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齋藤孝のエリート主義?

以前<上機嫌力>で齋藤孝のことを取り上げた際に言ったように、彼の主張している内容には注目してきた。
それは自分の<硬直したからだとこころ>を解きほぐすにはどうしたらいいのか、感情とその表現を豊かにするにはどうしたらいいのかを竹内敏晴とか野口体操とか古武術に求めるのと同じ文脈でだった。

そこで、齋藤提唱の「3秒吸って、2秒止めて、15秒吐いて」や四股踏みをやってみたりすることもあった。
また彼がこどもたちに「からだを使って読む」訓練を指導するのも不自然には見えなかったし、それはそれで楽しそうに思えた。
演劇のセリフをことばを“パス”するように次の人にまわしていくという実践をテレビで観たときには、コミュニケーションの本質をついたやり方だなぁと感心したりもしたし。

だが、『創』2005年8月号掲載の斎藤貴男「「非国民」のすすめ:齋藤孝教授の教育論」に紹介されていた次のこと。千代田区が来年4月に開校する中高一貫校のゼネラルマネージャーとして(後に取りやめ)語ったことだという。(以下すべて太字は引用者)
 「今日はリクルートのつもりで来ています。僕とそりが合わないという人はまずだめです。プライドの変に高い方は無理という感じでしょうか。私はやり方を変えるので、特に九段中に今いらっしゃる方はよくよく考えて、できるだけ退くということを基本にですね。」
 「2006年になりますと、この学校が本格的にスタートします。(従来の九段高、九段中とは)非常に様変わりする。でも、前の年度から仕込みをしていかないと、やはり生徒が年々腐っていきますので、というのは、今の(九段中の)中一は高校受験がないというので緩んでいるという噂もあって、玉はあまりよくないわけです。受験の際の玉ですね。

この専制的でかつ競争主義的なもの言いは「重責を果たそうとする気負い」ゆえの過剰だったのだろうか。

斎藤貴男は今の教育改革路線との照合をここに見て、次のように断じる。
「以上のような齋藤教授の考え方は、政府が進める教育改革の流れと完全に軌を一にしている。グローバル・ビジネスの論理そのまま、限られた資源の“選択と集中”による生産性の極大化。エリート養成のためなら、ノンエリートの教育機会などクソ食らえ、と。」

その声が好みではなかったにせよ“ちょっと齋藤ファン”だった身としては居心地が悪い。

果たして、齋藤孝の身体論やコミュニケーション論がもしそうした政治的立場に内在的に結びついているのだろうか。
もし結びついているとしたら、身体論やコミュニケーション論の方を評価し直さなければならないことになりそうだ。

そこで、“齋藤孝論”を探してみることにした。


最近読んだ荷宮和子『若者はなぜ怒らなくなったのか』(中公新書ラクレ、2003年)でちょっとだけ揶揄しているらしき箇所があった。
「これらの価値観に裏打ちされた島本和彦作品を読むことは、「古典作品の意味を考えることなくただひたすら声を出して読む」といった行為よりも、はるかに有益な行為なのである。」(p.231)
確かに、意味が不明なままでは無意味だろう。意味を解釈してこそその音読にリズムや強弱が与えられるだろうから。
だが「意味を考えることなくただひたすら声を出して読む」にすぎないというのは正当な批判だろうか。彼の日本語理解ないし教育論はどのようなものだろう。

『噂の真相』2002年10月号の山田浩平「日本語ブームと暗誦文化の仕掛人齋藤孝の“間違いだらけの日本語”」によると、『声に出して読みたい日本語』には間違いが多いという。
『蜘蛛の糸』の「金色」へのルビ「きんいろ」は「こんじき」でなくてはならず、「玉」へのルビ「たま」は「ぎょく」でなければいけないらしい。
『雪国』の「国境」は「こっきょう」ではなく「くにざかい」が正しい、とも。
『古事記』については「古典文学を間違って引用し、中国語をまさに無理矢理、大和言葉に読み下して「美しい日本語」に仕立ててしまっているだけにすぎない」のだそうで、著者は「本当に“日本語”を知っているのか」とまで言っている。

日本語理解は必ずしも正確ではないらしい。

彼の日本語教育方法論については、渡辺知明が「文章の「読み」と「朗読」―齋藤孝「声に出して読む理想の国語教科書」批判―」で次のように述べる。
 たしかに声に出して読むことによって集中力を高めることはできます。むずかしい文章でも文字さえ読めれば、とにかく読み通すことはできます。しかし、それが「読み」なのでしょうか。齋藤氏の主張する「声に出して読む」という「朗読」の本質はこのあたりにあります。つまり、文章を「読む」ことの本質を抜きにしたまま、意味が分かろうと分かるまいと、とにかく声にすることのようです。
 ですから、むずかしい作品を読んだときに、子どもたちにできるのは、かろうじて作品の筋を読みとるか、直感でテーマと思われる部分を拾い出すくらいのものです。そんな「読み」は、単に文章から情報を拾い出すだけのことです。それはかたちを変えた詰め込み教育です。しかもずいぶん荒っぽいやりかたなのです。
荷宮による「意味を考えることなくただひたすら声を出す」という評価はある程度正しいらしい。

