
このへんのことは、例に出された女性のことばを引いて次のように説明されている。
 彼女は「PTSD」や「トラウマ」という言葉の氾濫に違和感を覚える一方で、自分にとってのカウンセリングの意義を認め、その間を揺れながらこう記している。「……カウンセリングの場は、わたしの体験を重要なものとして聞いてくれる場であり、相手の反応に過敏に緊張することなく話しても大丈夫な、『安全な』場でありました。『安全感』がほんとうに欲しかったのです。そのことについて『語る』ことにどうしても非常な緊張や震え、怖さがあって、日常の人間関係である友人や家族、周囲の人たちには、ほんとうにかいつまんでぶつ切りにしか伝えられないし、ましてや火事の現場担当者である職場の人間関係となると、感情さえコントロールする自信がありません」「わたしはPTSDという概念を、都合よく自分の『回復』に向ける道しるべとして利用したと言えるかもしれません。またPTSDという診断名を人に告げ説明しはじめることで、わたしの体験してきている状態を相手に伝える糸口にする場合もあります。そこでは、何か具合が悪いとか調子が良くないとかいった漠然とした形ではない『深刻さ』を伝えられるのではないかという期待があるのかもしれません。(p.178)」

カウンセリングが「安全」であり、だからそうした場が必要だった。そこから導き出されることは一つには臨床心理的アプローチの有効性であり、二つには「他の場が安全ではなかった」という事実だろう。
周囲との関係性の中でカウンセリングという安全な場を選びとって利用することができるというのは大切なことだが、それが「他の場」の安全性をもたらすものではない。

「他の場」とは日常の人間関係のことだが、ある意味カウンセリングとは日常の人間関係を変更しないままそれに適応する術を与えようとする営みだと言えるかもしれない。

だがそれは必要とされているし、流行であったりする。そこに見える問題点を小沢氏は二点にわたって指摘する。
 第一の問題は、誰もが悩みや葛藤を抱えながら生きていくという寛容な見方が失われ、それらはマイナス要因であると捉える機械的な見方が広がっていることである。もちろん災害や事故や親しい者の不慮の死は悲劇的だ。しかしそのような場面で、初めて人の支えの意味に気づく場合も多い。[…]喪失と恩恵、不運と新しい出会いが重なって、「傷」は正負まじりあった事件へと変貌していく。[…]
 二つ目の問題は、細分化されたラベルを用意する専門家側とそれを消費する利用者側の関係が出現して、自分が生きていくということの意味が薄れていく現象が起きることである。[…]精神病院で働く三輪寿二は体験的に、診断名で自分のアイデンティティを作ろうとする利用者が最近増えたとの印象を語った。何でもトラウマにしてしまい、それらをじっくり自分で考えるというよりも、行きずりに診断名を買う消費行為のように感ずることがある、と。(p.180-181)

権威や専門家が与えてくれる自己理解の枠組みは確かに便利だ。
だがそのことばで自分を括って「安心」するところで終わるのならば、いま抱えている具体的な困難の克服をもたらすことはないだろう。

その「治療」を誰かにゆだねることができたとしても、そこで与えられるのは「心の平安」ではあってもただの「適応」や「あきらめ」かもしれない。
場合によっては薬物による「感覚麻痺」でさえありうる。
『暗いニュースリンク』03/02/2005「米軍兵士と合成麻薬MDMA」より。
2001年11月、米国の食品医薬品局(FDA)は、合成麻薬MDMAをPTSD(心的外傷後ストレス障害)患者の治療手段として処方し、経過を調査する研究計画を承認しているが、アフガニスタン・イラクから帰還し、PTSD症状に苦しむ米軍兵達も、今年から被験者としてこの治療実験に加わっている。

MDMA処方の実験を主導するマイケル・ミソファー医師によれば、戦闘ストレスが原因でPTSDに陥った兵士達にMDMAを処方することにより、心理的障壁を取り除き、治療にあたるセラピストに対しても戦場での体験を話し易くなるなどの効果が期待されているという。

