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フリーター化する社会

2007年10月25日の「稚内 憲法を学ぶ会」第13回学習交流会
<フリーター化する社会--格差社会の基礎としての労働市場>
で報告した内容を同会の会報用に文章化したものが以下。

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1.大学非常勤講師の経験
■フリーターとしての専業大学非常勤講師
 首都圏や関西圏の大学の授業の半分は非常勤講師が担っており、その非常勤講師のおよそ半分が本業をほかに持たない“専業”の非常勤講師である。その実態はまさしく「フリーター」であり、不安定な雇用と低賃金の下にある。
 1年ごとの契約ゆえ、きちんとした説明なしに解雇(雇い止め)されることは珍しくなく、場合によっては「理事長の妻の機嫌を損ねた」とか「好きだったのにふられた」などということが原因の場合もある。語学の教員数十人全員が一気に解雇されたことさえあり、要するに“使い捨て”の対象である。
 僕自身は3校で週5コマの授業を持って年収は150万円ほどで、あとは塾講師をして補っていた。調べてみたら、コマあたりにかかる人件費は専任教員の約10分の1で済む。都内のある大学ではパートの職員が待遇改善を求めたら「非常勤で来てくれている先生たちを見なさい」、つまりあれよりはだいぶましなのだから我慢しなさいと言われたそうだ。当然ボーナスもなかったから、この大学に来た40歳のときに生まれて初めて僕はボーナスというものを受け取ったのだった。
■労働組合の結成
 仲間4人が集って東京都区一般労働組合(現在は公共公務一般労働組合)という非正規労働者ばかりを組織している労組に加入して分会をつくり、「首都圏大学非常勤講師組合」を立ち上げたのは1996年。現在は200名弱に成長している。
 解雇問題が主に持ち込まれて多くの団交を行ったが、雇用継続や金銭解決で勝利するケースがほとんどだった。それだけ大学側が正当な理由のない安易な首切りを行っていたということである。またある大学では16年間据え置かれていた賃金を上げさせたこともある。非常勤講師がおとなしく従っていたからそのままにされていたのだ。
 不安定で弱い状況に置かれているがゆえに、声を出したくても出せなかった。つまり何も要求してこなかったから何も改善されなかったのだったが、組合の活動である意味「羊から人間に」なったのだと思う。

2.非正規雇用の拡大
■日経連「新時代の『日本的経営』」
 <専任教員/非常勤教員>という二重構造=身分差別構造は大学という特殊な世界の中の事情で歴史的に形作られたものだったのだが、一般の労働市場に同様の構造が形成されたのは財界や政府の明確な意図によってである。
 1995年、日経連によって「新時代の『日本的経営』」という報告書が発表される。そこでは、それまでの普通の正社員の待遇であった終身雇用・年功賃金・社会保障を「長期蓄積能力活用型グループ」に限定しようという方針が提起された。残りは有期雇用・年俸制の「高度専門能力活用型グループ」または有期雇用・時給制の「雇用柔軟型グループ」に格下げして、人件費を抑えるとともに“使い捨て”しやすい労働力を増やしていこうというのである。それまで正規労働者が担っていた仕事に<正規/非正規>という二重構造が大々的に取り入れられることとなった。
 結果、20〜24歳の非正規雇用は1992年には10.7%だったものが2002年には31.8%に上昇し、さらに現在は全就業者の3分の1が非正規雇用である。当初は若年者の「フリーター問題」としてとらえられて彼らの「意欲」とか「態度」に原因があるかのように言われたが、新規に労働市場に参入するのが若年層だからまず彼らに財界の方針が適用されたということだ。実際、非正規労働者が正規労働者に転身できるチャンスは大きくなく、フリーターのまま高齢化する層が増えていくから、<正規/非正規>の構造は年齢を問わないものになっていくだろう。
■労働条件全体の悪化
 1999年に労働者派遣が原則自由化され、それまで正社員が担っていた職務が派遣労働者に置き換えられる事態が進んだが、“安くて便利”だからそうなった以上、彼らの労働条件はそれに見合って“安くて不安定”だ。職場における身分差別的な扱いの事例にも事欠かない。
 2004年に製造業にも労働者派遣が解禁されたことによって今度は「偽装請負」という問題が顕在化した。派遣労働者を3年以上(製造業では1年以上)雇い続けた場合は正社員にしなければならない義務が企業に課せられているから、それを逃れるために企業は業務を「請負」業者に丸投げする形をとる。丸投げだから、企業は労災補償を含め何も責任を持たなくてよいが、請負労働者に対して指揮命令することは禁じられている。そこで雇用の形としては「請負」だが実質は「派遣」のように細かく指揮命令するという“いいとこ取り”をした「偽装請負」という違法行為が横行することとなった。
 <正規/非正規>構造は正規労働者の立場を安穏とさせるものではない。成果主義賃金によって競争に駆り立てられて過労死を生む長時間・過密労働は深刻化するし、ただでさえ「サービス残業」という名のただ働きを強いられている上に「ホワイトカラー・エグゼンプション法=残業代ゼロ法」が目論まれるような状況でもある。