しかし思い出してみると、小学校や中学校での国語の授業ではそもそも音読は重視されていなかったし、音読がなされるときでも文字から音への変換がよどみなく正確になされればよしとされていたのではなかったか。
つまり「意味もわからず読む」のは無意味だろうけれども、意味解釈が「読み」に影響を与える場面というのはほとんどなかったなぁ、と改めて思うのである。
せいぜい詩の朗読のときには教師が「感情を込めて」やってみせていただろうが、こちらはそれを何か気恥ずかしく眺めていたような記憶がある。

学校教育の中で「学習することば」はまずもって文字であり解釈の対象であった。
自らの思いや存在の表現としての発話のことばを訓練する機会はなかった。

だから例えば次のような波瀬満子『ことば まるかじり ききかじり』(太郎次郎社、1992年)にある発言は大事なのだと思う。
西江(雅之)----本の教育で抜けている点を一つあげれば、ことばは表情だという点ですね。たとえば、美空ひばりのせりふは太い活字で組んであるとか、森進一のせりふはかすれた活字で組んであるとか‥、そんなこともない。
波瀬----そうですよね。
西江----そういうことはないわけです。結局、ことばはだれが見ても同じという無表情な活字に還元されてしまう。幼稚園のときからずうっと、それが当然と考えるくせをつけられているように思いますね。[‥]アフリカの小学生に学校のテキストを読ませると、日本の子どもたちとちがうことがあるんですよ。たとえば「犬がワンワンなきました」という文章があったら、「犬が」と言ったら、ほんとに犬がなくように「ワンワン」ほえるんです。それも、いろんなほえかたで。[‥]「こんにちは」も「こんにちは!」も「こーんにちは」も「コンニチハ」も、書けば同じになってしまいますからね。つねに頭がそう向くように仕向けられているんです。
波瀬----そう、しむけられているんですね。“ことば”を、まるで国語の本を読むように、印刷の文字のように、同じようにしゃべってしまう。そして、そう仕向けられていることに気がついていない。気がついていないところが、コワイですね。

気づいてはいても実践的な方法を知らない僕にとって“齋藤メソッド”は新鮮だったし、社会的に受けいれられるのもそうした発見を伴っているからではないかと感じていた。
逆説的だが、身体性をはぎとった電子メディアによるコミュニケーションが日常化したからこそ“感じるからだやこころ”と“文字のようなことば”との乖離や、“表情を失ったことば”を意識化できるようになったと言えるかもしれない。

だが他方、「ナショナリズムこそが齋藤ブームの背景だ」という指摘がある。

「続・憂国呆談」番外編Webスペシャル 2002年11月号にある田中康夫との対談での浅田彰の発言。
頭だけじゃダメで、体で覚えようってのはいいけど、それだけじゃねえ(笑)。
 だいたい、文字がダメで音声がいいっていう考え方こそが反動的なイデオロギーの核心にあるってのはジャック・デリダや柄谷行人の言う通りで、とくに日本の場合は、漢字は外国から輸入された理論(漢意[からごころ])を表記するものにすぎず、かなで表記される音声こそが日本人の身体に根ざした感情(やまとごころ)を表現しうる(かなは漢字から派生したものであるにもかかわらず)っていうような国学的イデオロギーが、つねにナショナリズムを支えてきたわけでしょ。齋藤孝も無自覚にそれを反復してると思う。
「文字がダメで音声がいいっていう考え方こそが反動的なイデオロギーの核心にある」って言われてしまうと、自分も反動イデオローグなのかと不安になってしまうが、どういう仕組みで音声・発話重視が反動イデオロギーに結びつくのだろう。ここの説明だけでは納得できない。
デリダは読んだことはないし、柄谷行人は読みにくかったよな。

すると、こんなのを見つけた。

『一橋新聞』1101号(2003年4月4日発行)「ナショナルなものを謳いあげる「新しい国語教科書をつくる会」」で糟谷啓介が次のように言う。
 『声に〜』等の日本語本が売れる一番の背景はグローバリゼーション。グローバリゼーションのなかでは、「ナショナルアイデンティティを強め、守らなければならない」ということが無意識にある。
 斉藤さんはこの本で、「明治以前の文化の連続性」と「声に出すという身体文化」の2点をしきりにいっている。この2点を強調して、ナショナルなものを謳いあげようとしているのは間違いない。
 ある対談で斉藤さんが「自分はナショナリストではない」と言っているが、この本は完全にナショナリズムだ。おそらく斉藤さんにとっての「ナショナリズム」とは一種の政治的な国家主義を想定しているのだと思う。しかし、日本語を話す共同体が歴史的にも連続していて、空間的にも日本の国土を覆っているという考え、国民というものを前提として話を進めていくことは、客観的にいってナショナリズムだ。