USAtoday紙2005/02/28付け記事によると、アフガニスタンとイラクに従軍し帰国した米軍兵士の内、すでに24万4,054人が除隊し、1万2,422人がPTSD症状により米退役軍人局のカウンセリングを受けている。米国では戦闘を経験した退役軍人の約30%がなんらかの精神障害を抱えるというから、米政府にとって軍人向けPTSD治療体制の確立は急務であり、MDMAなどの薬物による治療法が本格承認されるのも時間の問題だろう。

アフガニスタン・イラクの戦場から帰還した米軍兵士達にとって、退役後の仕事を見つけるのは至難の業である。そして、イラクの戦闘には沖縄駐留の海兵隊からも多くの兵士が派遣されている。戦場から帰還した彼等が、沖縄の米軍基地内医療施設で、PTSD治療の為にMDMAを処方されることが日常となり、退役後の蓄えのためにその薬物を国内流通させるようになった時、私達は薬物汚染を嘆くと同時に、戦争の影に恐怖し、たいした調査も討議もせず戦争支持を表明した日本という国家にあらためて愕然とするのだろう。

<感覚を麻痺させるという治療>が行われるというわけだ。
原因となった戦争そのものの見直しや帰還兵に対する経済的な処遇の改善ではなく“個人”の“心”がもっぱら対象とされるという点で小沢氏の危惧する問題のすりかえは起こりえるということだろう。
<社会関係への感覚の麻痺>のためにPTSD概念が使われていないか、いろいろな場面で注意が必要なのだと思う。
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昔の遊びは生き残るか

斎藤孝/山下柚実『「五感力」を育てる』(中央公論新社、2002年)に「ベーゴマ人気」が紹介されている(p.126-127)。
 鉄製のコマを回し、コマとコマをぶつけ合って遊ぶベーゴマ。この昔懐かしいベーゴマ人気復活の背景には、「ベイブレード」の大ヒットがある。ベイブレードはベーゴマをヒントに1999年、大手玩具メーカーのタカラが発売した遊び道具。ひもではなく、発射装置を使って回す。誰にでもすぐに回せ、また、パーツの組み合わせによって攻撃力を変化させるなど、メカニックな点も人気をよび、生産が間に合わないほどの売行きとなった。このベイブレードに触発されて、子どもたちがベーゴマに転向したのではないかと言われている。
 ベイブレードにくらべ、ベーゴマは回すこと自体に技術がいる。また強いコマにするには、やすりで削ったり重りをつけたりといった加工が必要になる。そういった創意工夫の楽しみが子どもたちの心をつかみ、かつて遊んだ経験のある大人世代も巻き込んで、今のベーゴマブームが起きている。
 東京都町田市の和光鶴川小学校など、ベーゴマを授業に取り入れる学校が増え、東京・池袋にあるテーマパーク、ナンジャタウンでは、設けられたベーゴマ場で子どもも大人も一緒になってベーゴマ勝負に熱中する光景が見られる。全国各地でもベーゴマの競技会が盛んだ。
 現在、国内で唯一ベーゴマをつくっている埼玉県川口市の日三鋳造所は、遊びの変化により、一時、製造を中止したことがある。しかしファンの声に応えて生産を再開。今は、全国から注文が殺到している。

このことをとらえて山下氏は、「ベーゴマは触覚の遊びで、指先の微妙な加減でひもを巻き、一瞬のひもの「引き」に力を集中する。投げて引くときのころあい、腰の構えとか、小さなベーゴマ一つの遊びの中に、五感力につながる要素が豊かに入っています。」(p.125)と述べる。
僕自身はベーゴマに触れたこともない。鉄製ではなく木製のコマならば回してみたことはあったけれども、なかなかうまくいかずに投げ出したんじゃなかったかな。
あ、「ジャイロごま」っていう、回すのに失敗がなくてちょっとアクロバティックなこともできてしまうヤツではけっこう遊んだか。失敗がない分、確かにあれで微妙な感覚や調整能力が伸びたりはしなかったかもしれない。
総じて手先が器用じゃなかったから、疎んじてそのままここまで来ちゃったような気がする。

