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「今日はリクルートのつもりで来ています。僕とそりが合わないという人はまずだめです。プライドの変に高い方は無理という感じでしょうか。私はやり方を変えるので、特に九段中に今いらっしゃる方はよくよく考えて、できるだけ退くということを基本にですね。」
「2006年になりますと、この学校が本格的にスタートします。(従来の九段高、九段中とは)非常に様変わりする。でも、前の年度から仕込みをしていかないと、やはり生徒が年々腐っていきますので、というのは、今の(九段中の)中一は高校受験がないというので緩んでいるという噂もあって、玉はあまりよくないわけです。受験の際の玉ですね。」
たしかに声に出して読むことによって集中力を高めることはできます。むずかしい文章でも文字さえ読めれば、とにかく読み通すことはできます。しかし、それが「読み」なのでしょうか。齋藤氏の主張する「声に出して読む」という「朗読」の本質はこのあたりにあります。つまり、文章を「読む」ことの本質を抜きにしたまま、意味が分かろうと分かるまいと、とにかく声にすることのようです。荷宮による「意味を考えることなくただひたすら声を出す」という評価はある程度正しいらしい。
ですから、むずかしい作品を読んだときに、子どもたちにできるのは、かろうじて作品の筋を読みとるか、直感でテーマと思われる部分を拾い出すくらいのものです。そんな「読み」は、単に文章から情報を拾い出すだけのことです。それはかたちを変えた詰め込み教育です。しかもずいぶん荒っぽいやりかたなのです。
西江(雅之)----本の教育で抜けている点を一つあげれば、ことばは表情だという点ですね。たとえば、美空ひばりのせりふは太い活字で組んであるとか、森進一のせりふはかすれた活字で組んであるとか‥、そんなこともない。
波瀬----そうですよね。
西江----そういうことはないわけです。結局、ことばはだれが見ても同じという無表情な活字に還元されてしまう。幼稚園のときからずうっと、それが当然と考えるくせをつけられているように思いますね。[‥]アフリカの小学生に学校のテキストを読ませると、日本の子どもたちとちがうことがあるんですよ。たとえば「犬がワンワンなきました」という文章があったら、「犬が」と言ったら、ほんとに犬がなくように「ワンワン」ほえるんです。それも、いろんなほえかたで。[‥]「こんにちは」も「こんにちは!」も「こーんにちは」も「コンニチハ」も、書けば同じになってしまいますからね。つねに頭がそう向くように仕向けられているんです。
波瀬----そう、しむけられているんですね。“ことば”を、まるで国語の本を読むように、印刷の文字のように、同じようにしゃべってしまう。そして、そう仕向けられていることに気がついていない。気がついていないところが、コワイですね。
頭だけじゃダメで、体で覚えようってのはいいけど、それだけじゃねえ(笑)。「文字がダメで音声がいいっていう考え方こそが反動的なイデオロギーの核心にある」って言われてしまうと、自分も反動イデオローグなのかと不安になってしまうが、どういう仕組みで音声・発話重視が反動イデオロギーに結びつくのだろう。ここの説明だけでは納得できない。
だいたい、文字がダメで音声がいいっていう考え方こそが反動的なイデオロギーの核心にあるってのはジャック・デリダや柄谷行人の言う通りで、とくに日本の場合は、漢字は外国から輸入された理論(漢意[からごころ])を表記するものにすぎず、かなで表記される音声こそが日本人の身体に根ざした感情(やまとごころ)を表現しうる(かなは漢字から派生したものであるにもかかわらず)っていうような国学的イデオロギーが、つねにナショナリズムを支えてきたわけでしょ。齋藤孝も無自覚にそれを反復してると思う。
『声に〜』等の日本語本が売れる一番の背景はグローバリゼーション。グローバリゼーションのなかでは、「ナショナルアイデンティティを強め、守らなければならない」ということが無意識にある。
斉藤さんはこの本で、「明治以前の文化の連続性」と「声に出すという身体文化」の2点をしきりにいっている。この2点を強調して、ナショナルなものを謳いあげようとしているのは間違いない。