3.貧困問題
■好況と貧困
 「景気上昇」に実感が持てないのは、好調な企業の利益拡大がためこみや役員報酬や株式配当にばかりまわって労働者の賃金上昇に向かわないからだ。総世帯の平均所得は1999年に649万円だったものが2004年には589万円と60万円も下がっている。貯蓄なしの世帯は4分の1にのぼり、年収200万円以下の人は1,000万人を超えた。
 「経済の活力のために格差は必要だ」などという言い方があるが、「格差」一般の問題ではなく、「貧困問題」としてとらえるべき段階に来ている。フルタイム働いてもまともに生活できるだけの賃金を獲得できない「ワーキング・プア」、そして携帯電話の連絡を一日ごとに待つ「日雇い派遣」が増え、さらに敷金などを用意できないため家を借りることのできない「ネットカフェ難民」「マック難民」も現れている。
■貧困と戦争
 貧困と、そしてそこから抜け出す希望を見出せない社会は戦争待望論をも生む。たとえば「31歳フリーター。希望は、戦争」というサブタイトルを持つ文章では次のように述べられている。「戦争は悲惨だ。しかし、その悲惨さは『持つ者が何かを失う』から悲惨なのであって、『何も持っていない』私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる」(赤木智弘)。戦争によって最も被害を受けるのがやはり社会的弱者だという事実はあるにしても、閉塞感が破壊願望をもたらすこと自体は理解できるだろう。日本社会は今、そういう方向に突き進んでいる。
 安くて便利な商品やサービスの恩恵を受けながら、その向こう側に存在する安くて便利な労働の実態に想像力を働かせることもなく、むしろ「努力が足りない」などという視線を向けるような態度は、彼らをさらに追い詰めひいては社会全体の閉塞感を深める結果をもたらすに違いないのである。

4.抵抗・運動
■労働組合
 首都圏青年ユニオンに集った6人の組合員は、牛丼チェーン店「すき屋」の全バイト6,000人の残業代割増分の不払いを是正させた。「派遣ユニオン」や「ガテン系連帯」も活動している。全体から見ればまだまだ小さな規模ではあっても、しわよせを最も被っている立場にある労働者たちは次々に立ち上がり、闘い始めている。
 また「連合」は先頃の大会で非正規労働者に焦点を当てた取り組みを真っ先に掲げた。労働組合組織率が20%を下回っている現在、それは組織防衛のための方針ではあるのかもしれないが、<正規/非正規>の二重構造全体を克服する課題が国民の生存権をかけてのものだという点がより明らかになっているということでもあると思う。
 先に紹介した東京都区一般労働組合は「セ・パの共闘」というスローガンを掲げていた。「正規とパートの共闘」ということである。勝ち組になればいいということではなく、勝ち組をひきずりおろせということでもない闘いが求められている。
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首都圏大学非常勤講師組合 結成10周年