その点、今の子どもたちのあいだに<ベイブレードからベーゴマへ>という動きがあるなら喜ばしいことかな。
だが、『ネット王子とケータイ姫』で香山リカは次のように言う。(p.173-174)
 よく、「手づくりおもちゃの会」といったシニアのボランティアグループが地域の子どもを呼んでベーゴマやメンコといった昔ながらの遊びを教えている様子が、テレビのニュースで取り上げられることがある。参加している高齢者は「ゲーム、パソコンと機械にばかり向かう子どもに、手づくりおもちゃのよさを伝えたい」などと言い、子どもは「楽しい!」と歓声をあげている。しかし、それからその地域でどれくらい、ベーゴマやメンコが流行るだろう。もちろん、そういう経験も悪くはないが、一度、手に入れたテクノロジーを手放せるのは、そういう機器との生活に疲れきった中高年だけだ。そういう読者を対象にした雑誌には「自然の中で暮らそう」といった特集はあっても、『SPA!』(扶桑社)や『週刊プレイボーイ』(集英社)に「ケータイを捨てて、海辺でゆったりライフ」といった特集が載ることはないのを見ればわかるはずだ。

なるほど、確かにベーゴマとか手づくり・昔ながらの遊びがメジャーになるということはありそうもない。山下の発言が2002年で香山のそれが2004年だから、新しい方が的を射ているという見方もできそうだ。
また「遊びを教える」というスタンスが、1月21日の<子どもの運動不足とおとな>で紹介したような「遊びは楽しければそれでいいのだ、といういさぎよさ」を失わせるという心配もあるかもしれない。
ただ、『SPA!』や『週刊プレイボーイ』を例に出されても、問題にしている年齢層が違いすぎて「どうせ流行らん」という根拠にはならんだろう。

実際のところはどうなんだろう。

ググってみると「ベーゴマ」で19900件。
なかなかすごいではないか。
<第1回ベーゴマ世界大会2005>というページがある。これは新しいではないか。だが内容を見ると、参加者40人のうち子どもはほんのわずかで、おじさんがほとんどのようだ。
次に山下氏の紹介にある和光鶴川小学校からたどっていく。すると、「日本こままわし普及協会」にたどりつく。そこの「第10回こままわし大会」を開くと、ほとんど参加者は子どものようだ。しかも200人。優勝者は小学3年生だという。やはり子どもの世界にじわりと浸透しているのか!?
唯一ベーゴマを製造しているという日三鋳造所のページを見ると、売上の推移みたいなのは見つからないものの、なかなか充実した内容だ。

さて、ベーゴマに限らず、「昔ながらの遊び」は果たしてどれくらい生き残っていたりリバイバルしたりしているのだろう。
ここ見てる人は一日平均20人くらいだけれど、何かヒントをお持ちの方がいらっしゃれば教えてほしいと思う。
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遊ぶ「能力」

21日に書いたことに関連して。
道新2005年1月24日夕刊の<今日の話題>欄、奥田俊彦「原っぱ人気」より。
 「原っぱ」が人気だそうである。
 東京都小金井市の江戸東京たてもの園は、原っぱをテーマに立て続けに特別展やイベントを企画し、好評だ。
 昨年1-3月の特別展「夕暮れまで遊んだころ」で、かつては子供の一番の遊び場だった原っぱの姿を紹介した。
 12月からは「ドラえもんとはらっぱ」(4月10日まで)を開いている。のび太の家の模型や、漫画に描かれた原っぱの世界など屋内展示も見どころ。
 昨年に続いて、2月には園内の原っぱを会場に「はらっぱ大会」を開く。竹馬やベーゴマといった昔の遊びが体験できる。
 園内の原っぱは、何の変哲もない。広さ約150平方メートルの四角い空き地に、大、中、小のコンクリート製の土管をひとつずつ並べているだけ。人気の秘密は何か。
 年配者にとっては郷愁、三十台以下の若い人たちには、実体験よりもアニメなどで見た風景への懐かしさ--。同園の見方である。
 囲いが無く、自由に出入りして遊べる空き地は、都市ではとんと少なくなった。窮屈な管理社会に生きる私たちにとって、原っぱで遊ぶ風景は、のどかさとぬくもりの象徴になりつつあるのだろう。

「原っぱのおかげもあって、客層は子供にまで広がってきた」とあるんだけれど、その自由な空間でおとなと子どもがどうやって遊んでいるのかの描写がないのが残念。「江戸東京たてもの園」のWebページを見てもそのへんはわからない。