なるほど、「日本語」っていうところにこだわるのが齋藤の“ウリ”になっていると見るのか。
「発話ブーム」というより「日本語ブーム」の一環ととらえれば、当たっているようにも思う。
 齋藤さんの「暗誦文化」というのは文字を一字一句間違えずに覚えるというやり方。これは本当のオーラルな文化と違う、文字文化に乗っかったものだと思う。
 それと、声には非常に危ない面がある。これも『声の文化と文字の文化』でいわれていることだが、声を出すということ自体には、共同性にまとめ上げる危険な力がある。同じテクストを皆一緒に朗誦すると、皆がある種の共同体の感情をもつうになる。例えばラジオで詩の朗読が一番盛んだったのは第二次世界大戦中だった。詩の朗読は共同体の感情を強めるのに一番効果を発揮する。だからこの本は「身体文化」とはいいながらも、ある種の日本語共同体を強化する意図があると思う。
「声」の尊重は個々人のからだとこころを尊重するようでいて、共同体に回収する効果があり得る、と。
文字を前提にした発話だから、文字とその内容に対する無批判な態度(ひたすら読み上げる)は無自覚な“刷り込み”につながり得るということか。

「同じテクストを」っていうところが危険性をはらむのだろう。しかもそれが「伝統的」で「美しく力強い日本語」であるとされてしまうと、そうした規範をそれこそ“身体的に”受け容れてしまうことになりかねない。

確かに、『理想の国語教科書』っていう題名はうさんくさい。
 この本に載っている作品をほめたり好きになるのは全くかまわない。だが、素晴らしいのは作品であって、どうして「日本語が素晴らしい」になるのか。なぜ作品の具体的な特質を、全体的な日本語というものに送り返してしまうのか。その点について深く考えず、「なんて日本語は素晴らしいんだろう」と思わせてしまうから売れたのだろう。
 だからこれはある種「新しい国語教科書をつくる会」のようなもので、「新しい歴史教科書をつくる会」と似たようなものだ。「新しい」といっても、中味は古いのだけれど。

ナショナリズムに回収されて抑圧的にふるまうような「ことば」ならいらない。
<ことばの“みだれ”>で紹介した田中克彦による一文を改めて置いておく。

「ものを書いたり、人前でしゃべったりする人は、正しいことばや美しいことばの番人であることをやめて、自由な精神活動のために、まず言語的解放の側に立つべきであろう。美しいことば、力強いことばは、苦労してやっと字引の中からさがし出して来るものではなく、いじけぬ、きがねのない言語活動の中から生まれてくるのである。」

「いじけぬ、きがねのない言語活動」を実践するにはきっと「いじけぬ、きがねのない身体」が必要で、それを“技”として獲得することに意味はあるように思う。
その点では相変わらず“齋藤メソッド”には参照すべきものがあるように感じている。

そもそもの問題として立てた、「齋藤孝の身体論・コミュニケーション論とエリート主義的教育観に内在的な関連はあるか」については明確な解は見出せなかった。
ナショナリズムを媒介項にして結びついている可能性はあり得る、という程度の見通しにとどまる。

また、浅田の指摘と関連して、<コミュニケーションへの身体性の回復>ないし<ことばへの身体性の回復>という志向そのものがリスクをはらむものなのかどうか、この点はまた今後の課題だ。
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ジャンケン文化