ある対談で斉藤さんが「自分はナショナリストではない」と言っているが、この本は完全にナショナリズムだ。おそらく斉藤さんにとっての「ナショナリズム」とは一種の政治的な国家主義を想定しているのだと思う。しかし、日本語を話す共同体が歴史的にも連続していて、空間的にも日本の国土を覆っているという考え、国民というものを前提として話を進めていくことは、客観的にいってナショナリズムだ。
齋藤さんの「暗誦文化」というのは文字を一字一句間違えずに覚えるというやり方。これは本当のオーラルな文化と違う、文字文化に乗っかったものだと思う。「声」の尊重は個々人のからだとこころを尊重するようでいて、共同体に回収する効果があり得る、と。
それと、声には非常に危ない面がある。これも『声の文化と文字の文化』でいわれていることだが、声を出すということ自体には、共同性にまとめ上げる危険な力がある。同じテクストを皆一緒に朗誦すると、皆がある種の共同体の感情をもつうになる。例えばラジオで詩の朗読が一番盛んだったのは第二次世界大戦中だった。詩の朗読は共同体の感情を強めるのに一番効果を発揮する。だからこの本は「身体文化」とはいいながらも、ある種の日本語共同体を強化する意図があると思う。
この本に載っている作品をほめたり好きになるのは全くかまわない。だが、素晴らしいのは作品であって、どうして「日本語が素晴らしい」になるのか。なぜ作品の具体的な特質を、全体的な日本語というものに送り返してしまうのか。その点について深く考えず、「なんて日本語は素晴らしいんだろう」と思わせてしまうから売れたのだろう。
だからこれはある種「新しい国語教科書をつくる会」のようなもので、「新しい歴史教科書をつくる会」と似たようなものだ。「新しい」といっても、中味は古いのだけれど。
ずっと、「ジャンケン」について書きたいと思っていました。
始まりは、イギリスに留学した時です。授業で、課題発表の順番を巡って、クラスがもめました。
なんとかしようと、騒いでいるイギリス人相手に、「ロック・ペーパー・シザース(石・紙・はさみ)で決めたらどうだ?」と提案しました。
みんなは一瞬、沈黙して、「それはなんだ?」となったので、ルールを説明しました。すると、説明を聞いたイギリス人達は、「決定をそんな偶然に任したくない」と言い放ちました。
自分が何番目にやりたいかは、明確に主張することであって、「ロック・ペーパー・シザーズ」の偶然に任すべきではない、いや、ショウ(僕のことね)お前はそういう偶然に身をまかせて平気なのか? とまで言われたのです。
僕はこの時、初めて、ジャンケンというものを意識しました。
イギリス人を始めとするヨーロッパ人は、ジャンケンをしないのです。
ジャンケンをしないから、ちょっとのことで議論します。
簡単なゲームをする時も、誰が先にやるかを、必ず議論して決めます。
日本人なら、ほぼ100%、無条件でジャンケンが始まります。
[…]
で、僕は「日本人の精神構造と、ジャンケンは密接なつながりがある」と考えるようになりました。
ヨーロッパ人は(アメリカ人もですが)子供の頃から、遊ぶ順番を議論で決めます。日本人は、ジャンケンで決めます。これが、その国民の考え方や感受性と無関係なわけがないのです。
だって、幼児の時、ブランコに誰が最初に乗るかを決める時、議論で決めるということは、3歳から対立を明確にするということです。弁舌がたつ子、腕力がある子、説得力がある子が勝つという文化を生きるのです。つまりは子供心に、“競争”と“自己主張”が刷り込まれるのです。
が、ジャンケンでブランコに乗る順番を決める文化には、“競争”も“対立”も“自己主張”も関係ないのです。
ただ、ジャンケンという偶然に身を任せていればいいのです。
根本的に、対立や主張とは無縁の文化の中で、子供は成長するのです。
選択の基本を、偶然性に任せる文化とは、つまりは究極的な根拠を手放した文化です。論理性より、偶然性を選んだ文化であり、それは、空虚な中心としての天皇制まで通じる文化ではないかと、僕は考えています。
[…]
著者は、名著『「縮み」指向の日本人』を書かれた人で、日本・韓国文化を比較しながら明晰な分析を得意とします。
[…]
著者は、「ジャンケン」を、欧米のコイン投げ(トッシング・コイン)の二項対立の文化に対して、積極的な三すくみの文化であると位置づけます。