大学院生時代に鎌倉ハイキングに行った際、広場で確か“手つなぎ鬼”とかして駆け回った。それがやけに愉しかったという記憶がある。「この年になって…」という照れがあったはずだけど、しだいに吹っ飛んでいた。ずいぶんと“いさぎよく”遊んだのだ。
遊びによって年齢や役割から解放される、というか年齢や役割から解放されたらそれを“遊び”というのだろう。からだを思いっきり動かすのはその“解放”のために最適だ。
カイヨワによれば、遊びとは強制されない「自由」な活動であり、日常生活とは時間的・空間的に区別された「分離した」活動であり、またあらかじめ結果がきめられない「不確定」な活動であり、財貨や富をつくりださない「非生産的」な活動である。それはさらに現実の社会生活のルールとはことなった、それに固有の「ルール」をもった活動であり、あるいはルールをもたないばあいでも、非現実の意識をともなう「虚構的」活動として、現実生活とはっきり対立する。(『社会学文献事典』)

こんなのがあった。
竹内敏晴『ドラマとしての授業』(評論社、1983年)p.85-86から。
 小学校の教師である鳥山敏子さんは、職場の仲間たちと共に子どもたちの遊びについて調べていました。子どもたちが、どんな遊びをしたがっているか、またどんな遊具を望んでいるか、をまとめたデータを元に話しあっていた時、私は、だいたい遊具がなくては遊べない、という発想自体がタイハイしてるんだよナ、という言い方をした。彼女たちも前からそう考えていたということで、やがて彼女は、全校いっせいに、一切遊び道具を使わないで遊ぶ日、という試みを職員会議で提案したのです。
 やってみよう、ということになったが、ボールを取り上げたら子どもはあそべないんじゃないかと心配する教師や、それではなにをしたらいいだろうと学級会を開いて相談する教師も現れるといった騒ぎだったそうです。彼女は朝礼の時、子どもたちに聞いてみた。ボールも縄も、ジャングル・ジムもみんな使わないとしたら、遊ぶためになにが残ってる? 手をあげた一年生の子の答えがすてきでした。「じめんがある」

すてきだ。
でもこれは20年以上前の話。
こういう「遊びへの自由」の感覚は今育まれているのだろうか。

学力とは別に、「感動する能力」「共感する能力」というのを想定することができるように思う。ならんで「遊ぶ能力」も。
そういう能力が発達するためにはそれにふさわしい社会環境が必要だろう。とりあえず、原っぱとそこで一緒になって遊ぶおとなの存在はけっこう大事かな。
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子どもの運動不足とおとな

『AERA』2005年1月24日号、「冷たい子どもが増えている---運動不足と冷暖房の影響」から。
 低体温現象には運動量の減少が関係している可能性がある、と木村さんはみている。運動量が減ると、筋肉量は減り、結果、熱をうまく作れなくなるのだ。
「昔だったら学校で運動して、家に帰っても外を駆けずり回っていました。でも、今はそれをできる場が減りましたから」
  […]
「昔は寒い時にがたがた震えながら寒さに耐えたり、暑い時に汗だくになりながら、自律神経が鍛錬された。でも、冷暖房が普及して、その機会も減りました」
 暑い時に汗をかいて熱を出し、寒い時に熱が出るのを防ぎ、体温を調整するのが自律神経。本来自然に働く自律神経の機能が低下している。
  […]
 真弓定夫院長によると、自律神経のバランスが崩れると血の流れが悪くなり、冷えや肩こり、腰痛の原因になる。免疫力や自然治癒力が弱まり、抵抗力も低下。感染症や病気になりやすい身体になるという。
 だが真弓さんが最も危惧するのは心の問題だ。
「低体温になると活力が落ちるので、考える力も落ちます。それは、子どもの犯罪や異常行動にも関係してくるでしょう」

僕は子どものころ、周りと比較すれば一人でいることが多かった。トランプの一人遊びなんかかなりの種類をこなしたものだ。それでもそれなりに外遊びしていたような気がする。
当時の近くの道路は舗装されてなくてクルマが通ることもあまりなかったし、柵をすり抜けて“冒険”するような場所もあった。それに塾通いなんてとても珍しいことだったから最近言われる「空間・時間・仲間の三つの間がない」なんていう状況ではなかった。さらに小学校4年生のときには卓球と出会ったし、運動不足には無縁な子ども時代だったと思う。
釧路にいた中学2年生のときだったかな、学内の弁論大会みたいなのにクラス代表として何かしゃべって、そのしめくくりが「あなたも、スポーツしてみませんか?」だったくらいだ。

