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治安社会化とプライバシー

「稚内 憲法を学ぶ会」第20回学習交流会での報告の概要を同会の会報に載せたものを、転載。
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1.少年はモンスターじゃない
 最初に、治安全体のことではないのですが、「少年犯罪が急増・凶悪化している」というイメージについて検証しておきます。

 この図の平成以降のところだけ取り出すと、少年凶悪犯罪がほぼ倍増する勢いですが、戦後全体の推移を見るとどうでしょうか。映画『三丁目の夕日』で描かれた昭和35年前後と比較すればむしろ“激減”していると言えるはずです。人口比で推移を見てもほとんど同じことです。

 しかし、平成8年頃の増加は気になります。そこで凶悪犯罪の種類別の推移を描いているのが下図なのですが、平成に入ってから増えているのは「強盗」だけです。

他の3種にほとんど変化はありません。これは実は「強盗」の定義が変わったからなのです。ナイフを突きつけて「金を出せ!」というのが大方の強盗のイメージでしょうが、たとえばコンビニでの万引きが見つかって振り払おうとしたら店員がけがをした、というようなかつてなら「窃盗+傷害」として取り扱われていたものも「強盗」に分類されることになったのでした。これによって見かけ上、「凶悪犯罪」が増加しているにすぎません。
 しかし量的にはそうだとしても、「最近の子どもの犯罪は質が変化している」とか「動機が理解できないものになってきている」というイメージは残るかと思います。テレビがそう言っているからです。
 ではたとえば次のような事件はどうでしょう。

■奈良県北葛飾郡の農家で深夜二時、長男(19)が就寝中の家族五人の頭を斧で殴り、母親、二男、長女、三男を殺害、父親を重体とした。すぐに隣家に押し入り、就寝中の長女の頭を斧で殴り、逃げようとするところを肩と足を切って重傷を負わせ、母親にも切りつけたが斧を奪われ逃走、百メートル離れた線路で列車に飛び込んで自殺した。真面目な働き者の模範少年だったが、数日前に「自分が命を投げ出したら、幾人くらい殺せるだろうか」と話していた。

■大阪市阿倍野区で乗り捨ててあったタクシーのトランクから、この車の運転手の他殺体が発見された。運転手は鋭い刃物で、後頭部十三か所、右肩七か所を刺されていた。犯人は名門の府立高校に通う17歳の少年で、逃亡しパチンコ店に住み込みで働いていたところを逮捕された。少年には反省の色はほとんどなく、「『(運転手殺しを)やってみたらどうかな』と、かなり前から考えていた。ただサラリーマンになって漠然と生きていても、人間としての意味がない。そこで何か思い切ったことをやりたかった。車に対する好奇心やスリルを味わいたい気持ちもあった」と語ったという。


 前者が戦前の1934年、後者が1964年に起きたことです。昔の少年犯罪の方が現在よりも分かりやすかった、とは必ずしも言えないと思うのですがいかがでしょうか。

2.治安安定と「体感」治安悪化

 犯人の年齢を問わず、殺人事件の発生率の推移を示したのが上の図です。図の枠外になりますが、昨年の殺人事件の認知件数は戦後最低記録を更新しました。少年犯罪に限らず、戦後の動向全体としては凶悪犯罪は減っています。
 しかしよく「検挙率の低下」ということが取りざたされます。実際、2000年を境にして検挙率は急落しました。やはり治安は悪化しているのでしょうか。実は、1999年の「桶川ストーカー事件」を機に警察が市民の相談や通報に積極的に対応するようになったため「犯罪」として数え上げられるものが急増したのです。ほかにも、自転車の防犯登録制度ができたことによって自転車盗の認知件数が大幅に増えるなどの事情がありました。分母が大きくなった分、率は下がることとなったのでした。実質的な犯罪の増加、治安の悪化は認められません。
 にもかかわらず、「体感」治安は悪化しています。日本全体について、「2年前と比較して犯罪が増えたと思いますか?」という問いに対して「とても増えた」と答えた人が5割、「やや増えた」まで含めると9割の人が治安悪化の印象をもっています。ところが同じ人に「居住地域ではどうか」と同じ質問をぶつけると、「とても増えた」は4%弱、「やや増えた」を含めても3割弱でしかありません。「身近なところは平気だけれど、世の中全体は物騒だ」と感じている人がとても多いということになります。
 原因として次のようなことが考えられます。
“蛤疂麁--特に殺人事件に関しては、以前に比べて高頻度で長時間でよりセンセーショナルな報道がされるようになりました。「物騒だ、物騒だ」というメッセージを近年特に大量に浴びていることになります。
地域共同体の衰退--特に大都市では、隣の住人がどんな人であるのか全く知らないという状況は珍しくありません。身近な人の素性を知らないということは、実際の治安の動向に関わらず、不安感をもたらすでしょう。
生活不安--いわゆる格差社会化が深まって、いざというときにも生活が保障されない不安定な社会の中で、自らの生活や身体の安全に関する危機感が醸成されます。
ざ寡櫃寮治--犯罪やテロへの不安や恐怖が広がっている方が、お上にとっては統治や管理がやりやすくなるでしょう。

3.治安社会化とプライバシー
 治安が悪化しているという意識を下地にして、さまざまな形での監視や排除の仕組みが取り入れられ、受け入れられてきています。
 まず、街頭監視カメラ。犯罪が起きたあとに犯人を特定するなどの役に立ってはいるようですが、起こるのを防ぐためには実はあまり効果はなさそうです。新宿歌舞伎町に設置されている50台のカメラは有名ですが、警視庁は現在、「カメラがあるから犯罪が減った、ないから増えたとは一概に言えない」との見解です。監視カメラ先進国のイギリスでも同様のことが言われています。
 自動車ナンバー自動読み取り装置、通称「Nシステム」はスピードに関わらず通過するすべてのクルマのナンバー(と座席の写真)を記録しているものです。犯罪捜査に役立った実績はあるようですが、実際は目をつけた特定の人物(政治家や警察の内部告発者など)の素行調査・行動監視に使われているとも言われています。
 次に、市民相互が監視しあう仕組みとして「自警団」組織があげられます。「地域共同体が弱体化したから犯罪が増えた、だから治安のための共同体を復活させよう」との理屈に基づいた動きなのですが、現実の治安は悪化していないのでした。そうした中で「よそ者探し、不審者探し」に特化して住民が結束するというのは、結果的に市民が相互に不信を向けあうような社会を生み出しかねません。結果、ますます「体感治安」は悪化していくことになるでしょう。
 不審者の排除という論理をつきつめて行きつく先は、アメリカではすでに二千万人の人が暮らしているという「要塞都市」ないし「ゲーテッド・コミュニティ」です。塀で囲って出入りには厳重な警戒が敷かれています。塀で囲まれてこそいないものの、監視カメラと警備員の巡回を売り物にした「防犯タウン」は日本でも現われ始めています(たとえば旭川の「パークアベニュー忠和」)。
 