李御寧(イー・オリョン)『ジャンケン文明論』新潮社(2005年)を読んだ。アジア、特に日本・中国・韓国の共生への願いと展望を“誰も勝たない・誰も負けない”ジャンケン文明に見る。
モザイク的な記述のせいか気楽に読めて面白かったのだけれど、この本を知るきっかけになった鴻上尚史のエッセイのほうが実は対比が効いていて興味深い。『SPA!』2005年5月3/10日号「ドン・キホーテのピアス/“ジャンケン”は東アジアの誇るべき文化である」より。
 ずっと、「ジャンケン」について書きたいと思っていました。
 始まりは、イギリスに留学した時です。授業で、課題発表の順番を巡って、クラスがもめました。
 なんとかしようと、騒いでいるイギリス人相手に、「ロック・ペーパー・シザース(石・紙・はさみ)で決めたらどうだ?」と提案しました。
 みんなは一瞬、沈黙して、「それはなんだ?」となったので、ルールを説明しました。すると、説明を聞いたイギリス人達は、「決定をそんな偶然に任したくない」と言い放ちました。
 自分が何番目にやりたいかは、明確に主張することであって、「ロック・ペーパー・シザーズ」の偶然に任すべきではない、いや、ショウ(僕のことね)お前はそういう偶然に身をまかせて平気なのか? とまで言われたのです。
 僕はこの時、初めて、ジャンケンというものを意識しました。
 イギリス人を始めとするヨーロッパ人は、ジャンケンをしないのです。
 ジャンケンをしないから、ちょっとのことで議論します。
 簡単なゲームをする時も、誰が先にやるかを、必ず議論して決めます。
 日本人なら、ほぼ100%、無条件でジャンケンが始まります。
      […]
 で、僕は「日本人の精神構造と、ジャンケンは密接なつながりがある」と考えるようになりました。
 ヨーロッパ人は(アメリカ人もですが)子供の頃から、遊ぶ順番を議論で決めます。日本人は、ジャンケンで決めます。これが、その国民の考え方や感受性と無関係なわけがないのです。
 だって、幼児の時、ブランコに誰が最初に乗るかを決める時、議論で決めるということは、3歳から対立を明確にするということです。弁舌がたつ子、腕力がある子、説得力がある子が勝つという文化を生きるのです。つまりは子供心に、“競争”と“自己主張”が刷り込まれるのです。
 が、ジャンケンでブランコに乗る順番を決める文化には、“競争”も“対立”も“自己主張”も関係ないのです。
 ただ、ジャンケンという偶然に身を任せていればいいのです。
 根本的に、対立や主張とは無縁の文化の中で、子供は成長するのです。
 選択の基本を、偶然性に任せる文化とは、つまりは究極的な根拠を手放した文化です。論理性より、偶然性を選んだ文化であり、それは、空虚な中心としての天皇制まで通じる文化ではないかと、僕は考えています。
      […]
 著者は、名著『「縮み」指向の日本人』を書かれた人で、日本・韓国文化を比較しながら明晰な分析を得意とします。
      […]
 著者は、「ジャンケン」を、欧米のコイン投げ(トッシング・コイン)の二項対立の文化に対して、積極的な三すくみの文化であると位置づけます。
 勝つか負けるかという白・黒の文化ではなく、相互に勝ち負けが動くジャンケンのシステムは、現代のどんづまりを切り開く21世紀の可能性だと言うのです。
 欧米の二項対立は、文化すべてに浸透していると著者は言います。白か黒かを明確に決めなければいけない文化は、相対立する二つのものを同時に含むことが苦手です。
 刺激的で面白い例がたくさんあるのですが、例えば、「エレベーター」。これは「上げる(elevate)」という英語の動詞から生まれた言葉です。つまり、「昇る」ほうしか描写していないのです。フランス語もドイツ語も同じです。
 が、日本は「昇降機」と訳したのです。つまり、「昇り」と「降り」をちゃんとひとつの言葉に入れたのです。中国語も同じだそうです。
 どこを取っても刺激的な本です。「ジャンケン」にこんな可能性があったのかと、ハッとします。
 コインでなくジャンケンを選ぶことは、「物から人へ、実体から関係へ、択一から並存へ、序列性から共時性へ、極端から両端不落の中間のグレイ・ゾーンに視線を換えると、暗い文明の洞穴の迷路から、なにか、かすかな光が見えてくる。エレベーターの二項対立コードが昇降機の相互、融合のコードに変わっていく兆しだ」と著者は書きます。
 ジャンケンという優れた文化を持つ東アジアの国々は、その可能性を追及すべきだと著者は言うのです。

鴻上さんのイギリスでの経験に驚く。
李さんが指摘するようにモノの形で残っていない文化は考察の対象になりにくいだろうから、これまでなかなか指摘されてこなかったのだろう。
世界中の誰もがジャンケンを活用しているものだと思い込んでいた、というか考えたことがなかった。

“議論して決める”ということで思い出したのは中嶋義道さんの『ウィーン愛憎』で描かれていたドイツ人の感性だ。
“ことばで主張しないことは決して伝わらない”というその文化を知って、「その中で過ごすのはすごく疲れるだろうな」と感じた。
日本への留学生と日本人学生がトラブルを起こす際には、そのへんのコミュニケーション・コードの違いが元になることが多いと聞いたこともある。