今の子どもが運動不足だとしたら、もちろんそれは子ども自身のせいではない。

どう対処するか。

道新2005年1月18日「首都圏で人気 道内でも?:体育の家庭教師」より。
運動不足やスポーツが苦手な子供に鉄棒や走り方を個別指導する「体育の家庭教師」が首都圏で人気だ。「運動会の徒競走で一位に」「子供の遊び相手に」など要望はさまざま。少子化や習い事が増えて、子供同士で体を動かす機会が減っていることが背景のようだ。家庭教師を派遣する会社も徐々に増えている。
  […]
 家庭教師をつけた理由を「一人っ子で近所の子供と接点がない。体力をつけられるし、スポーツの楽しさを安全に教えてもらえるから」と説明する。
  […]
 家庭が求めるのは運動能力だけでなく、「母子家庭で子供が男の人と接する機会がない」「夫が仕事で忙しい」などの理由で「ただ一緒に遊んでくれればいい」と頼まれるケースもある。水口さんは「こうした仕事が伸びることに複雑な気持ちもあるが、子供が達成感や充実感を得ることで、自信や意欲を持つきっかけになれば」
  […]
 この仕事を始めて驚いたのは子供たちの運動能力の低下という。指導を始めるとすぐに「足をけがした」とやめてしまい、聞くとただの筋肉痛だったことがある。ボールが自分に飛んできても手を出さない子供もいる。山本さんは「自分が子供のころは、公園や空き地で友達と遊びながら自然と体力や運動能力がついた。今の子はそうした機会がないのだろう」と言い、家庭教師を求める家庭は今後も増えるとみる。

ここまできたのか、と感じる。

市場に外注しないと家庭も学校も子どもの運動不足を解消できないという事態。

関連して教えてもらったのは次のような光景だ。市内の温水プールで指導員のもと、子どもたちが水泳を習っている。その母親たちは着替えるでもなく上から子どもを見下ろしつつ談笑している……
“外注して済ます”という点では確かに似ているように思う。
一緒にいる時間があるのならば一緒に泳ぐなり遊ぶなりすればいいのに、というのは事情を知らない者の勝手な言い草かな。

「子どものためだから」と何種類もの習い事をさせる例は昔からあったが、先日テレビで紹介されていた週に7・8種類の習い事という家庭では、普通の塾・家庭教師や音楽教室にならんで“体力づくり”のためのものがあった。太極拳だったか、少林寺だったか。
それ自体がよくないわけではなかろうが、お仕着せメニューの中のひとつとして並んでいる限りは子どもの自発性とは無縁のもののように見えた。
古いけど、斎藤次郎『ああファミコン現象』(岩波書店、1986年)p.16から。
 近ごろの子どもは遊べなくなったとか、遊びがへたになったとか嘆くおとなたちは、むろん善意からなのでしょうが、とかく子どもに遊びを教えたがりまず。子ども会の行事とか、スポーツクラブとか、なんとか教室とか、おとな主導の「遊び」があふれていますが、はたしてあそこに、遊ぶ子自身の自発性がどこまで尊重されているか、疑問なしとはしません。
 それにまた、手づくりおもちゃの教室では、子どもたちの創造性を豊かにすることが、スポーツクラブでは、からだづくりやチームワークの大切さを教えることなどが、目標視されがちだ、ということもいっておきたいと思います。遊びはたのしければそれでいいのだ、遊ぶこと自体が目的なのだ、といういさぎよさが、失われてしまうのです。

「テレビゲームばかりじゃない、こういう遊びも楽しいんだよ」と提案する機会は設けた方がいいように思う。ただそのとき、「教えてあげる」というよりも、子どもと一緒に大人も“いさぎよく”楽しめばいいんじゃないかな。

からだをシンクロさせることで伝わるものはきっと大きい。
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笑うから楽しい