組合の機関誌『控室』第58号に掲載されたもの。

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“なかま”の輪のなかで
  --結成10周年に寄せて

 10年ほど前、熊沢誠氏が「仕事をやりがいのある営み、あるいは少なくとも耐えられる営みにする条件」として“ゆとり・決定権・なかま”の三つをあげていた(『朝日新聞』1995年5月21日)。正社員職場の中から奪われゆくものとしてそれらへの注目を促したのである。 
 すでに当時、僕たちはすでにその三つとも失っていた。だからその分「やりがい」は搾取されていたし、ときにそれは「耐えられない営み」であった。

  辞令

  四月になると
  勤め先のあちらこちらから
  ぺらぺらの紙に印刷した辞令が送られてくる
  用紙があまりに軽いので
  吹けば本当に飛んでいってしまう
  ----貴殿を本校の非常勤講師に任ず
    ただし、期間は三月三十一日までとする。
  毎年年号の数字が増えるだけで
  一字一句変わりはしない
  十年近く私の科目がそこにあり
  私の責任がそこにあるのに
  私の場所も私の意見もありはしない
  辞令を広げて
  常勤に非ずという字を見るたびに
  おまえは一人前に非ず
  おまえは人間に非ずと
  念をおされている気がして
  破り捨てたいのをこらえては
  机の奥に封じ込める

 竹添敦子さんの詩「時間割表」は僕たちの最初の文書<非常勤講師のみなさんへ---労働組合加入の訴え>に引用させていただいたが、この詩も竹添さんの詩集『控室の日々』(海風社)にある。「時間割表」はいくつもの大学を飛び回らざるを得ない“ゆとり”のなさを、この「辞令」は責任だけあって何ら“決定権”をもてない境遇を見つめている。

 そして、僕たちには“なかま”もいなかった。だからこの『控室』創刊号では次のように訴えた。
 「授業準備に追われる日常に理もれて、『非常勤なんて元々そんなもの』とあきらめていませんか?(中略)控室にバラバラに放り込まれた私たちは、孤立したままでは、研究や生活や労働の条件を改善することはできません。今までは要求する主体がなく、したがって何も要求してこなかったからこそ、何も改善されなかったのです。」
 要求すべきことはいくらでもあるのに、要求する主体がなかったから組合は生まれた。都区一般との出会いという偶然に助けられはしたけれど、必然でもあっただろう。現状への不満や将来への不安を愚痴り合い慰め合うだけではなくて、闘いに向けて思いを共有することによって僕たちは“なかま”になることができた。
 どの機会だったか、「“集まると元気が出る”みたいなのはバカにしていたのですが、今日の集まりに参加して元気をもらいました」という感想をもらったことがある。孤立していた僕たちは、展望を語り合う場と“なかま”を得ることによって展望をもてるようになった。そして展望をもつことが、僕たちの現実的な“力”となっていく。
 「いつかストライキで‥」という夢こそ実現してはいないが、省庁交渉とか国会質問とか、発足当時語り合った目標のいくつかは叶っているのである。16年間にわたって時給が据え置かれていた短大では団交によって割とスムーズに賃上げを果たしたが、要求していなければあと何年でも時給はそのままだったはずだ。さらに、使い捨ては許さない、という共同の力は解雇撤回運動でも成果を蓄積してきた。かつてはそもそも交渉の入口にさえ立てないというのが常態だったのだ。「(訴えている)彼はいつ組合に加入したのですか」と問うてきたので「数日前です」と答えたら「数日前に入った人間のためにそんなことを‥」と電話の向こうで困惑していたが、要求で一致すればすでにともに闘う“なかま”である。