勝つか負けるかという白・黒の文化ではなく、相互に勝ち負けが動くジャンケンのシステムは、現代のどんづまりを切り開く21世紀の可能性だと言うのです。
欧米の二項対立は、文化すべてに浸透していると著者は言います。白か黒かを明確に決めなければいけない文化は、相対立する二つのものを同時に含むことが苦手です。
刺激的で面白い例がたくさんあるのですが、例えば、「エレベーター」。これは「上げる(elevate)」という英語の動詞から生まれた言葉です。つまり、「昇る」ほうしか描写していないのです。フランス語もドイツ語も同じです。
が、日本は「昇降機」と訳したのです。つまり、「昇り」と「降り」をちゃんとひとつの言葉に入れたのです。中国語も同じだそうです。
どこを取っても刺激的な本です。「ジャンケン」にこんな可能性があったのかと、ハッとします。
コインでなくジャンケンを選ぶことは、「物から人へ、実体から関係へ、択一から並存へ、序列性から共時性へ、極端から両端不落の中間のグレイ・ゾーンに視線を換えると、暗い文明の洞穴の迷路から、なにか、かすかな光が見えてくる。エレベーターの二項対立コードが昇降機の相互、融合のコードに変わっていく兆しだ」と著者は書きます。
ジャンケンという優れた文化を持つ東アジアの国々は、その可能性を追及すべきだと著者は言うのです。
<絶滅してくれ、目くじら。>
左官屋のことを「しゃかんや」と
読んでいいのか悪いのかというようなことが、
「ほぼ日」に届くメールのなかで話題になってる。
これはこれで、たのしいサロンのおしゃべりになる。
広辞苑でも「しゃかん」という単語はでていて、
「→さかん」と書いてあるから、
正しかろうが間違っていようが、
事実上、広まっているということがわかる。
魚の鮭(しゃけ)も、
ほんとうは「さけ」かもしれないけれど、
実際に、すっかり普及してしまっていることばだ。
実は、ぼく自身の好みとしては、こういうの大好きさ。
落語家の人たちは、古い江戸の方言を再現するもんだから、
もっとすごい読み方をしているよ。
蛙(かえる)のことは、
はっきりと「かえろ」と言うもんなぁ。
吉原などの女郎(じょろう)は、
これまた明確に「じょうろ」と発音している。
「じょうろ買い」というような言い方ね。
ただ、またまた広辞苑を調べてみたら、
「じょろう」も「じょうろ」も、
どちらもでているんだよなぁ。
さすがに、「かえろ」はでてなかったな。
でも、話の流れのなかで「かえろ」が
「カエル」のことであることは、十分に伝わる。
それで別にかまわないじゃないかと、ぼくは思ってしまう。
評論家の呉智英が書いてから、
「須く(すべからく)」ということばの誤用について、
とてもおおぜいの人が注目するようになったけれど、
もともと呉智英は、
「すべからく」に代表されるような
「むつかしそうなことばを、えらそうに使う」人の
イージーな教養主義をからかいたかった
ということなのであって、
「すべからく摘発組」を組織したかった
わけじゃないと思うんですけどね。
それでも、「すべからく」が「べし」に結ばれてない
文章があると、どっとそれを指摘する投書が増える。
同じように、うまいものを食べて
「したづつみ」をうつという人がいると、
それに過敏に反応する人がいる。
「舌を包むんじゃないだろう、
舌で鼓(つづみ)をうつんだろう。
したつづみと言いたまえ!」と
説教を始めたりするのだけれどねぇ。
「腹鼓(はらづつみ)」という表現も
許されているんだし、
別にそこまで怒ることもないだろうにと思う。
ぼくは、ちょっと挑発的に
じゃんじゃん「したづつみ」をうってみたくなる。
ことばにしても、行動にしても、
まちがったことをそのままにしておくのは、
我慢できないことかもしれない。
そういう気持ちも、わからないわけではない。
しかし、だからと言って何が困るのだろうか、と、
ちょっとおちついて考えてみちゃぁくれまいか。
世の中にあるバグのような「言いまつがい」だの、
方言だの、発音のまちがいだのを、
そんなに厳密にチェックする必要があるんだろうか。
ぼくは、まったく自慢にはならないことだけれど、
あるときまで、「来日」を「らいじつ」と言っていた。
「市井」の読み方は、頭ではわかっていても
つい「いちい」と読んでしまっていた。
