昨年10月に秋田で開催された唯物論研究協会第28回研究大会での、むのたけじ さんによる講演
『戦後の日本に思想はあったのか』の記録を読んだ。
「全国唯研Newsletter」No.95(2006年2月15日)では佐藤春吉さんがこんな風に描写している。
本大会の白眉といっていいかと思うが、むのたけじ氏の講演があった。むの氏の思想を生きるジャーナリストとしての気概、戦中・戦後の経験を踏まえた迫力ある語り、なにより、戦後の「無思想」状況への鋭い告発と警句、唯研への熱い期待と叱咤は、聴講者のハートに届いたのではないかと思う。90歳という高齢を感じさせない驚くばかりの大きな声、机をたたいての熱弁、東北人の根太い信念がある思想家の典型をみたように思う。これだけでも、来た甲斐があったと思わせるものであった。
むのさんについては、名前を聞いたことがあるだけだったが、すっごい元気なおじいさんらしい。
披露されているエピソードのひとつで目に止まったのが、ポツダム宣言受諾の報をマスコミが知ったのが「8月12日午後二時ごろ」だったという件だ。
朝日新聞ではその直後から、社内で敗戦後どうするかを話し合っていたのだという。しかし、
12日にそれが分かっていながら、13,14,15、打ち消し山(撃ちてし止まん?--斉藤)戦はどこまでもやるんだという新聞を出した。突然16日になって戦争は終わったという新聞を出した。
そんな風に深刻な反省もないまま時流に合わせるだけの新聞社の態度に「無思想」の一端を見出したむのさんは、すぐさま朝日新聞を辞めることになったそうだが、それ以前に、マスメディアの
<知ってて書かない>態度は相変わらずなのだなぁと思った。
「掲載禁止、秘密、だから極秘のはんこを押した」情報を山のように新聞社は持っていたという。
当時は検閲があるから仕方がないということはあるのだろうけれど、検閲のない今も似たような状況にあるとしたらそれはやはり「無思想」の証なのだろうか。
立花隆が「田中角栄研究」を文藝春秋に書いた時、マスメディアが「そんなこと は昔から知られている。新しい情報はない」と切ってすてたというのはよく聞いた話だし、西武の堤のやっていたことも記者たちの間では常識だったとも聞く。
警察や検察が“悪”のお墨付きを与えて初めて叩く。ためておいた材料をここぞとばかりに放出する。
『ご臨終メディア』で森巣博は言う。
不正を告発するのがジャーナリズムのはずでしょうが。ところが、倒れたものを叩くのがジャーナリズムとなってしまった。(p.145-146)
記者に「どうして自ら情報公開制度を利用して問題を抉らないのか」と問うと「事件をつくるのではなく事件を伝えるのが仕事だ」と答えたと誰かが書いていた。
これは要するに
<発表ジャーナリズム>宣言とも受け取れる。発表されたことを垂れ流しするだけ。
「調査報道」ということばが成立するということは「調査しない報道」というものも想定されているというか、もしかしてその方が一般的だったりするということを意味しているだろう。
やはり、お上や世間の意向に従うという点では、戦前から戦後・現在までマスメディアは一貫して「無思想」だと言えそうだ。
しかし、むのさんが「思想」「無思想」のありようを問いかけるのはむしろ知識人に対してだ。
思想ってものは覚悟なの、喋るものなの?大学で講義するものなの?違うんじゃないの?思想ってものは生きるもんじゃないの?思想は生きるものだという考えが無いんだよ。だから、8月段階のあの強烈なショックを受けながら、命を懸けてどう新しい道を歩むかということを、我々日本人は、行動として表現できなかったんじゃないですか。科学というもの、なんか知らんけどしゃべって本にして文章にして、それで飯食い道具にしている、そういうことの繰り返しじゃないの、明治元年以降。
哲学者といったら大学で哲学担当の教授がソクラテスはこう言った、カントはこう言ったって講義することでしょ?哲学者はそうじゃないでしょ。自分の哲学を自分の人生で、生きる人間が哲学者でしょ!あんた。ところが日本では哲学者といえば哲学講義者なの。思想家というのは思想の工作者なの。ここを変えなくちゃ。大学の先生方、頼むよ。
「あんたらこそ無思想なんじゃないの?」とむのさんは問いかけたのだ。
講演の場にいたら赤面したかうつむいたか、あるいは「哲学や思想のプロパーでなくてよかった」と胸をなでおろしたか。
いや、分野の問題ではない。