4.自由vs.セキュリティ
 このような一連の動きは、増幅される他者への不安と究極の安全を求める心理を背景にしており、さらにその背景には「治安悪化」というイメージが横たわっています。犯罪やテロへの恐怖が煽りたてられ、日常化することによって相互不信社会が形成されるとともに、監視されることやプライバシーを奪われることへの抵抗感は薄れていっていくことになるでしょう。
 「犯罪対策」や「テロ対策」の名の下に不自由を強いられる場面がだんだん増えていくことになり、そしてそのうち、<安全のための不自由>あるいは<マクロな自由のためのミクロな不自由>といった状況を「仕方がない」と受け入れて慣れていってしまう。その結果、抵抗したり異議申し立てをする者を異端視するようになっていきかねません。「こんな不自由はおかしい」「私のプライバシーを侵すな」といった行動や感覚が抑圧されていくということです。
 かつて空港でボディーチェックをかたくなに拒んでいた男性を見たことがあります。触れようとする係員の手を必死に振り払っていました。そのときの「おとなしくチェック受ければいいのに」という自分自身の視線を思い起こします。「おとなしくしておけばコトを荒立てないで済むのに」「悪いことをしていないんなら構わないだろ」という理屈で行動や身体や思想信条への介入を認める感覚はだから、僕にもすでに存在しているのです。
 「それ以上の介入は許さない」という一線はおそらく誰にでもあるのだと思いますが、ミクロな不自由の経験の積み重ねによってその一線がだんだんと曖昧になるというか、徐々に後退していくというか、そういうことになりそうな気がします。
 「ビラ配布で逮捕」とか、サミット警備の異常な厳しさとか、そういう治安社会化に慣れてしまわないことがだいじだと思います。
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「テロ対策」という名の抑圧

 朝テレビを見ていたら、今日(3/1)から海外に飛び立つ飛行機の機内持ち込み品が大きく規制されたとのこと。ジェルやクリーム状の「容器に入れないと形を保てないもの」を含む「液体」は、100ml以下の容器に入れて小ぶりのファスナー付き透明ビニール袋一つに入りきる分だけしか持ち込めなくなったのだそうだ。司会者は「薬とか常備しておかなければならないものは入りきらなくて困るだろう」みたいに文句を言っていたが、まぁ、特例で認められるものはあるらしい。しかしそれでも、処方箋を持参しないと渡航先で没収される可能性が高くなるとも報じていた。

 思ったのは、「テロ対策」の名の下に不自由を強いられる場面がだんだん多くなるんだろうな、ということだ。そしてそのうち、<安全のための不自由>というか、<マクロな自由のためのミクロな不自由>というか、そういう状況を仕方ないと受け入れて慣れていってしまえば、抵抗したり異議申し立てをする者を異端視するようになっていくだろう。「こんな不自由はおかしい」「私のプライバシーを侵すな」といった行動や感覚が抑圧されていくということだ。
 かつて空港でボディーチェックをかたくなに拒んでいた男性を見たことがある。触れようとする係員の手を必死に振り払っていた。そのときの「おとなしくチェック受ければいいのに」という自分自身の視線を思い起こす。「おとなしくしておけばコトを荒立てないで済むのに」「悪いことをしていないんなら構わないだろ」という理屈で行動や身体や思想信条への介入を認める感覚はだから、僕にもある。程度問題だが。
 「それ以上の介入は許さない」という一線はおそらく誰にでもあるのだと思うが、ミクロな不自由の経験の積み重ねによってその一線がだんだんと曖昧になるというか、徐々に後退していくというか、そういうことになりそうな気がするのである。程度問題の「程度」が変質してしまう。

 とりわけ最近の不自由は「テロ対策」のためには甘受しなければならないものとされているのだから、それに協力しないというはテロ対策に協力しないことのようでもあり、それはしたがって「テロに協力するのか」と非難されてしまいそうな態度でもある。9.11直後のブッシュ大統領による「われわれとともにあるか、テロリストの側にあるか」という二者択一、二分法的発想は今もって有効に機能しているようだ。
 実際にそれがテロ対策になるかどうかは別の議論として、「テロ対策」が世界的に強要された政策であることと、その大義名分のもとでさまざまな形で規制や監視が行われていることは事実だ。
 以下、道新のサイトからふたつ。

米CIA対テロ傍若無人 欧州で拉致続々 EU議会「違法活動」  2007/02/27 08:25
 【ロンドン26日高田昌幸】米中央情報局(CIA)が、欧州各地で市民を「テロ容疑者」として不法に拉致していた事件がイタリアやドイツで明らかになり、欧州を揺るがしている。欧州議会は、CIAが欧州に秘密収容所を設置していた疑惑に関する最終報告書をまとめ、CIAの活動を「米政府による違法活動」と厳しく批判している。
 イタリアでは、エジプト人の男性聖職者が二○○三年二月にミラノの路上で拉致されていたことが発覚。男性はドイツの米空軍基地などを経てカイロに連行され、収容所で拷問を受けた後、最近、ようやく釈放された。
 イタリアの捜査当局は事件が表面化した○五年夏以降、拉致・監禁などの容疑でCIA要員の米国人を相次いで逮捕。その後、イタリア情報機関の長官らが拉致に協力していたことも判明し、結局、CIA要員二十六人や同長官を含めて計三十五人が起訴された。
 初公判は六月に開かれることが決定。「テロとの戦い」をめぐるCIAの秘密活動が、世界で初めて刑事事件として裁かれることになった。
 また、ドイツ検察当局は一月末、レバノン系ドイツ人のハリド・マスリ氏が○三年十二月に旅行先のマケドニアで拉致された事件に関し、米国人十三人の逮捕状を取った。容疑者は米国在住のCIA要員らで、捜査ミスからテロと無関係な同氏を拘束。アフガニスタンの秘密収容所で五カ月間、拷問したとされる。
 ドイツではこのほか、同国生まれのトルコ人男性が○一年にパキスタンで拘束され、キューバのグアンタナモ米軍基地内に送られた件についても捜査が進められている。
 一方、欧州連合(EU)の欧州議会本会議は今月十四日、CIAによるEU域内での秘密活動に関する最終報告を採択し、米政府やそれに協力したEU内の各国政府を厳しく批判した。欧州議会の調査によると、○一年の米中枢同時テロ以降、欧州市民に対する不当な拉致や拘束が多数あり、このうち二十一件を精査したところ、英国やドイツなどの情報機関も関与していた疑いが浮上したという。


 国境を越えて、アメリカが他の国の人を勝手に逮捕してしまう。テロ対策で。

「テロ等謀議罪」を了承 「共謀罪」修正で自民部会  2007/02/27 10:51
 「共謀罪」を新設する組織犯罪処罰法などの改正案の修正作業で、自民党法務部会の「条約刑法検討に関する小委員会」(笹川尭委員長)は27日、共謀罪を「テロ等謀議罪」と変更し、対象犯罪を政府案の600以上から123−155と4、5分の1程度に絞り込んだ「修正案要綱骨子」を了承した。
 小委員会の早川忠孝事務局長は、修正案を来月中にも民主党側に示し、実務者レベルでの協議を進める考えを示した。継続審議となっている政府案の修正が狙いだが、参院選前の法案成立は困難視されている。
 小委員会では共謀罪の名称を「テロ・組織犯罪謀議罪」と改名することで大筋了承していたが、さらに短縮。対象犯罪も修正原案では116−146だったが、傷害や窃盗などを加えた。