「出自」は、どうしても「でじ」と言いたくなって
グッとこらえて「しゅつじ」と読んでいたりする。
そのくらいダメなやつではある。
しかし、それがそんなに恥ずかしいことだとは思ってない。
自慢でないのは確かだけれど、
たいしたことじゃないと思う。
ぼくだって、
日本語を大事にする、ということには賛成なのだ。
例えば、「いい表現に感じ入ること」などは、
ぼくにとっての、ことばを大事にするということだ。
細かいミスに目くじらを立てるということではない。
なんかさ、標準的で、まちがってないものが
世の中のぜんぶになっちゃっているような感じが、
どうにも、ぼくには、いごこちがよくない。
適当に、いろんな間違いが混じっているくらいが、
世界をおもしろくしているんじゃないのかね。
正しさというのは、いろんな価値のなかで、
必ずしもいちばん高いものではない。
ぼくは、そう思っている。
目くじらの野郎が、泳ぎまくるほど、
世間がつまらなくなると、思っていいんじゃないかね。
「全然」を肯定表現で使うのは必ずしも間違いではありません。否定的な状況や懸念をくつがえして〈まったく問題なく〉の意味で使う用法(『大丈夫?』『全然平気!』)や、二つの物事を比較して使う用法(「こっちの方が全然いい」)は、現在、一般化していると言えます。
単に「使ってはいけない」「この用法は間違っている」と指摘するだけではなく、どうしてそういう表現が生まれてくるのか、誤用であったとしても、その誤用が生まれてくる「誤用の論理」は何なのかを究明する。
おビールをお持ちしました
全然いい
こちら〜になります
よろしかったでしょうか
っていうか
すごいおいしい
知らなさそうだ
コーヒーのほうをお持ちしました
やむおえない
私って…じゃないですか〔ほか〕
「檄を飛ばす」「姑息」「憮然」について、70%前後の人が本来の意味とは異なる意味で理解していることが29日、文化庁の日本語に関する世論調査で分かった。本来の表現ではない「的を得る」「押しも押されぬ」を誤って使っている人も半数を超え、慣用句などの誤用が広がっている。
既に一部の辞書は、本来とは違う意味も掲載しており、文化庁は「違う意味や表現が定着しつつあるのかどうか注目したい」としている。[…]
語句の意味の理解では、「檄を飛ばす」について、本来の「自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めること」とした人は15%にとどまり、「元気のない者に刺激を与えて活気付けること」が74%に達した。
「姑息」を本来の意味の「一時しのぎ」と答えたのは13%。70%が「ひきょうな」を選んだ。
「憮然」も「腹を立てている様子」が69%に達し「失望してぼんやりとしている様子」という正答は16%。
「話のさわりを聞かせる」と使う「さわり」は、本来の「話などの要点のこと」は31%。「最初の部分のこと」が59%だった。
「物事の肝心な点を確実にとらえること」の意味で使う慣用句を選ばせる設問で、正解の「的を射る」は39%。「的を得る」が54%に達した。両方の表現とも使わない人は全体の2%だが、十代は12%に上り、若い世代では慣用句自体を使わない人が増えている。
「実力があって堂々としていること」を意味する慣用句として「押しも押されもせぬ」を正答したのは37%で、「押しも押されぬ」との誤用が51%だった。
文化庁の日本語世論調査で日常の言葉遣いを調べたところ「なにげなく」の代わりに「なにげに」を使う人は、1996年度の調査で十人に一人だったのに、今回は四人に一人の割合に増えた。年齢差を示す「一コ(いっこ)上」を使う人も過半数となり、若者言葉が徐々にほかの世代にも浸透してきていることを示した。
「なにげに」を使う人は全体の24%で、同じ設問で尋ねた96年度の9%から倍以上に増えた。20代までは60%以上、30代でも42%だが、50代と60歳以上は8%にとどまっている。
「一コ上」を使う人は96年度より9ポイント増え51%。30代までは80%以上で40代も63%、50代は39%だった。
「腹が立つ」を「むかつく」は全体の48%が使い、20代までは90%以上。「とても…」を「チョー…」と言うのは全体の21%だが、20代までに限ると50%を超えた。