また、非常勤講師組合の活動をしていた頃のエピソードを思い出す。

解雇の本当の理由が「子連れ出勤」だったということが判明したとき、当の外国人講師は「担当教員はそれでいいと言ったし、それが迷惑だなどと一度も言われたことがない」と主張した。それは本当だった。しかし大学側は「迷惑だと何度もサインを送った。日本人ならわかってくれるんだけどねぇ」と。
そう発言したのが同じ外国語の担当教員だったから、「そういうことも含めた異文化を扱うのが外国語教育だろうが!」とあきれたのだけれど、他方で、「はっきりと言われていない以上は知りえなかった」という講師の毅然たる態度に「そういうものか」と感じ入った記憶がある。

もうひとつ。

学生へのセクハラを理由に解雇通告された外国人の場合。
「いつ、どこで、誰にやったというのか、根拠を示せ!」と当人は息巻いていた。本人がやっていないと主張する以上、交渉担当としては“推定無罪”の立場で大学側と向き合わなければならない。
大学は「学生にコーラを買いに行かせて授業中に飲んでいた」という話ももち出してきた。それに対しても「いつ、どこで、誰にやったというのか!」だった。
ところがこの件に関しては複数の学生の証言という証拠が出てきて、本人も結局は認めたのだ。
“コーラ問題”そのものは重大ではない。しかしセクハラについての「いつ、どこで、誰に!」というのも怪しく思えてくるではないか。
このとき連想したのが「事故ってもお互いに自分の非を認めない欧米人」というエピソード。
セクハラの有無に決着はつかなかったが、“自己主張”と“議論”の文化をそのときに垣間見ることができたということだろう。

“何ごとも議論”というのと“以心伝心”のどちらがいい、ということではなかろう。それこそ「白か黒か決着をつける」ような構えだ。
ただ李さんが世界の流れとして「二項対立から共存へ」という様子を見とっていることに、少しほっとすることができた。
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「正しさ」にしがみつかないことばを

『ほぼ日刊イトイ新聞』で糸井重里が書いてる「ダーリンコラム」2003年10月27日付にこんなのを見つけた。(太字は引用者)
<絶滅してくれ、目くじら。>

左官屋のことを「しゃかんや」と
読んでいいのか悪いのかというようなことが、
「ほぼ日」に届くメールのなかで話題になってる。
これはこれで、たのしいサロンのおしゃべりになる。
広辞苑でも「しゃかん」という単語はでていて、
「→さかん」と書いてあるから、
正しかろうが間違っていようが、
事実上、広まっているということがわかる。

魚の鮭(しゃけ)も、
ほんとうは「さけ」かもしれないけれど、
実際に、すっかり普及してしまっていることばだ。

実は、ぼく自身の好みとしては、こういうの大好きさ。

落語家の人たちは、古い江戸の方言を再現するもんだから、
もっとすごい読み方をしているよ。
蛙(かえる)のことは、
はっきりと「かえろ」と言うもんなぁ。
吉原などの女郎(じょろう)は、
これまた明確に「じょうろ」と発音している。
「じょうろ買い」というような言い方ね。
ただ、またまた広辞苑を調べてみたら、
「じょろう」も「じょうろ」も、
どちらもでているんだよなぁ。
さすがに、「かえろ」はでてなかったな。
でも、話の流れのなかで「かえろ」が
「カエル」のことであることは、十分に伝わる。
それで別にかまわないじゃないかと、ぼくは思ってしまう。

評論家の呉智英が書いてから、
「須く(すべからく)」ということばの誤用について、
とてもおおぜいの人が注目するようになったけれど、
もともと呉智英は、
「すべからく」に代表されるような
「むつかしそうなことばを、えらそうに使う」人の
イージーな教養主義をからかいたかった
ということなのであって、
「すべからく摘発組」を組織したかった
わけじゃないと思うんですけどね。
それでも、「すべからく」が「べし」に結ばれてない
文章があると、どっとそれを指摘する投書が増える。

同じように、うまいものを食べて
「したづつみ」をうつという人がいると、
それに過敏に反応する人がいる。
「舌を包むんじゃないだろう、
舌で鼓(つづみ)をうつんだろう。
したつづみと言いたまえ!」と
説教を始めたりするのだけれどねぇ。
「腹鼓(はらづつみ)」という表現も
許されているんだし、
別にそこまで怒ることもないだろうにと思う。
ぼくは、ちょっと挑発的に
じゃんじゃん「したづつみ」をうってみたくなる。

ことばにしても、行動にしても、
まちがったことをそのままにしておくのは、
我慢できないことかもしれない。
そういう気持ちも、わからないわけではない。
しかし、だからと言って何が困るのだろうか、と、
ちょっとおちついて考えてみちゃぁくれまいか。
世の中にあるバグのような「言いまつがい」だの、
方言だの、発音のまちがいだのを、
そんなに厳密にチェックする必要があるんだろうか。