道新2005年1月19日夕刊、「笑いの効用---脳や免疫機能を活性化」より。
 「『笑う門には福来る』というが、病原菌も逃げていくようだ。笑いの効用は科学的に実証されていて、世界の医師がいろいろなデータを出している」と医療ジャーナリストの松井寿一さん。
 笑いは、うれしさの笑い、親しさの笑い、おかしさの笑いの三つに分かれるという。学問的にはそれぞれ、愉快の快の笑い、社交場の笑い、緊張緩和の笑いだそうだ。
 「どの笑いでもいい。笑うことが大事。笑うから楽しいということもあって、何の意味もなく大きな声で笑ってみると、それがおかしくて自分で笑いだすときがある」
 笑いの効用の一つは、脳の活性化作用。左脳は論理的なことを考えるのに対し、笑いは情緒的なことをつかさどる右脳に入って活発化させる働きがある。
 […]
 松井さんは「笑いには免疫機能を活性化するという重要な働きもある。楽しいことを考えるだけでも効果がある」と話している。

昔はこういう考え方になぜか反発を覚えていたというか、バカにしていたというというか、とにかくなじめなかった。おそらく、感情表現を自ら抑圧している人間にとってみれば都合が悪い発想だったからだ。
でもいつのころからだったか、意図的に表情をやわらかくしよう、笑顔でいようと気をつけるようになった。暗い顔をしていると気分はますます暗くなるということに気づいたからだったと思う。意図的にやってる分、自覚していないときには相変わらず硬い表情なのかもしれないが。
(あの「ヨン様」も「怖く見える」と指摘されて以後、意識して笑顔でいることにしたんじゃなかったかな?)

前に紹介した『子供の「脳」は肌にある』からまた。
 かつてアメリカの心理学者、ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)は、「我々は悲しいから泣くのでなく、泣くから悲しいのだ」との考えを主張した。ほとんど同じ時期に、オランダの生理学者のカール・ランゲ(1834-1900)も同じことを言い出したので、「ジェームズ=ランゲ説」とよばれている。
 常識的に考えると、私たちは「悲しいから泣く」し、「うれしいから笑う」。しかし彼らは逆の主張をした。人の感情が生まれるためには、まず内臓や筋肉のわずかな収縮が起こることが必要だと考えたのだ。そしてその変化が脳で知覚されて、それが感情を生む力となる。「泣く」という筋肉の運動や内臓での微細な変化が「悲しい」という感情を生み出す源となっているというわけだ。

科学者の名前が冠されているとますます本当っぽいな。
いや、科学的根拠がなくたって実感できることなのではないかな。
笑顔を見せることで不利益をこうむったりするのでない限りは、仏頂面でいるより自分もまわりも少しだけ幸せになれそうな気がする。

(“日本人の曖昧な笑い”として非難されたりするのかもしれないけど、それはまた別に考えたい)
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ふれる文化と日本

ふたつの文章を並べてみる。
まずは三砂ちづる『オニババ化する女たち』(光文社新書、2004年)から(p.229-230)。
 人間は根源的なところで、誰かにふれてもらいたい、抱きとめてもらいたい、という欲望がありますから、それが満たされなかった人たちが、しっかりとしたからだのふれあいを求めてやっていることなのかな、と援助交際について聞いたときは感じたものです。お金が絡んでいますから単純に言えないところもありますが、本当は「援助交際」でホテルになんか行かなくてもいいのかもしれません。でも、日本では、「ちょっと抱きしめる」だけのこと、というのはまずあえい得ませんから、「抱きしめるからには最後までいかなくてはいけない、そうしないのなら、何もしてはいけない」というふうな極端な状況が、援助交際のような外国の人から見たらたいへん異常な事態を引き起こしているように思うのです。
「ふれる」という欲望を総じて満たされていないので、自らの身体性をなかなか確認できない、そのあたりにも今の日本の盲点があるように思えます。昔からの日本はそうではなかったでしょう。抱きしめ、抱きしめられるような挨拶はしていなくても、もっとお互いにふれていた。公衆浴場がなくなり、縁側がなくなり、施設出産をするようになって、お互いのふれあい、自らの身体性の確認、といったことを、指から砂がこぼれ落ちるようになくしてしまったのではないかと思います。