 「黙っているのはやめにしました」と宣言して運動が始まり、その中で組合員という“なかま”も徐々に増えていったが、組合の外側に現われる“なかま”の存在にもとても励まされたのを思い出す。「動くことによって“つながり”が広がる」というワクワクするような驚きと喜びは、僕自身のそれまでの生活にとってまことに新鮮であったし、組合の活動にとってもその世界を広げてくれるものだった。
 「新聞見ました」と、岡山から、旭川から、徳島から連絡が来る。留守電にメッセージを入れていた相手に電話してみると「長くなるのでこちらからかけます」と、実際に4時間近く切々と実情を訴えられることもあった。直接に支援することはできないとしても、実態と要求を表現できる場を提供したということだ。みな声をあげていなかったからお互いの存在に気づかなかったが、“なかま”は様々なところにいた。
 初年度の秋に開いたフォーラムで、いずみたくミュージックスクールの方がミュージカル『使い捨てライター』を上演してくれた。最初の打ち合わせの時に「そこまでしていただいて‥」と恐縮していると、「してあげる、というのではないんです。同じ問題を抱えているから一緒にやるんです」と言われていっそう恐縮したのだが、“なかま”というのはこういうことなのだな、といたく感じ入ったものだ。
 外国人講師の抱える問題に取り組んだときに気がついたのは、彼らがいつもまずもって「unfair」「unjustice」という言葉で自らにふりかかった事態を表現することだった。闘いの源泉は個人的な「悲しい」とか「困った」といった感情だけでなく、それが社会的に不公正であり不正義なのだというところにある。だからこそ、彼の抱える問題は私の抱える問題でもあり、私の闘いは彼にとっての闘いでもあるのだった。「unfair」「unjustice」という言葉遣いが改めて気づかせてくれたのは、そういう“なかま”の原理だった。

 思い出話ばかりしてしまったようだけれど、僕たちの抱える問題の「構造」に変化はないはずだ。だから「仕事をやりがいのある営み、あるいは少なくとも耐えられる営みにする」ための“ゆとり”や“決定権”をめぐっての闘いは続かざるを得ないだろう。
 しかし今、少なからぬ“なかま”を組合の内外にもっている。このことはとても大切な財産だと思う。ひとりひとりの実存にとってみてもきっとそうだし、客観的にも、非正規労働者の組合組織率が3%台に過ぎないという現状の中で、公共一般とともに先駆的な役割を果たしてきた。
 東京を離れるとき、「30年後に書かれる『労働組合運動史』にはこの組合のことが載って、そこに(初代委員長・斉藤吉広)って書かれることになるんですよ」と酒の入った勢いで言ったのだけれど、本当にそんな風に名前が残るとすれば、実に誇らしいことだと思う。
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企業の社会貢献

道新2005年5月15日「難民に眼鏡を贈り続け22年/富士メガネ社長 金井昭雄さん(62)--見る喜び届け自立支援 継続こそ大切なんだ」より。(太字は引用者)
[…] 「難民の方々に眼鏡が買えるわけがないし、発展途上国では眼鏡はとても高価なもの。第三国に定住して働こうにも、視力が不十分では縫い物や本を読むことができない。定住先の語学学習や職業訓練などの効果も上がらない。もちろん、生活するためには、まず住居や食糧、水、医薬品が必要なのはわかっています。ですから私たちが対象としているのは、ライフラインが確保され、これから自立しようとする人たち。でも栄養不足や長年のキャンプ暮らしで、遠視で近くが見づらい人や老眼が多い。日本と違って近視は少ないですね」
 タイ国内の難民キャンプでの支援は93年まで11回続けた。94年からはネパール、さらに97年からはアルメニアで支援プロジェクトを年一回の割合で続けている。一回につき平均三千−四千個、累計では96,500個の新しい眼鏡を寄贈している。
 「最初、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、眼鏡が必要とは気づいていなかった。でも一回目の私たちの支援を通じ、喜ぶ難民の姿を見て、二回目からは現地職員を派遣し、通関や移動、宿泊の手配など、パートナーとして積極的に協力してくれるようになりました。眼鏡を届けるだけでなく、私たちが現地に赴き、一人一人の視力をチェックして眼鏡を選定・調整することが評価されたようです」
[…]
 「これまでに延べ百人以上の社員が支援プロジェクトに参加していますが、このおかげで『見る喜びに奉仕して豊かな文化の創造繁栄に貢献する』という社是の精神と、私たちの仕事の原点を再認識するようになったと思います。社員たちがそこで学んだことは、それぞれの人生の宝になったことでしょう
 難民に贈る眼鏡のフレームは、国内のメーカーや問屋さんに寄贈してもらい、レンズはメーカーから廉価で提供を受けている。店頭での募金も含め、市民からの支援も多い。
 これまでに要した費用は、今回のアゼルバイジャンを含め二億八千七百万円。そのうち眼鏡や視力検査器具、補聴器など寄贈品は一億九千二百万円を超える。
[…]
 「本業を通じ難民の方々に喜んでいただけることが、多少なりとも日本のイメージアップにつながればうれしい。もちろん、これからも続けます」