ぼくは、まったく自慢にはならないことだけれど、
あるときまで、「来日」を「らいじつ」と言っていた。
「市井」の読み方は、頭ではわかっていても
つい「いちい」と読んでしまっていた。
「出自」は、どうしても「でじ」と言いたくなって
グッとこらえて「しゅつじ」と読んでいたりする。
そのくらいダメなやつではある。
しかし、それがそんなに恥ずかしいことだとは思ってない。
自慢でないのは確かだけれど、
たいしたことじゃないと思う。

ぼくだって、
日本語を大事にする、ということには賛成なのだ。
例えば、「いい表現に感じ入ること」などは、
ぼくにとっての、ことばを大事にするということだ。
細かいミスに目くじらを立てるということではない。

なんかさ、標準的で、まちがってないものが
世の中のぜんぶになっちゃっているような感じが、
どうにも、ぼくには、いごこちがよくない。
適当に、いろんな間違いが混じっているくらいが、
世界をおもしろくしているんじゃないのかね。
正しさというのは、いろんな価値のなかで、
必ずしもいちばん高いものではない。
ぼくは、そう思っている。

目くじらの野郎が、泳ぎまくるほど、
世間がつまらなくなると、思っていいんじゃないかね。

先日テレビで「正しい日本語チェック」みたいな番組をやってた。
題材をほとんど思い出せないのだけれど、「<気のおけない>の正しい意味は?」みたいなやつね。
そしたら「街で調査したら誤答率80%」みたいなのが続々と出てくるの。
で、エラソーに振舞う(そのように振舞うよう要求されていたのかもしれない)センセーが「これが正しいのだ」と解説してみせる。

そこで思ったのだけれど、25%しか本来の意味で使われないことばっていうのはすでに“死んでいる”んじゃないだろうか。
あるいは、意味がずれたり逆転したりしている最中にあるとか。

例えば、<やさしい>っていうことばはもともとは「やせている」であってそこから「(身が細るほど)恥ずかしい」になって…(中略)…でそのうち今みたいな用法になっているという。
「本来の意味」で使えば正しいってもんじゃなかろう。ことばの生きた現場で通じなければしょうがない。

「正しいことばを知らないのは恥ずかしい」という構えで番組は進んでいったけど、「本来の意味」の使用がどんどん目減りしているとしたらそれはそのうち消滅するはずで、そこにしがみついてるかのようなセンセーの姿が少し滑稽に見えた。
田中克彦の言う「言語エリート主義」ってやつかな。

北原保雄編『問題な日本語』(大修館書店、2004年)では
「「全然」を肯定表現に使うのは間違いではないでしょうか」という設問に対して、結論としては次のように答えている。(p.17-21)
「全然」を肯定表現で使うのは必ずしも間違いではありません。否定的な状況や懸念をくつがえして〈まったく問題なく〉の意味で使う用法(『大丈夫?』『全然平気!』)や、二つの物事を比較して使う用法(「こっちの方が全然いい」)は、現在、一般化していると言えます。

こういう構えの方が全然いい、と思う。
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問題な本

今朝テレビで書籍の売行き週間ランキングをやってた。八重洲ブックセンターの実績らしいけど、そこで4位として紹介されていたのが次の本。

『問題な日本語―どこがおかしい?何がおかしい?』
大修館書店 (2004-12-10出版)
・北原 保雄【編】
単に「使ってはいけない」「この用法は間違っている」と指摘するだけではなく、どうしてそういう表現が生まれてくるのか、誤用であったとしても、その誤用が生まれてくる「誤用の論理」は何なのかを究明する。
 おビールをお持ちしました
 全然いい
 こちら〜になります
 よろしかったでしょうか
 っていうか
 すごいおいしい
 知らなさそうだ
 コーヒーのほうをお持ちしました
 やむおえない
 私って…じゃないですか〔ほか〕

「誤用の論理」っていう発想が面白そうだ。「誤用」の側にもそれなりの言い分があるということだな。

著者がインタビューに応える映像もあって、
「若者言葉だって若者の間では“正しい”わけです」
「“問題な”という言い回し自体が本来の用法ではないのですが、表題としてわざと使って、“な”という文字を首をかしげるように斜めにデザインしました」
なんてことを言っていた。

著者は1936年生まれだそうで、リストを見ると元々は古典文学研究の人みたいだな。辞典類にも携わっている。
でも堅物じゃないんだ。
そういえば金田一春彦も「漢字なんて書けなくたって読めりゃいいんだ」みたいなことをどこかで言ってた。
このへんの人は、田中克彦が標的にする“言語エリート主義者”ではないということなんだろう。

読んでみようっと。
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ことばの“みだれ”