 「共謀罪」というと印象が悪くても、「テロ対策」とすれば納得させられるだろうという思惑か。

 「テロ対策」「反テロ」の名ので実はさまざまな抵抗や異議申し立てが抑え込まれる可能性がある。撲滅の対象は必ずしも「テロ」ではないかもしれない。
 「おとなしく従うしかない」という場面が増えれば増えるほど、それこそが「テロ対策」の効果なのかもしれないということだ。
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教育基本法改悪ストップ!5.22稚内集会

2006年5月22日(月)の夜に行われた集会。

主催は「連合北海道宗谷地域協議会・同稚内地区連合会」(会長:磯部拓也)と、「平和運動フォーラム稚内地区連絡会」(代表:東道)
司会は「民主教育を進める市民連合」(代表:ホウジョウ)、集会アピール読み上げは「何とか女性会議」のアカワガ。

全日空ホテルの宴会場にて、100余の座席がちょうど埋まるくらい。
参加費無料だし、お金あるんだなー。

で、メインの講演は弁護士の八尋八郎さん。福岡の人で、漫画『家栽の人』(ビラには“裁”となっていたが原題はわざと“栽”だ。報じた道新は正しく表記していた。)に出てくる弁護士三越三郎のモデルだそう。おだやかな感じを受けたけれど、発言はけっこうラディカル。

以下、レジュメとメモからの講演の断片の記録。(太字はもちろん斉藤)

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▼「愛国心通信簿」というのがある。A・B・Cの三段階で愛国心に成績をつけるもの。福岡市ほか全国30ヶ所で実施された(ている?)。福岡の教組は平和と民主主義の問題に取り組んできたにもかかわらず、この通信簿の導入には疑問を抱かず、抵抗せず、協力した。たまたま疑問を感じたひとりのお母さんの指摘から、問題として発覚した。「学習指導要領に書いてある」というのが福岡市の言い分だが、どうやって「愛国心」を評価しようというのか。

▼石原都知事は出所した戸塚ヨットスクールの何某の後援会長をやっている。その東京都では日の丸・君が代をめぐって大変なことになっている。指導通りに歌わなかった教師が100-200人という規模で処分を受けている。しかし逆に言うと、5万人くらいはいるであろう都内の教員のうち残りの4万9千何百人は疑問を感じず、あるいは抵抗できずにいるということだ。

▼私は少年非行の問題を数多く取り扱ってきた。少年事件の背景には格差社会がある。そして、教育基本法が守られていないということが問題を大きくしている。学力世界一ということで知られるフィンランドの教育基本法の見本になったのは日本の教育基本法なのだ。本家である日本では守られずにいるからおかしなことになっている。

世間一般の常識というものを学校にも通用させよ常々言っている。非常識なのが「校則」だ。教員の側の「こういう風にできたらラクだな」という思いからできているのが校則であって、それは「人の決めた通りに行動する人間」を育てようとすること。それ自体がすでに教育基本法に違反している。校則に依存しない学校運営がめざされなければならないはずだ。

▼教育基本法改悪案の問題は三つ。
仝醜垠法に不適合。むしろ次の憲法にあわせようとするもので、憲法違反の内容になっている。
◆岼国心を持て」という内心の強制がある。ここで「国民」とは何かを考えなければならない。本来は「主権者」である。にもかかわらず改悪案の思想は国民を「統治の対象」とみなそうとしている。さらに、今の教育基本法はひたすら<子どもには権利、親には義務>を課しているのだが、改悪案は<子どもへの義務>を負わせようとしており、大きな転換だ。
2板躑軌蕕篝験橋軌蕕魎泙瓩森駝雲験茲里△蕕罎訃賁未鵬霪しようとしている。そこでの内容に介入し、それを義務化しようとするものだ。

▼私の家は母親が日生のおばさんをやって生活を支えていたが、当時はそれでも大学に行くことができた。学費の年額が2万数千円だったから。ところが年々大学への補助金は削減され、学費は高くなり、高等教育は縮小せざるをえない。このまま格差を世代間連鎖させてはいけない。よく「エリート教育になるからいかん」と言われるが、エリート教育さえうまくいかないと思う。高等教育を受ける者の母数が小さくなりすぎて、それだけ才能はつぶされるだろう。大学教育まで全部無償、というのが世界の趨勢だ。アメリカのまねを続けることはない。

▼教育は「子どものもの」である(憲法26条1項=教基法前文)。したがって現行法は子どもの学習権の保障を政府に義務付けているのだが、改悪法は国家の国民統制権として教育をとらえ、国民に下達しようとしている。これは教育勅語と同類の発想だ。「教育基本法はもう古い」と言いながら、もっと古いものに回帰しようとしてるに他ならない。

▼子どもの危機をもたらしている教育以外の原因。
ヽ丙梗匆顱I郎ち大なのに福祉切捨てが進み、非正規雇用が増加している。トヨタが大きな利益を上げているが、それは人件費削減によるものであって、企業の景気は回復しているといってもそれは格差の拡大を根拠にしている。福岡では非常勤教員を時給2,000円で雇って授業を成立させているが、そんな給料でどうしろというのか。本人たちは努力しているというものの、学校のスラム化は確実に進む。
地域の教育力喪失または地域の崩壊によって、子どもにやさしい街づくりがないがしろにされている。
社会全体の閉塞感によってキレやすい大人が蔓延している。それが子どもに対する不寛容とバッシングとして現われ、例えば同様の凶悪犯罪ならば「大人より子どもの罪を重く」と回答した国民が7割もいるという。恐ろしいことだ。

▼子どもの危機をもたらす教育病理。
ゞ技佞紡个垢觧劼匹發凌邑研修の欠如から「子どもは人間」であることを失念し、体罰・いじめ・暴力の蔓延を招いた。服装髪型を強制し、子どものプライバシー権を無視するのもその現われだ。かつて日教組の研究分科会の一員をやっていたが、袂を分かったのが体罰問題で、「暴力教師は組合を除名せよ」と提案したら「そんなことしたら組合員がいなくなる」と言われた。シーボルトが昔日本に来てとても感心したのが、寺子屋などで「日本では大人が子どもを叩かない」ことだったという。日本で体罰が始まったのは師範学校ができてから。つまり兵士をつくる教育の中で体罰が出発したのだ。体罰はまた「いじめの模範」となって子どもたちの間で再生産されているのである。
過度に競争的な教育が行われ、結果として学力低下や「七・五・三」と言われるような落ちこぼしを生み、学級崩壊を招いている。「わかっていない」ことをわかりながら授業は進められており、これは教師にとっても不幸なことだ。また競争を背景に校則・内申書による生徒統制つまりは人権侵害が放置されている。そうした中での「良い愛国心」の強制は、例えば「靖国行くのに賛成」と従順に答えなければ内申書に×がつき、結局そのことが人生に×をつけてしまうということになりかねない。
子どもの権利条約違反。文部事務次官通達は、子どもの意見表明権、思想・良心・表現の自由、最善の利益は日本では必要ないとして、子どもの権利条約を無視せよと指示した。条約に即した法律を一切整備しようとしない。共謀罪は世界の趨勢だからとすぐつくろうとするくせに。その一方で日本の伝統とは「神の国」であり、愛国心とは「排外主義」であると強調するような教育が進められつつある。