<社是>をこんな風に具体化しているなんてステキだと思う。
資金を提供するだけではない、というところもいいなぁ。
社員も会社を誇りに思えるんではなかろうか。
近くに富士メガネあれば利用したいところだし。

<社是>そのものが「金儲け」みたいになってたJR西日本のことを逆に連想してしまった。
仕事への誇りを奪うだろうな。

顧客や社会といった“外”を大事にする(しない)ことと、社員という“内”を大事にする(しない)こととは表裏の関係にあるんじゃないか。

このこと、国家を単位として考えても似たようなものかもしれないと思いついた。
まわりに感謝されるような国はきっと、内政でも抑圧的なことはしないんじゃないか、と。
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「一太郎」販売差し止め

初めて触れたワープロソフトはカセットテープから「ピ〜〜ガァ〜〜〜」とインストールするやつだった。“単漢字変換”ってやつで、実用にはならずお遊び用。当時としては機能充実!の「松」があったけど確か10万円くらいしてとても手が出なかった。
「JETなんとか」というソフトは一度に編集できる文書量がA41枚分しかなく、それ以上入力すると文書の冒頭から順に消えていって復活できないという代物だったのですぐにお蔵入り。困ってるところに1万円台の「ユーカラ」が発売されて、助かった。文書量は無制限だったはずで、修士論文はそれで打った。大学の事務に「手書きじゃなくてワープロでもいいんですよね?」と聞いたら「日本語のですか?」と問い返されたころのことだ。

しばらくして「松」が劇的に安くなったので乗り換えた。
たぶん、「一太郎」が安値で売上をどんどん伸ばしたから「松」もそれに対抗せざるを得なかったのだと思う。
そのうち世の中「一太郎」が席巻するのだけれど、操作感が気に入らなかったというか、「こっちのほうが老舗だい!」という意地だったのか「松」を使いつづけた。『やっぱり松が好き!』なんて本があったりしたわけで、マイナーはそれなりに固定層に支えられていたのだ。

その「一太郎」が「Word」の台頭すでにマイナーに落ち込んでいるわけだが、そこにさらに今回の判決である。
新聞で当の「アイコン」だか「ボタン」だかを見たけれど“どこが特許なの”というのが第一印象。機能説明を読んでも“ちょっとした工夫”くらいにしか思えん。 
「一太郎」には、マウスとクエスチョンマークを合体した独自デザインが使われており、ここをクリックすると「ヘルプモード」に切り替わる。松下電器産業はヘルプモードにする「アイコン(絵のマーク)」について特許を取得していた。(原田成樹 FujiSankei Business i. 2005/2/2)