道新2004年7月30日「“誤用”広がる慣用句」からほぼ全文。
 「檄を飛ばす」「姑息」「憮然」について、70%前後の人が本来の意味とは異なる意味で理解していることが29日、文化庁の日本語に関する世論調査で分かった。本来の表現ではない「的を得る」「押しも押されぬ」を誤って使っている人も半数を超え、慣用句などの誤用が広がっている。
 既に一部の辞書は、本来とは違う意味も掲載しており、文化庁は「違う意味や表現が定着しつつあるのかどうか注目したい」としている。[…]
 語句の意味の理解では、「檄を飛ばす」について、本来の「自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めること」とした人は15%にとどまり、「元気のない者に刺激を与えて活気付けること」が74%に達した。
 「姑息」を本来の意味の「一時しのぎ」と答えたのは13%。70%が「ひきょうな」を選んだ。
 「憮然」も「腹を立てている様子」が69%に達し「失望してぼんやりとしている様子」という正答は16%。
 「話のさわりを聞かせる」と使う「さわり」は、本来の「話などの要点のこと」は31%。「最初の部分のこと」が59%だった。
 「物事の肝心な点を確実にとらえること」の意味で使う慣用句を選ばせる設問で、正解の「的を射る」は39%。「的を得る」が54%に達した。両方の表現とも使わない人は全体の2%だが、十代は12%に上り、若い世代では慣用句自体を使わない人が増えている。
 「実力があって堂々としていること」を意味する慣用句として「押しも押されもせぬ」を正答したのは37%で、「押しも押されぬ」との誤用が51%だった。

 文化庁の日本語世論調査で日常の言葉遣いを調べたところ「なにげなく」の代わりに「なにげに」を使う人は、1996年度の調査で十人に一人だったのに、今回は四人に一人の割合に増えた。年齢差を示す「一コ(いっこ)上」を使う人も過半数となり、若者言葉が徐々にほかの世代にも浸透してきていることを示した。
 「なにげに」を使う人は全体の24%で、同じ設問で尋ねた96年度の9%から倍以上に増えた。20代までは60%以上、30代でも42%だが、50代と60歳以上は8%にとどまっている。
 「一コ上」を使う人は96年度より9ポイント増え51%。30代までは80%以上で40代も63%、50代は39%だった。
 「腹が立つ」を「むかつく」は全体の48%が使い、20代までは90%以上。「とても…」を「チョー…」と言うのは全体の21%だが、20代までに限ると50%を超えた。
 「寝る前に歯を磨きます」を「歯を磨くじゃないですか」と言うのは全体の19%。20代までは40%以上で30代も35%だったが50代以上は一けた。自分のことを言うのに同意を求めるような表現は適切でないという抵抗感が強いようだ。
 「すごく速い」を「すごい速い」と言うのは46%。60代以上も34%と抵抗感が薄れている。文化庁はこの用法は江戸時代にもみられた現象とし「現代の文法では誤用だが歴史的には間違いとは言えない」とする。
 「とても明るい」を「全然明るい」と表現するのは21%。「全然」は本来、否定と結び付くが、文化庁によると、夏目漱石らが肯定の用法として使った例もあるという。

これにも少々ドキッとした。
特に慣用句に関しては、ここで披瀝するのが恥ずかしいような思い違いがいくつかあった。

こういう事態を憂える論調は珍しくないだろう。
例えば道新2004年12月26日<現代を解く>佐伯啓思「思想養う土台の危機---国語力の崩壊は何を示すか」より。
 若者の国語力が低下しているそうだ。確かに、町を歩いていても、「チョー ムカツク」「マジで?」「めっちゃ うれしい」「…みたいな」といった断片的な言葉が飛び交っている。
 「メディア教育開発センター」の調査によると、大学生のうち、中学生レベルの国語力しかもたないものが国立大で6%、私立大で20%であり、高1、高2レベルが、国立大で23%、私立で37%だという。国立でいえばほぼ三人に一人が、私立でいえば半分以上が高2レベルだということになる。
 「憂える」を「喜ぶ」と同じ意味だと思っていたものが約67%おり、この意味を正確に知っていたものはいなかった、という。同調査によると、留学生のほうが平均して優れた日本語能力をもっているケースがかなりみられる、という。