▼教育病理をもたらしたのは以上のような教育基本法への違反なのであり、教育基本法が原因なのではない。

▼改悪法の内容。
(顕幣覆砲茲訝羆集権国家教育の確立(改悪法5、16、17条)。これで文科省は義務教育費国庫負担を廃止しても存続できる。
文科省の独善である学習指導要領(これは最高裁大法廷1976年5月20日判決によって現行法違反であることが確立している)を教育振興基本計画へと格上げし、恒久化をもたらす。
C羆教育審議会答申によると教育振興基本計画には「高卒でみんな日常英語ができる」とか「不登校やいじめを半減する」という内容が盛り込まれるが、気安く書いているだけで「どうやるか」にはまったく触れていない。教育条件整備も教育支出も伴わないので実現することはありえない。英語のことにしても、NOVAで3ヶ月もやった方がずっと効果があるのであって文科省に従って何年間勉強したって追いつかない。今のカリキュラムや教科書は英語の力を奪うための嫌がらせではないかとさえ思える。

▼現状を継続し、予算もつかない改悪法は教育改革の名に値しない。改悪法は教育病理を改善しないし、子どもの危機は引き続き増大しつづける。そういう意味では少年法の改悪と同じことだ。必要なのは「ただひたすら教育条件をよくする、無償にする、裾野を広げる」ことなのだ。

▼改悪法への対処
_悪法は、法律を変えるだけで一丁上がり。つまり新しい政策も予算措置もない。愛国心による皇民化教育だけ。改革の名に値する教育改革を求める国民を偽るものだということを訴えるべし。
∪府の拙速(教基法を知らない88.8%、改正すべし76%)に絞って今国会成立を阻止すれば道は開ける。民主党の対案は強行採決を止めるが、現行法を否定する?

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「フィンランドの教基法が日本のを手本にしてる」とか、「おとなより子どもの罪を重くという世論調査」とか、参考資料を教えてもらいたかったが細かすぎるかとも思って質問はしなかった。
がそれ以上に、「シャンシャン」で集会を終えようとする雰囲気に負けたというか。
実際、「質問はございませんか?」のあとほんの数秒で「よろしいですか、ではもう一度大きな拍手を‥」と進み、集会アピール採択に移ってしまった。

「抵抗できない大多数の教師」とか「非常識としての校則」などの指摘については参加者の大多数であったろう現場教師には耳の痛い話で反発も覚えるのではないかと思ったのだけれど、そうでもないのかな。
いや、こういう場でも「抵抗せず」「規則(雰囲気)を破らない」からこそ学校でもそのように振る舞い、振る舞わせるのか。

「断固反対」を謳った集会アピールであったが、「反対しても改悪されちゃうけど」という前提がつくということかもしれない。
反対するけど抵抗はしない。
行動提起がなかったのもそういうことだろう。

アピールにこういう一文がある。
「子どもたちは、権力の横暴に対して無批判に従順する(ママ)ことを強いられ、物言わぬ大人へと育ってしまうのです。」
すでにそのように育ってしまっていたのだな。

う〜ん、どうも皮肉っぽくなってしまう。
展望を見出せない自分の焦りを投影してしまうのか。

問題は、今回の話を各自が持ち帰ってどう生かすかだ。
成果はきっとあるだろう。
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憲法について語ることができなくなるのか

一年ほど前に発表されたらしい「国民投票法等に関する与党協議会実務者会議報告」
(全文はこちら
にはこんなのがあるそうだ。

(教育者の地位利用による国民投票運動の禁止)
第六十五条 教育者(学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)に規定する学校の長及び教員をいう。)は、学校の児童、生徒及び学生に対する教育上の地位を利用して国民投票運動をすることができない。


公務員、したがって教育現場では国公立の学校では発言の制限がもくもまれているというのは聞いたことがあった。
でもこの案では私立だって同じことになるということだな。

これに報道機関への制限が加わるとすると、少なくとも告示以降(もっと前からか?)はいっさいの議論が有権者に伝わらないことになる。
選挙の際に選挙運動がいっさい禁止されるのと同じようなことになりそうだ。

既存の“イメージ”だけで意思決定せよということか。
前回の衆議院選挙のターゲット戦略を思い出す。“B層”として想定された「具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する層」をイメージ的に改憲賛成にとりこむねらいかと想像する。

「憲法を変えたらこうなる」という話だけではなく、「言論が抑圧されることによって憲法が変えられる」という危険性について注視しなければ。
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野口英明さん「自殺」とネット言論

「世に倦む日日」が19日の大谷昭宏の発言をとらえて「憤激を昂じた」と表現している。
つまり、

「警察が自殺と言うんだからこれは自殺なんでしょう」

である。

僕もその発言の場面をたまたま見ていた。
「あれ、皮肉を言ったのかな?」とも思ったけれど、スタジオの話は「自殺」を前提に進んでしまった。
「あれ?」と思ったのはそれが大谷昭宏だったからで、彼は例えばこんな本に著者として参画している。

 『おかしいぞ!警察・検察・裁判所―市民社会の自由が危ない』(2005年)
 『警察幹部を逮捕せよ!―泥沼の裏金作り』(2004年)
 『死体は語る現場は語る』(2002年)
 『権力犯罪』(2000年)

このように彼は権力、とくに警察権力に対して批判的な眼を向けた言論活動をしてきているのだった。
特に『死体は--』の「殺人現場は語る」という章などは
 ・ 初動捜査ミスの誘因は何か?
 ・ 犯人像を見誤る要因は何か?
という内容だそうだから、警察の捜査の怠慢やミスにはうるさいに違いない。

 ●なぜカプセルホテルなのか
 ●なぜ非常ベルを鳴らしたのか

などを理由に「本当に自殺なのか?」とするのは素人考えなのかもしれないが、かといってあの段階の「内鍵がかかっていて争った形跡がなかったから自殺」という警察の説明を鵜呑みにするには根拠が薄弱すぎるだろう。
なのに大谷昭宏は、根拠に合理的な検証を加えた上で「自殺でしょう」と言ったのではなく、「警察がそう言ったから」と発言したのだ。
「大谷昭宏のこれまでのジャーナリストとしての業績も、この一言で吹き飛んでしまった感がする。」という「世に倦む日日」の評価はかなり正しいと思う。

ところで、「内鍵がかかっていた」ことを自殺の根拠の一つにする以上は、ドアはオートロックであってはならない。
だから「ずいぶん古いホテルなんだなぁ」と素朴に思っていたのだが、『週刊文春』2月2日号によると「部屋の扉はオートロックになっており、部屋を出れば自然に鍵がかかるようになっている」。
これはつまり、警察が「根拠にならないことを根拠として発表した」ということであって、この一点で、全体がウソである可能性が高いと判断する。

『週刊文春』の記事は他殺であろう根拠をほかにもいくつか具体的にあげているから、この問題に関心のある人には必読。
いや、ネット上ではすでに多くの有力ブログやメルマガが「文春を読め!」と呼びかけているから改めてここで強調する必要はないだろうな。