僕にも「思想を生きる」という課題がつきつけられたのだと思う。
もうひとつ、むのさんが若者への希望を語る箇所に目をひかれた。
1945年から60年安保まで、当時の民衆が懸命に生きた、あの生き方と、符合してるんです。何か。当てにならないものをぜんぜん当てにしないんです。もう人間を人間そのものとしてだけ見る。だから私に対して「むのさん」。「むの先生」なんて誰も言わない。向こうが10代だ、私のところに来るのは14と12の娘たちが多い。全く対等だもんな。「むのさん」「むのさん」。先生なんてぜんぜん言わない。年齢、肩書きあるいは性別、家柄、財産がある、そういうこと一切見ない。彼ら人間として対等なんです。
虚飾を見抜き、「当てにならないものをぜんぜん当てにしない」という生き方が戦後の民衆の力強さに符合するという。
「いまどきの若者は‥」などと異質なものを煙たがるのではダメだとはいつも心しているところだけれども、こんな風に可能性を見出すことには新鮮な思いがした。
ググって見つけたのが次のことば。『日本の教師にうったえる』(明治図書、1967年)から。
「Chi-Circle」のページより。
−いつも生徒に「さあ、胸をしゃんと張って」と気合いをかけるあなたが、どうして自分では胸を張って歩かないのか。どうして五、六年前からいつもうつむいて歩くようになったのか。このころの教室には子どもたちの笑いごえがない、とあなたは言うが、それはあなた自身が歌を忘れたカナリヤになってしまったからではないのか。このごろの子どもは廊下を通るときに忍者のように歩く、とおっしゃるが、それはあなたができるだけ世間の目につかないようにと、あなた自身が忍者になっていることの反映ではないのか。元気のない病人は元気な者をにくむ。あなたがた教師は子どもたちが元気であることにヤキモチを焼いているものだから「廊下を走るべからず」「ボール投げをすぺからず」と手かせ、足かせをはめているのではないのか。
−「教育の活動は、創造の活動でしょう?熱がなくて何を創造できるのか。自分が興奮しないで他人を興奮させることができるという打算は、すべて売春婦の打算に通じている。自分の姿勢を見てみなさいよ。うつむいて歩く姿はサルへの接近ではありませんか。人間の起源は四つんぱいとの決別、二本足での自立による出発だと授業しているのではないのですか。
−教師は何をもって教育をするか。自分のカラダでもって教育する。美醜、哀歓を宿して、だれもが神と魔との振幅の中で呼吸しているナマ身のカラダをさらけ出して、それで教育をいとなむほかないではありませんか、教師のやれることは、しょせん、それ以上でもそれ以下でもありえないではないか。へっぴり腰で仮装した教師ほど、教育を混濁させるものはない。(中略)
−どうも気になるんですがね。あなたがたは、自己埋没の忍術がもとからうまいのではありませんか。そういう特質が勤評・学テ体制で浮かび上がってきたのではありませんか。自分たちの精神の血統書を見られたくないので体制罪悪論の強調にすりかえている傾向がありはしませんか。あなたがたは、なぜ性別も老若も問わず、互いに「センセイ」とよび合っているのですか。忍者が素性をかくすように、あいめいの固有名詞を埋没させて呼称しあう風習を、何十年来ふしぎがらずに保守してきたのはなぜです?「センセイ」って、一体なんですです?「といわれるほどのバカでなし」といわれるほどですから、「ちょっと」「ねえ」という呼びかけ程度の希薄な意味しかもたなくなったのかもしれません。しかし庶民の生活用語では、センセイの筆頭の語義は「教諭」すなわち職名ではありませんか。だとすれば、警察官が「オイ警察官、今晩ひまなら一杯やらんか」と同僚に言ったらおかしいように、「ねえセンセイ、車の月賦の安いところ知らない?」(中略)なんて会話するのはおかしいんじゃないですか。(中略)互いに名乗りをはっきりさせて対話する習性を、なぜいつまでも職場に定着させようとしないのですか。ドレイはたいてい没個性の番号でよばれて、姓名では呼ばれないようですね。
(p46〜p48より抜粋)
若者や子どもたちのせっかくの可能性を奪うのはおとなたちであり、教師であるということだろう。
無責任に自己埋没したり権威の虚飾に頼るような生き方はまさしく「無思想」だ。(そう言えば、そういう存在の仕方は会社に護られつつ抑圧される“匿名記事”ジャーナリストに似ている)
むのさんのことは、今後折にふれて思い出したい。