特許は1989年に出願し、91年に公開し、1998年に取得したものだそうだ。そして、松下は2000年に自社ワープロ「スララ」を製造中止にしている。

当時としてはそれが“特許”に値するものだったのだなぁ、という感慨と、今さら何で?という疑問にとらわれる。
「松下電器は知的財産能力を見くびられないためにも、一貫性を持った態度で臨む構えだ。」(同上)
ということだそうだが、「知的財産能力」というのは自分はもう使わないモンでも「お前には使わせんぞ」と意地悪する能力のことなのだろうか。誤解かな。
(OSとの抱き合わせ販売で市場を独占した「Word」のマイクロソフトの手先になったんじゃないかなんて見えてしまうが、まぁMSもそこまでする必要もつもりもないだろうな。)

1月22日の<“ひとりじめ”は寂しい>で紹介した糸井重里のことばを再録すると、「インターネット的という考えからしたら、たとえば企業が市場を“独占する”ということなどは、ちっともカッコ良くないのですね。誰も、うれしくない。誰もうれしくない、ということを推し進める企業が、市場の主役である人々から嫌われていくであろう
確かに、少なくとも僕にとっては松下の好感度は大幅ダウンである。
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“ひとりじめ”は寂しい

かわもと文庫(http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/index.htm)「世相百断」第62話 <青色発光ダイオード裁判雑感>より。
 もともと中村氏は、会社を辞めるつもりも、会社を訴えるつもりもなかった。『僕が会社を訴えたわけ』(NE ONLINE「中村修二氏裁判速報」所収)によると、1979年に徳島大学大学院の修士課程を修了した中村氏は、就職時すでに学生結婚して子供もおり、「仕事で家庭を犠牲にしたくない」との思いから「妻の地元の徳島県にある日亜化学工業」に就職し、20年間勤めつづけた。

 その日亜化学工業をなぜ飛び出したかといえば、業績を正当に評価されず、冷遇されつづけて未来に希望をもてなくなったからだ。『僕が会社を訴えたわけ』によると、化合物半導体であるGaP(ガリウムリン)やGaAs(ガリウムヒ素)の製造を手掛け、それなりに開発の成果を上げても、大手企業のブランド力に負けて売上が上がらなければ社内では評価されない。揚句に「穀潰し」とみなされ、冷遇され、「どうせ辞めさせられるのなら自発的に辞表を書くのではなく、日亜が自分を解雇するまで、開発すべき新製品を自分で選択し、それを自ら単独で開発研究してみよう」と思いつめるまでになり、「上司などの了解もないまま、窒化物系青色発光半導体を開発することを自ら一人で決定し、実行」する。

 これが青色発光ダイオードの発明として実を結ぶのだが、もちろん会社から充分な開発費は支給されず、大学院時代に実験装置を手造りした経験を頼りに、社内会議にも電話にも出ないというきわめて異常な状態の中で開発がつづけられたらしい。そしてついには「窒化物系青色発光半導体素子の開発」に強く反対していた社長名で開発中止の命令が下される。「首を切られてもいい」という覚悟のもとに、こうした度重なる社長の実験中止命令も無視する異常な状況の中で、ついに中村氏の開発は1993年11月に青色LEDの製品化に結びつく。

 この異常な経緯が東京地裁をして「個人的能力と独創的発想で産業界待望の世界的発明を成し遂げた全く稀有(けう)な事例」と認めさせ、「教授の貢献度は少なくとも50%を下回らない」と判断させた。

 だから特許権譲渡の対価200億円も貢献度50%も、今後の同様訴訟に適用されるわけではない。

 さらにいえば、日亜化学工業を退社し、アメリカに渡ってからも、中村氏は同社を訴えるつもりはなかったという。『僕が会社を訴えたわけ』によると、同社が中村氏を企業機密漏洩で訴えることがわかって、「日亜化学は私をまるで犯罪人扱いしていましたから。訴えられるまでは、こちらから訴えてやろうなんて思ってもいませんでした」という事態に発展したらしい。