そこで浮かび上がってくるのが、テレビや新聞とネットや週刊誌というメディアによるこの事件の扱い方の違いだ。
<自殺 vs 他殺>とこんなにきれいに見解が分かれたのは珍しいんじゃないか。

「他者からの呼び声」はネット上の言論を

「現代の無法地帯化とは、ネットの出現によりおしゃべりが活字化され、記録され、『世界へ発せられる言葉』という形態をもつという事態がおきてしまった」

と述べてさらに

「おしゃべりが言語価値化してしまう」

と評しているが、このことをポジティブな意味でとらえてみれば、今回まさに「お茶の間のおしゃべり」なり「素朴な疑問」なりを世界に発する言葉として見せてくれたのがネットだった。

逆にマスメディアは、そうしたおしゃべりや疑問を無視することに躍起だったように映る。
マスメディアはこの報道を通じて視聴者を「黙らせる」機能を果たそうとしたのであり、大谷昭宏に疑問を語らせないという形でもそうしたのだった。

「きっこのブログ」のようにオピニオンリーダーの役割を果たすという仕方とはまた区別されるようなネット言論の可能性を、今回の件で垣間見ることができたように思う。
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国策捜査と日本のゆくえ

佐藤優『国家の罠--外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社、2005年)を遅ればせながら読んだ。

久しぶりに、「読み終わるのがもったいない」と感じた。

驚異的な記憶力に基づく描写力。
記憶力の減退をつとに感じていて「脳を鍛えなきゃ」と宣伝に乗って誕生日に買ってもらったNintendoDSで一喜一憂している僕なんかからすると羨望ものなのだ。
特に佐藤と対峙した西村検事とのやりとりは録音から起こしたみたいに詳細だから、取調べの現場に居合わせるような臨場感を味わえる。

だが、本書の真骨頂は佐藤の洞察力にあると思う。

西村検事が早々に「これは国策捜査だ」と明言した(p.218)そうだ。
「これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです」
「見事僕はそれに当たってしまったわけだ」
「そういうこと。運が悪かったとしかいえない」(p.287)

西村検事は「時代のけじめ」をつけるための国策捜査だと説明するのだが、どういう「けじめ」をつけるために鈴木宗男らがターゲットになったのか。

佐藤は
「現在の日本では、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換という二つの線で「時代のけじめ」をつける必要があり、その線が交錯するところに鈴木宗男がいる」(p.292-293)
という結論を得る。

一つが<勝ち組-負け組>構造を強化する弱肉強食型社会づくり
二つが<戦争できる国>への再編

佐藤の説明を見よう。
ポピュリズムを権力基盤とする小泉政権としても、「地方を大切にすると経済が弱体化する」とか「公平配分をやめて金持ちを優遇する傾斜配分に転換するのが国益だ」とは公言できない。しかし、鈴木宗男型の「腐敗・汚職政治と断絶する」というスローガンならば国民全体の拍手喝采を受け、腐敗・汚職を根絶した結果として、ハイエク型新自由主義、露骨な形での傾斜配分への路線転換ができる。(p.294)

さらに、
[事実誤認ではあるが]北方領土問題について妥協的姿勢を示したとして、鈴木氏や私が糾弾された背景には、日本のナショナリズムの昂揚がある。換言するならば、国際協調的愛国主義から排外主義的ナショナリズムへの外交路線の転換がこの背景にある。(p.297)


山本譲司の秘書給与流用問題での逮捕から「国会議員の秘書給与に対する見方が変わった」(p.291)。そういえばそうだ。
それと同じような機能を鈴木宗男逮捕は確かに果たしているのかもしれない。“公共事業”一般がうさんくさいものに扱われたり、敵対的で強硬であるほど国益にかなうように扱われたりと、マスコミあるいは世間一般の「見方が変わった」。

検察や司法によってではないけれども、郵政民営化をめぐっても反対派は“処分”を受け、「(郵政民営化の小泉法案は)国債消化を優先し、金融の効率化が期待できない」として、点数をつけるとすれば「50点」だと言い切った(きっこのブログより)佐藤ゆかりも全面服従し、小泉首相の所信表明演説では「小泉チルドレン」がシンバルのおもちゃが壊れたみたいな拍手をくりかえす。

それらは全体として「流れに逆らうのは損・無駄」という風潮をつくりだすだろう。
何が正義で何が悪かという感じ方にも変化を与える。
「見方が変わる」のだ。

西村検事は「僕たちは、法律専門家であっても、感覚は一般国民の正義と同じで、その基準で事件に対処しなくてはならない」(p.288)と言う。だが「一般国民の感覚」そのものを変換させようとするさまざまな作為の中に国策捜査も位置付けられるはずだ。自然に「一般国民の感覚」が変容し、それに国策捜査が従順に対応しているということはありそうもない。

すると、誰の意図なのか。
「そうすると、今回の国策捜査をヤレと指令したところと撃ち方ヤメを指令したところは一緒なのだろうか」
「わからない。ただし、アクセルとブレーキは案外近くにあるような感じがする。今回の国策捜査は異常な熱気で始まったが、その終わり方も尋常じゃなかった。ものすごい力が働いた。初めの力と終わりの力は君が言うように一緒のところにあるかもしれない」(p.245-246)

サスペンス映画の一シーンみたいなやりとり。

“力”は確かに巨大なのかもしれないけれども、それに踊らされないことはできるはずだ。
その点、佐藤優の冷静さに学ぶところは多いと思う。
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青キップ



平成17年6月15日午後4時52分
札幌方面岩内警察署 巡査部長 西本裕康
    :
岩内郡岩内町字敷島内106番地
速度超過 指定速度違反《18km/h超過 50km/hのところ 68km/h》


それまではかなりゆっくりと走っていたのだけれど、トンネルを「さっさと抜けたい」とスピードを上げてしまったのだな。

  海岸の長いトンネルを抜けると、そこは狩場だった。

パトカーが3台いて、ゴキブリほいほいのごとく車を吸い寄せている。僕の前に一台、僕の後にまた一台‥
「何キロ出してましたぁ〜?」などとちょっと媚びるようなことばを吐いてしまった自分をうらめしく思いながらパトカーの中へ。
窓をしめきったままのやたら暑い車内でお互いに必要最小限の会話でことを済ませる。

「トンネル出てすぐのゆるいカーブの死角で待ち受けるなんて、うまいもんですねぇ」

などという皮肉を口にするはずもない。
68キロでつかまるとは思わなかったが、違反は違反。
12,000円也。


『SPA!』2005年7月12日号の「日本の税金[こんなに払ってる!&何に使われてるんだ?]白書《ぜ動車行政編》」にあった<交通違反が多いほど警察関係者は儲かる仕組み>という記事。
 駐車違反やスピード違反などの際に納める「反則金」は、刑罰の一種である「罰金」とは違い、「交通安全対策特別交付金」の原資になる。このカネは都道府県や市町村に交付され、信号機、道路標識、歩道橋、フェンスなどの設備や管理に使われている。毎年、予算化されており、'04年度予算では全国合計で約790億円。つまり、実際に違反を取り締まる前から反則金収入額が決められているのだ。東京23区では約46億5000万円が交付され、そこから警察と密接な関係を持つ特定業者に工事などが発注されているケースが多い。また、交通違反で処分された後には講習を受けなくてはならないが、この手数料も交通安全協会や指定自動車教習所に入ることになる。交通違反を取り締まれば取り締まるほど警察関係者が儲かる仕組みになっているのが、この「反則金」制度なのだ。