「寝る前に歯を磨きます」を「歯を磨くじゃないですか」と言うのは全体の19%。20代までは40%以上で30代も35%だったが50代以上は一けた。自分のことを言うのに同意を求めるような表現は適切でないという抵抗感が強いようだ。
「すごく速い」を「すごい速い」と言うのは46%。60代以上も34%と抵抗感が薄れている。文化庁はこの用法は江戸時代にもみられた現象とし「現代の文法では誤用だが歴史的には間違いとは言えない」とする。
「とても明るい」を「全然明るい」と表現するのは21%。「全然」は本来、否定と結び付くが、文化庁によると、夏目漱石らが肯定の用法として使った例もあるという。
若者の国語力が低下しているそうだ。確かに、町を歩いていても、「チョー ムカツク」「マジで?」「めっちゃ うれしい」「…みたいな」といった断片的な言葉が飛び交っている。
「メディア教育開発センター」の調査によると、大学生のうち、中学生レベルの国語力しかもたないものが国立大で6%、私立大で20%であり、高1、高2レベルが、国立大で23%、私立で37%だという。国立でいえばほぼ三人に一人が、私立でいえば半分以上が高2レベルだということになる。
「憂える」を「喜ぶ」と同じ意味だと思っていたものが約67%おり、この意味を正確に知っていたものはいなかった、という。同調査によると、留学生のほうが平均して優れた日本語能力をもっているケースがかなりみられる、という。
ことばのいちじるしい特徴は、それが変化するという点にあるのだが、ことばにはげしい非難が投げつけられるのもまた、この同じ変化するという性質にむかってである。ことばの<変化>は、まず最初はことばの<みだれ>としてあらわれる。より正確に言えば、普通の人間は、ことばの上に生じる変化は何であれ<みだれ>として受けとるということである。
ところで、みだれという呼びかたには、それに好意を持たない気持ちがあらわれているが、変化をみだれと感じるのはどんな人であろうか。それは年長者が、あるいは社会的上層の者が、上から下を見たときの気持ちである。親から見た子供、教師から見た生徒、文化人から見た非文化人のことばは、いつでも多少はみだれており、逆に、どうも近ごろの親のことばはみだれていて聞くに耐えないと嘆く子供がいるだろうか。
[…]
もっとも人によっては、みだれでない「正しい」変化もあるはずだというだろう。しかしそもそも、ことばにおける正しさは、だれが判断するのだろうか。ラテン語で数字の百のことをケントゥムと言ったが、それは変化によってセントやチェントになった。どちらが正しいのだろうか。フランス語は正しい変化によって成立したが、イタリア語はよこしまな道によってできあがったとは言わないだろう。つまり東京語は正しいがイバラキ語ははずかしいことばであるなどとは言えないだろう。
だから、ちかごろことばがみだれていると言ったり書いたりする人は、それに先だって、「自分のものさしからは」とつけ加えてみるべきであって、決して社会や「美しい」日本語の名においてことばを糾弾してはならない。
[…]
ちかごろは、本気でことばの問題を考えてみたことのない人でさえ、言語は精神の活動と分かちがたく結びついている----などともっともらしい顔をして言うのがはやりになっている。ほんとにそうならば、ものを書いたり、人前でしゃべったりする人は、正しいことばや美しいことばの番人であることをやめて、自由な精神活動のために、まず言語的解放の側に立つべきであろう。美しいことば、力強いことばは、苦労してやっと字引きの中からさがし出して来るものではなく、いじけぬ、きがねのない言語活動の中から生まれてくるのである。
大統領の「統」、地層の「層」などの漢字が20年前より書けるようになっている一方、秋分の「秋」、「本(もと)を正す」の「本」、「五戸(こ)」の「戸」などを書けない小学生が増えていることが27日、財団法人総合初等教育研究所の漢字の読み書き調査で分かった。[…]「赤十字」は五年生の半数近くが「あかじゅうじ」と読む。
[…]
「秋分」は「春分」と間違えた子どもが多く、「しゅうぶん」と「しゅんぶん」が区別されていないことが分かる。こうした音が似ていたり同じだったりすることによって間違っているのが多い字には、「私」を「わたし」と読む▽「半ば」を「中ば」と書く▽「円い形」を「丸い形」と書く--などの例が見られた。