続いて、先に紹介した『子供の「脳」は肌にある』から(p.162-163)。
 欧米では、ここ数十年の間に、性に関する行動に対しては社会的な制約がゆるみ、恋人や夫婦が性的なスキンシップをすることは、映像メディアのみならず日常場面においても、容易なことになってきた。
 ところがそれとは逆に、性的なニュアンスを含まないスキンシップは減少しているという。アメリカの多くの学校では、先生が生徒に触れることは法律で禁止されている。カウンセラーやセラピストがクライアントに触れることも、多くの学派では倫理的に禁止されている。州によっては、子どもと一緒に入ったりプロレスごっこするだけで、虐待だと扱われることさえあるという。

アメリカの日本化?
というよりも、権力的・権威的な関係が生じ得る場面ではアメリカでも不自由になっているということか。

少し関連してるので思い出したのが、【「思い残し症候群」の岩月謙司氏、逮捕】という先月の報道。詳しくはhttp://homepage1.nifty.com/eggs/news/06iwastuki.htmlをどうぞ。

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硬直したからだとこころ

山口創(やまぐちはじめ)『子供の「脳」は肌にある』(光文社、2004年)は面白い。身につまされる記述がいろいろあるが、まずは「つらい経験が身体を硬直させる」という項から。
 人との共感が生まれるとき、そこには身体レベルでの模倣が起こっている[…]
 しかし実際には、身体の模倣が起こりやすい人と、起こりにくい人とがいる。この違いは性格の違いに起因するというより、身体の状態の違いによって生まれてくる。
 たとえば、親からいつも叱られ続けたり、虐待を受けてきた子どもというのは、普段から顔や体の筋肉に知らずに力が入っており、硬直させている。顔は無表情でこわばっていたり、肩を丸めたりいからせたりしていることが多い。
 これは叱られたり罰せられたりするたびに、身を守ろうと体を硬くしてきた結果、そのような筋肉パターンが慢性化してしまっているからである。
 筋肉が慢性的に緊張していると、その緊張した身体部位への感覚に気づくことができなくなったり、現実が歪んで知覚されたりする。つまり、体のフィードバックがうまくはたらかなくなるのだ。すると、人が笑っているのを見たときに、その笑いの表情に(実際には存在しない)敵意のニュアンスを知覚したりすることになる。親切にされても、素直に喜ぶことができず、相手に親密な感情を感じることもできない。そして何か裏があるのではないかと、さらに体を硬直させてしまう。
 こわばった体の筋肉パターンは正確な共振を妨げる。そしてその人独自の筋肉運動が生じて、歪んだ知覚をさせてしまうのだ。
 これは虐待などの深刻なストレスを受け続けた人のみに限ったことではない。普通の人でも、幼少期からの感情生活の積み重ねによって、ひとりひとりユニークな筋肉パターンが形作られているといえる。

以前にどこかで書いたかもしれないけれど、僕の表情はホントに貧しかった。「おかしかったら笑えばいいのに」と小学生のときに何度も言われ、大学院生時代のバイト先で中学生につけられたあだ名が「シッシッシーの斉藤」(こらえた笑いがシッシッシーに聞こえたらしい)だった。
「感情表現」が貧しいときっと「感情そのもの」も貧しくなってしまうのである。「男は感情を表情に出さないものだ」となぜか思い込んでいた自分はその分貧しくて不幸だったと思う。
山口氏はからだとこころを柔らかくするために相互のマッサージが有効だとしているが、きっとそうだろう。お互いの存在と生命を実感し、尊重しあう関係を築く訓練になるからだ。
AC(アダルトチャイルド)としての生きにくさを克服するためなんかにも、ほぐすべきなのはまずからだなんだろうな。

僕は幸いにかみさんと出会ってだいぶからだと表情と感情がほぐれた。
「表情の貧しいのがコンプレックスです、なんて嘘だったんでしょ」と責められるけれども、嘘じゃない。
まだ“硬直するからだ”が消えたりしたわけじゃないけれど、からだとこころが硬直してしまっている自分にいちいち気づくことはできる。
竹内敏晴とか、野口体操とか、古武術とか本は読んだけれどからだで実践してない。柔らかなからだとこころをつくるために何かやってみたい。
「真向法(まっこうほう)」っていうのがあるそうだ。「たった四つの体操からなり、朝夕わずか三分間」で効果があるというから、それならできるかな。
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