交通違反取締りには<ノルマ>があると聞いたことがあるが、せいぜい努力目標くらいの意味かと思っていた。
きちんと<予算>として達成しなきゃいけなかったのね。

だから10キロオーバーでつかまえたり(某学生談)もするわけだ。
両側に草地が広がってるだけの閑散とした長ーい直線道路で、草むらに身を隠して(通過時に何とか姿が見えた)測定するような哀れなこともしなけりゃいけないし。

自分の懐が暖かくなるわけでもないのにやらされるっていうのは、裏金づくりのために偽領収書を書かされるのと同じような構図だろうか。


一般のお巡りさんは、公安にも従わなければならない。
鈴木邦男『公安警察の手口』(ちくま新書、2004年)のp.34-35。
 極端に言うと、日本の警察組織のピラミッドのなかでは、犯罪捜査や交通事故の処理に当たる現場の警察官よりも、公安が上に位置するのだ。後で詳述するが、右翼が街頭宣伝車を連ねてパレードをするときは、赤信号でも無視して通ることが多い(これは昔、ぼくもやったことだから自己批判的に言うのだが‥‥)。「我々は愛国団体の街頭宣伝隊です。一般車輌は止まりなさい」とマイクで怒鳴って赤でも渡った。さらに勝手に一般車輌を止めているのだ。
 あるとき、こんな無法に義憤を感じたのか、交番からお巡りさんが飛び出してきた。先頭の街宣車に文句を言っている。そしたら即座に、後ろに付いていた公安が走ってきて、そのお巡りさんを逆に怒鳴りつけた。「この右翼は俺たち(公安)が面倒をみているのだ。お前らが勝手に文句を言うな」と言っている。この会話を脇で聞いていた右翼活動家は、「ほらみろ、我々は愛国運動をやっているから信号なんか守らなくていいんだ。公安も分かってくれているのだ」と言っていた。
 「そういうものかな」とそのときは思ったが、違う。公安の思惑では、街宣車パレードに目をつぶることで右翼に恩を売り、それと引き換えに右翼の情報を収集しようとしているのだ。もっと言うならば、交通違反(信号無視)などで右翼を捕まえても自分たち(公安)の得点にはならない。捕まえるなら、もっと大きなことで捕まえたいのだ。
 その証拠に、スピード違反だって駐車違反だって公安はチャラにしてくれる。街宣車のときだけではない。普通車に乗っていて交通違反をしても見逃してくれる。
 ただし、スピード違反や駐車違反で捕まったときに、交通係のお巡りさんに「俺は右翼だ」と言ったって効き目はない。「それがどうした」と言われるだけだ。だが切符を切られても、この後に公安に電話をすると、「分かりました」といってチャラにしてくれる。法律を引っくり返してくれる。凄い力だ。
 これでは交通係のお巡りさんとしては頭にくるだろうが、それだけ公安の力は絶大であることを象徴しているように思う。

そうか、右翼になろう!

ではなくて、公平な取り扱いを望む。

それと、取り締まるのならどうか効果的な場所でと願う。
キップ切るのに効果的ということではなく、事故を防ぐのに効果的という意味でだ。
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「民事不介入」と児童虐待

日垣隆『世間のウソ』(新潮社、2005年)「第八話 児童虐待のウソ」より(p.108-118)。
 朝日新聞のデータベースを調べてみると、1984年10月から2004年10月に至る20年間で、「虐待」と「逮捕」の両語を含む記事は全部で1272件ありました。80年代から90年代にかけて、その圧倒的多数はアメリカ、東ティモール、フィリピン、ペルー、東ドイツ、スリランカ、ネパールといった諸外国の報告です。(注1)
 しかし今世紀に入ってから、「虐待」と「逮捕」を含む記事の95%が日本の国内ニュースになります。[…]
 それは、この手の事件が増えたから、なのでしょうか?
 そうではありません。
 家庭内の傷害事件に警察が立ち入るようになったからです。したがって、警察が発表するようになり、こうしてマスコミが報道するようになった、というのが実際です。これは2000年春から急速に強まった傾向です。[…]
 警視庁生活安全局によれば、検挙された児童虐待「暴行」事件は、次のようになっています。
 1999年……1件
 2000年……4件
 2001年……8件
 2002年……5件 (注2)
 これだけでしかありません。1年間に、子供への暴行事件が、わずかに一桁しかない、という事実など信じられるでしょうか。
 他方、厚生労働省によれば、全国の児童相談所に寄せられた児童虐待についての相談件数は、1999年で早くも五桁に達しており(1万1631件)、その後もウナギのぼりに増えています。
 要するに、警察はつい最近まで家庭内の暴力=傷害犯罪に対し、見て見ぬふりを決め込んできたわけですね。[…]
 それらは「日常」であって、「事件」ではなかった。児童虐待と名づけられなかっただけで、このような状況下に置かれた子供たちは今よりずっと多かったのです。(注3)[…]
 前世紀までなぜ家庭内の傷害事件に警察は介入しなかったのでしょうか。
 それは、「民事不介入」という幻の原則を、警察庁も警視庁もマスコミもまったく疑うことなく信じてきたからです。[…]
 民事不介入の原則とは、,澆じめ(紛争の調停をヤクザに任せる慣習)と、家父長に警察機能を代行させていたことを内実としています。
 この原則は確かに、戦前の絶対家父長制のもとでは生きていました。家父長には勘当権、処罰権、離婚権、財産処分権などが独占的に与えられていたからです。精神病者を座敷牢に幽閉することさえ、所轄の警察の許可があれば可能だったのです。
 しかし、戦後は憲法と民法(一部)が生まれ変わり、家父長制がなくなります。しかし、にもかかわらず戦後も「民事不介入の原則」が亡霊のごとく生き続けてしまったのです。
 なぜでしょう。
 旧態依然の警察がまったく頭を切り替えることができず、この分野で怠慢を極めた(出世のための点数にならなかった)からです。民事不介入なる原則が戦後もずっとあるようなフィクションのもと、少なからぬ商店街ではヤクザ社会を利用し、家庭内では暴力を放置し続けたのでした。
 ではいったい、なぜ家庭のなかだという理由だけで、殺傷沙汰が許されなければならないのでしょうか。
 家庭における「民事不介入の原則」という幻が完全に消失するのは、子どもへの暴力犯罪については児童虐待防止法(2000年11月施行)を、女たちへの暴力犯罪についてはDV防止法(2001年10月施行)を待たなければなりませんでした。
 しかし、刑法でいう暴行、傷害、致死罪は、家庭のなかでは許される、などとはどこにも書かれていません。許されると明記されているのは窃盗だけです。
 警察が戦後も「ある」かのように振り撒いた「民事不介入の原則」が、数千の子どもたちを死に追いやった、という側面はぬぐいさりがたくありました。