 この経緯に間違いなければ、判決に対して日亜化学工業が発表した「本件原告のように、ノーリスクで終身雇用或いは安定収入という企業の中にあって、巨額のリスク負担をした企業に破天荒とも言える巨額の成功報酬を請求することは、安定収入と巨額のリスク報酬の二重取りを求めるものであって理論上許されない」という主張は成り立たなくなる。同社は青色発光ダイオードの開発に何らリスクといえるものを負っていない。むしろ冷遇しつづけてきた社員の発明の成果を不当に独り占めしている。

『とくダネ!』でコメンテーターが「利益に結びつかないような多くの研究も抱えるというリスクを企業は負っている。リスクを負ってこそのリターンだということからすると、中村さんが個人的にどれだけリスクを抱えていたのかという疑問がある」というような発言をしていた。聞いていて、そのように考えればいいのかなーと漠然と思っていた。
でも事情は違ったようだ。
日亜化学工業は何らリスクを負っていなかった(というか、邪魔した)し、しかも会社を移ると機密漏洩で訴えようとさえしたという。中村さんの怒りをある程度理解できたように思う。「滅私奉公」という中村さんの発言の意味も具体的に知ることができた。
マスメディアは知ってた上で報じなかったのだろうか。
『とくダネ!』とは別だったかもしれないが、「中村さんが怒っているのは司法に対してなんだ。裁判長が準備書面を読まないまま判断を下すなんてのは珍しいことじゃないのだから」というコメントもあった。中村さんの「日本の司法は腐ってる」みたいな発言を指してのことだけれど、それが本質的な問題なのではなさそうだ。

ただ、中村さんの「アメリカはすばらしい」「自由競争はすばらしい」みたいなことばには違和感を覚える。優勝劣敗で“勝ち組”と“負け組”に二分されるような社会が魅力的なものだとは思えないから。
<企業が栄える>のか<個人が栄える>のかっていう二者択一しかないように見えること自体がきっと問題なんじゃないかな。

少しは関係してそうな気がするので、糸井重里『インターネット的』(PHP、2001年)p.25-26より。
 自分ひとりだけでできる趣味や快楽なんてものは、ほんとはあんまりありません。他人からは、いかにも孤独そうな趣味に思えても、ほんとに孤独に満足できることなど、ほとんどないでしょう。
 たとえば、模型飛行機の趣味を持っている人々にしても、ひとりでつくってひとりで眺めているだけでは、面白くありませんから、集まって、見せあったり飛ばしたり競技したりします。個人のつくったもの、個人の力を、みんなで分けあって楽しむというシェア(おすそわけ)は、クラブ活動などで、みんな体験してきたはずです。料理なんかでも、ひとりで黙々と食べて、“ぜんぶ、独占してやる!”というよりは、“ねえ、食べてごらんよ”というほうが、より楽しくておいしいでしょう。“いや、誰にもやらん!”という人がいてもかまいませんけれど、ね。分けあうということは、なぜかは知らねど、楽しい、と。その「シェア」というよろこびの感覚が、インターネット的なのです。
 インターネット的という考えからしたら、たとえば企業が市場を“独占する”ということなどは、ちっともカッコ良くないのですね。誰も、うれしくない。誰もうれしくない、ということを推し進める企業が、市場の主役である人々から嫌われていくであろうことは、これからの社会の動向を見ていかなければ結論づけられないとは思うのですが、予感的には、ぼくはそうなっていくだろうと考えています。

確かにオープンソースとかフリーソフトとか、一緒につくったりおすそわけしたりするという振舞い方はインターネットをひとつの場として広まり始めているように見える。インターネットじゃなくても地域通貨なんてのもこの流れに含めていいかもしれない。
歴史的にはどういうことなんだろう。
私的所有が成熟してシェアへ、ということなのかな。それとも私的所有への「抵抗」にとどまるのか。

いずれにせよ、“ひとりじめ”より“おすそわけ”の方がすてきだと思う。
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