佐伯氏はこのあと「他人にきちんと意思を伝えようとする力」そのものの衰退を嘆き、「思想の基盤としての国語力」の回復を訴える。

ことばへの知識はそれはそれで豊かになった方がいいのだろうけれども、ここで考えたいのは<正しいことばづかい>というものを想定することの意味である。

田中克彦(『ことばの差別』農文協、1980年)はこんな風に言う。
原著傍点部分は<>で示した。
 ことばのいちじるしい特徴は、それが変化するという点にあるのだが、ことばにはげしい非難が投げつけられるのもまた、この同じ変化するという性質にむかってである。ことばの<変化>は、まず最初はことばの<みだれ>としてあらわれる。より正確に言えば、普通の人間は、ことばの上に生じる変化は何であれ<みだれ>として受けとるということである。
 ところで、みだれという呼びかたには、それに好意を持たない気持ちがあらわれているが、変化をみだれと感じるのはどんな人であろうか。それは年長者が、あるいは社会的上層の者が、上から下を見たときの気持ちである。親から見た子供、教師から見た生徒、文化人から見た非文化人のことばは、いつでも多少はみだれており、逆に、どうも近ごろの親のことばはみだれていて聞くに耐えないと嘆く子供がいるだろうか。
  […]
 もっとも人によっては、みだれでない「正しい」変化もあるはずだというだろう。しかしそもそも、ことばにおける正しさは、だれが判断するのだろうか。ラテン語で数字の百のことをケントゥムと言ったが、それは変化によってセントやチェントになった。どちらが正しいのだろうか。フランス語は正しい変化によって成立したが、イタリア語はよこしまな道によってできあがったとは言わないだろう。つまり東京語は正しいがイバラキ語ははずかしいことばであるなどとは言えないだろう。
 だから、ちかごろことばがみだれていると言ったり書いたりする人は、それに先だって、「自分のものさしからは」とつけ加えてみるべきであって、決して社会や「美しい」日本語の名においてことばを糾弾してはならない。
  […]
 ちかごろは、本気でことばの問題を考えてみたことのない人でさえ、言語は精神の活動と分かちがたく結びついている----などともっともらしい顔をして言うのがはやりになっている。ほんとにそうならば、ものを書いたり、人前でしゃべったりする人は、正しいことばや美しいことばの番人であることをやめて、自由な精神活動のために、まず言語的解放の側に立つべきであろう。美しいことば、力強いことばは、苦労してやっと字引きの中からさがし出して来るものではなく、いじけぬ、きがねのない言語活動の中から生まれてくるのである。

最後の一文が好き。

もし僕が「チョー」とか「なにげに」とか自然に言い出すとしたら、それはきっとそうした言語表現が自分の精神活動にふさわしいと感じたときだろう。
現在それを使っている人は、それが自分の感覚を正しく表現するからこそ選んでいるのだ。誰かの指示する<正しい>ことばが自らの生き生きした感覚にそぐわないならば無理して使う必要はない。
多くの論者が言うように、「腹が立つ」のでも「頭に来る」のでもなく「むかつく」のはその感情を抱く“からだ”がそのように反応しているからだろう。胸につかえているのだ。
「全然明るい」だって、「全然心配ないよ」という相手への配慮の気分がそう言わせているのではないか。

実は僕自身に<正しいことば>を志向する気分はある。
他方で、無味乾燥でない<生き生きしたことば>へのあこがれも強い。
いちいちの実践で折り合いをつけていくしかないのだと思う。
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「丸い形」--このことば間違いなの?

道新2005年1月28日の記事、「小学生 使わない漢字書けない」を見て少々ドキッとした。
 大統領の「統」、地層の「層」などの漢字が20年前より書けるようになっている一方、秋分の「秋」、「本(もと)を正す」の「本」、「五戸(こ)」の「戸」などを書けない小学生が増えていることが27日、財団法人総合初等教育研究所の漢字の読み書き調査で分かった。[…]「赤十字」は五年生の半数近くが「あかじゅうじ」と読む。
  […]
 「秋分」は「春分」と間違えた子どもが多く、「しゅうぶん」と「しゅんぶん」が区別されていないことが分かる。こうした音が似ていたり同じだったりすることによって間違っているのが多い字には、「私」を「わたし」と読む▽「半ば」を「中ば」と書く▽「円い形」を「丸い形」と書く--などの例が見られた。

なんでドキッとしたかというと、僕自身が「丸い形」と平気で書いてしまいそうだからだ。それに、「私」を読み上げるとしたら「わたくし」だなんてまどろっこしくて言ってられない。

僕はふだん間違っていたのだったか!
(「ふだん」は「普段」は間違いで「不断」だと聞いたことがあるけどはっきり覚えてないのでひらがなにしておく)

ちょっとだけ調べてみた。

広辞苑では「まる・い【円い・丸い】」と併記し、「「円」は、主に平面的に見た形が円形の場合に使う」と注記してある。厳密に「丸い形」でだめなわけではないようだ。それにこの注記に従えば、立体物を思い浮かべながらだったらむしろ「丸い形」の方が適切だということになるではないか。
「わたし」だってちゃんと広辞苑に載っている。「わたくし」よりくだけた言い方、っていう注記があるが、それはつまり状況によっては「わたし」の方が適切だということだ。

前提とされている<正しいことば>自体を疑ってもいいんじゃないか。
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