(注1)「今世紀に入ってから国内95%」という数字をあげているからには、「それ以前は圧倒的多数が外国の例」という事実についても数字がほしいところ。データベースが有料のため確認してない。
(注2)おそらくこれは全国の数字だから「警視庁」でなく「警察庁」の統計ではなかろうか。だが問題は次のこと。
外務省の関連ページには以下のような記述がある。「2000年中に、警察の少年相談窓口に寄せられた児童虐待に関する相談件数は1342件であり、前年の約1.5倍、1996年の約5.2倍となっている。また、2000年中に警察が取り扱った児童虐待事件の検挙件数は186件、検挙人員は208人であり、前年に比べ件数で66件(55.0%)、検挙人員で 78人(60.0%)増加しており、被害者となった児童190人のうち44人が死亡している。」
つまり、警察の取り扱う児童虐待事件がかなり増えているという説明だ。そこに添付されている一覧表には確かに2000年中の「暴行」検挙数「4件」とあるから同じ「現実」を記述しているのだが、日垣氏はなぜ「変化のなさ」を示す数字だけを取り上げているのだろうか。警察の介入と報道が「2000年から急速に強まった」という先の記述にも矛盾してしまうではないか。
警察は何もしていない、という印象を強めたかったのだろうか。
(注3)これについて日垣氏はいくつかのエピソードを紹介しているだけで必ずしも「今よりずっと多い」根拠を示してくれていない。ありえることだとは思うが、何か資料がほしいところだ。


警察による扱い方が変わったからマスコミの扱い方も変わって、それゆえに事実そのものが変わったかのように思わされるということはいろいろなところで起こりえるだろう。
「低年齢化・凶悪化の進む少年犯罪」というイメージもおそらくその一つだ。

だが例えば「家庭内暴力」が家庭内で起こる暴力のうち子どもから親へのそれしか指示せず、親から子どもへの暴力には「しつけ」という別カテゴリーが与えられていたのは、一方を貶めて他方を擁護しようとする人々の感覚が元々あったからだと言えよう。
「警察のせい」「マスコミのせい」というだけでは済まないだろうということだ。
(「校内暴力」もやはり学校内で起こる暴力一般ではなくて、教師から生徒へのそれには「体罰」という名で免責され得たというのもこれと同様だろう。)


「民事不介入」についての日垣氏のような見解は初めて目にした。
家父長権が警察権の一部を代替していた名残りだというのは、なるほどそうなのかもしれない。
もう少し調べてみようと思う。
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不当取り調べ

昨日のテレビ朝日「ザ・スクープスペシャル」を偶然見た。
後半の△靴録画できなかったのが惜しい。
内容をかいつまんで紹介しようと思っていたら、ちゃんとあらすじはネットで公開されていたので貼り付ける。太字は引用者。
ある日、突然犯人に…
      〜検証!えん罪の構図〜


ある日、突然犯人に…
私たちは常に「えん罪」の恐怖と隣り合わせだと言えるのではないだろうか。

日本の警察の決め付け捜査と自白偏重主義。
欧米では当然の権利である録画・録音、弁護士の立ち会いが一切認められない取調室という「密室」の中で一体何が起こっているのか…

1998年11月、国連の人権規約委員会は日本政府に対して
「取調べの可視化」を勧告したが法務省の猛反対により実現への道は厳しい。
(近年、アジアでも韓国・台湾で実現している)

1950年代〜60年代に著名なえん罪事件が続発しているが、
ある司法関係者によれば、21世紀の今日、さらに事態は悪化しているという。

42年前に起こった戦後最大のタブーと言われたあの事件と、
21世紀に入って鹿児島で発生した前代未聞の買収事件を通じて
脈々と続いてきた「えん罪の構図」を検証する。

<特集 筝えない手錠をはずして!
      〜狭山事件42年ぶりの真実〜

1963年5月1日、埼玉県で女子高校生が誘拐され絞殺された狭山事件。
埼玉県警は被差別部落出身の石川一雄氏を別件逮捕、1ヶ月に及ぶ取り調べで自白させた。裁判で石川氏は否認に転じるが、77年に無期懲役判決が確定。その後、二度に渡って再審請求するが棄却され、現在最高裁に申し立てている特別抗告が事実上、えん罪を勝ち取るための最後のチャンスとなる。

今春にも下される最終判断を前に、元栃木県警鑑定官の斎藤保氏と画像解析の第一人者・柳田律夫氏が最新技術を駆使して、脅迫状の指紋・筆跡・インク色素・インク消し等を鑑定。42年目の今だからこそ、石川氏の無実を証明する新たな証拠が続々と浮上した!

そもそも、なぜ字が書けない石川氏が脅迫状を書いたとされ、最初の家宅捜索では存在しなかった万年筆が決定的物証として押収されるのか?
石川氏本人や当時の捜査官ら関係者のインタビューを丹念に発掘、はじめから「犯人=石川氏ありき」という決め付け捜査と自白強要の実態を検証する。

<特集◆筺箸┐鷓瓩呂海Δ靴萄遒蕕譴襦
      〜検証!鹿児島事件・取調室の闇〜

一昨年4月、鹿児島県志布志町の人口わずか6世帯の集落で起こった選挙買収事件が、「日本の刑事司法の病理が集約された事件」として法曹界の注目を集めている。

突然、身に覚えのない容疑で警察の任意同行を受け、連日の厳しい取り調べで精神的・肉体的に追いつめられていく高齢の被告たち。結果、3人が自殺未遂、3人が意識不明となって倒れ、5人が救急車で運ばれた。
現金授受を裏付ける物証が一切無く、犯行日さえ特定されない中、警察検察は、「自白」だけに頼って逮捕起訴するが、被告13人全員が自白は強要されたものとして無実を主張している。

参考人が供述してもいない内容の調書でっち上げ。
家族の名前を紙に書いて「踏み字」の強要。
取調室から虚偽の電話をかけさせ録音。
警察のウソで次々弁護士解任に追い込まれる被告たち…

取調室という密室で行われた驚くべき違法捜査の数々を検証する。

25年ほど前になるのか、雑誌『世界』に「狭山事件裁判批判」を野間宏が延々と連載していた。「韓国からの通信」と並んで、なぜだか愛読していたんだった。
こっちは忘れていたのだけれど、石川さんの闘いは続いていたのだな。

番組では、戦後に冤罪が確定した50件のうち41件では「自白」がなされていたという事実が紹介されていた。

昔は「自白したのに裁判の場では一転無罪を主張した」と聞くと“往生際の悪いヤツだ”という印象をもったものだ。
しかし今は逮捕されただけではもちろん、自白したと報道されても“犯人じゃないかもしれない”と判断を留保するクセをつけるようにしている。そうはいっても、心証としては“でもとりあえず犯人なんだろうな”とつい感じてしまうのだけれど、“違うかもしれない”という心構えだけは持つことにしている。

実際、まったくの無実かもしれないのだから。

拘置が一年も過ぎたころにたまたま真犯人が現れて拘置が解かれたというケースもあった。ある意味、運がよかったのだ。だからつまり、刑が確定した事件にも冤罪はあるだろう。

道新2004年8月31日の<朝の食卓>諏訪裕滋「ウソの自白」を転載する。
 やってもいない犯罪を自白するはずがない。自白したからには犯人に相違ない--。多くの人が抱いている観念である。
 弁護士としての経験を重ねるにつれ、こうした固定観念が完全な誤りであることが分かった。
 大事件はともかくとして、暴力ざたや痴漢といった事件で、ウソの自白をしてしまったという多くの人々を目の当たりにしてきたからだ。
 彼らは決して、拷問や厳しい取り調べを受けたわけではなかった。しかし、犯人でないかと疑われて警察に逮捕され、「否認していたらいつまでも出られないぞ」「自白したら略式の罰金で済むし、すぐに出られるぞ」と言われて、自らすすんでウソの自白をしていた。
 自由を奪われるという苦痛はたえられないものだ。この状態が続けば、仕事も家庭も失うことになってしまう。もし自由が得られるのなら、たとえウソであっても自白でも何でもしよう--。これが定番だ。こんな状況に置かれたら、誰もがはまってしまいがちな陥穽である。
 国連規約人権委員会は1998年、日本では逮捕された被疑者が最大23日間も警察の監理下に置かれ、保釈が認められないことなどに懸念を示し、改革するよう強く勧告した。
 しかし、わが国はこの勧告を無視している。ウソの自白はまだまだ続くことになる。

鹿児島事件では相当に厳しい取り調べが行われたようだ。
例えば、起き上がれない状態の人間を警察署まで連れて行って延々と事情聴取する。松本サリン事件での河野さんへの扱いを思い出した。

そもそも無実だとわかってて罪人扱いしたりするのだろうか?

狭山事件の場合は、石川さんが被差別部落出身者であることから「被差別者へ罪を着せている」という構図が語られていた。それなりの“説明”にはなる。

だが鹿児島事件では「有権者のわずか0.02%に対して196万円の買収が行われた」という嫌疑だ。不自然だし、なぜ一つの集落を狙い打ちにする必要があったのか想像がつかない。
家族からの抗議電話に対して地元署が「申し訳ない、鹿児島県警に言われて仕方ないんだ」と電話で応える様子が紹介されていた。“上”の命令に従ってせっせと架空領収書をつくらないと干されてしまうという警察の体質にもひとつの原因が帰せられるのかもしれない。

なお、これらの事件については「新じねん」というサイトでさらに詳しく知ることができる。
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民主的選挙

2/1付『加藤哲郎のネチズン・カレッジ』(http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml)より。
外国軍の銃剣と戦車と戒厳令に守られて、イラクの国民議会選挙が行われました。予想以上の60%前後の投票率(対有権者登録者比見込み!)、対有資格者比でもなんとか50%を確保(本当か?)、投票日当日の犠牲者35人も計算済みとかで、アメリカのブッシュ大統領は「際だった成功」と自画自賛、もちろんその忠犬、頼みの女性に見放され支持率33%まで下がった小泉首相も「歴史的な一歩」と双手を挙げて歓迎。でも国際選挙監視団も入れず、本来の「自由選挙=誰にも干渉されず、自分の判断で自由に投票すること」にはほど遠いこの選挙、その正統性は、歴史が判定するでしょう。先人の言葉=「デモクラシーのための教育の問題は決して単に狭義の政治乃至公民教育には限られない。いな、それを直接目標とすることは望ましくないとすら考えられる。なぜなら、それは結果に於ては戦時に於てみたと同じ様な押しつけがましいお説教に堕して、むしろ国民を政治的なものに背をむけさせる懼れがあるからだ。大切なのは国民の生活的雰囲気に於けるデモクラシーの浸透である。そのためには、デモクラティック精神を知的に了解させるよりも、情操的な訓練を通じて、無意識のうちに感得し体得させる事だ。デモクラティック・スピリットはなによりもまづ他人に対して寛容な精神をもち自己に対して良心の制約を課する事だ」――丸山真男「折たく柴の記」昭和20年10月29日(『自己内対話』みすず書房、9-10頁)。 

<デモクラティック・スピリットはなによりもまづ他人に対して寛容な精神をもち自己に対して良心の制約を課する事だ>って、そうだよな。普通選挙がちゃんと行われているかどうかっていうことは民主主義のひとつの指標でしかない。

形は民主的選挙が行われたとしても、日常の権力のあり方の方が問題だ。
<選挙のときだけ人民は自由になれる>って言ったのはルソーだっけ? (ネットは便利だ。こっちが正確。<イギリス人は、自由だとおもっているが、それは大きな間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけで、議員が選ばれるや否や、イギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう>)
イラクも民主主義の仲間に入れてよかったね、とは単純には評価できないはずだ。

だがそもそも、「民主主義の先生」としてふるまうアメリカで公正に選挙が行われているとは限らない。
『暗いニュースリンク』(http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/)より。
 <バーバラ・ボクサー上院議員の異議申し立て声明文>
なぜオハイオ州の有権者は、雨の降る中、何時間も待たねばならなかったのでしょうか?例えば、なぜケニオン大学に投票に来た有権者は、1,300人の投票者に対して2台しか投票機が設置されず、投票日の深夜、午前4時まで行列に並ばされたのでしょうか?

なぜ貧困なアフリカ系アメリカ人が多く居住する地区だけが、長く待たねばならなかったのでしょうか?

なぜフランクリン郡の選挙管理委員達は、5,000台の投票機が必要であると知りながら僅か2,798台しか設置しなかったのでしょう?なぜ委員達は68台の投票機を倉庫に引っ込めたのですか?その内42台の機械が、アフリカ系アメリカ人が多数を占める地区から排除されていたのはなぜですか?

なぜ、コロンバス地区だけで、およそ5,000から10,000人の有権者が、投票ができないまま、投票所から去らねばならなかったのでしょう?この知らせを聞いてから、何人が投票することもなく去ったのでしょうか?(訳注1)

フランクリン郡の一つの地区では638人が投票しただけなのに、投票集計機は4,258票をブッシュ票として加算したのはなぜですか?幸いにもその間違いは修正されましたが、それ以外にどれほどの票が間違えて加算されたのでしょうか?

なぜフランクリン郡の選挙委員達は、下町(ダウンタウン)では電子投票機械の設置を削減し、郊外では設置件数を増やしたのでしょう?それが長い行列の原因だったのです。

クリーブランドでは、選挙委員が有権者に間違った説明をした結果、何千票もの暫定投票が無効にされてしまったのはなぜでしょう?

要するに、民主党に投票しそうな人種や社会階層に属する人が事前に排除されたり、民主党に投票しそうな地域では投票への十分な機会が与えられなかったり投票の操作が疑われたりしたというのだ。

本当はケリーが勝っていたとか、ケリーが大統領になっていればよかったとかいうことを言いたいのではなくて、「アメリカの民主主義」というのは少なくとも選挙システムという点はそれほど理想的なものなんかじゃないのだということだ。
このへんのエピソードについては『暗いニュースリンク』の「選挙」カテゴリーの記事でたくさん知ることができる。日本のマスメディアから知ることはほとんどできない。
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