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憲法9条のために

最近届いた、カタログハウス『通販生活』に『憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言』という冊子が添えられていた。
ついさっきまでカタログハウスが作ったものだと勘違いしていたが、これは岩波ブックレットの一冊だった。

多くの人がすでに内容を知っているかもしれないと思いつつも、気に入ったフレーズを記録として留めてておきたい。(太字は引用者)

 中村哲
 中東においては、第二次世界大戦中に、日本の占領など、直接の被害に遭わなかったこともあり、広島・長崎の被害への同情だけでなく、戦後、復興をとげたアジアの国として、日本は一種の憧れの対象でした。また、その後の歴史のなかでも、はぶりのいい国というのはたいてい、戦争をするものだけれど、半世紀にもわたり、経済的な豊かさにもかかわらず、他国に戦争をしかけなかった国、平和の国・日本として、親近感を持たれてきました。
 つまり、実際に、戦争をしない国・日本の人間である、日本人である、ということに守られて仕事ができた、ということが数限りなくあったのです。
 「9条」というものを現地の人は実際には知りません。しかし、現実として、「平和の国・日本」というイメージが浸透していたのは、意識・無意識の別なく、国の方針としての9条の精神、「交戦しない国・日本」が伝わっていたからだと思います。日本人であるから命拾いをした、助けてもらったというのも、9条のおかげだと思っています。
 それが、自衛隊の海外派兵が始まってから、雲行きが怪しくなってきました。日本人だから守られてきたのに、日本人だから命を狙われる、という妙な事態になってきた‥‥。そのうえ9条に手をつけるとなれば、現地の人はいったい、どう思うでしょう。それが現地の人にメッセージとして、どう伝わるか、よくよく考えるべきことです。
 9条を変えて「軍隊を派兵できる普通の国になるべきだ」という論理の、その「普通の国」の意味がよくわかりませんね。そんなことを言うのは、“平和ボケ”した、戦争を知らない人たちの意見なのではないでしょうか。改憲したい、と言う人々は、戦争の実態を、身をもって体験していない人なのではないか、と思いますよ。
     [‥]
 戦争もつきつめれば、外交手段の一つです。9条の主旨はつまり、武力による外交手段を放棄する、というものですね。ということは、武力に頼らない外交手段を、あらゆる手をつくして模索する、という宣言でもあるんです。それをきちんと果たしてきただろうか。それがまず、大きな疑問ですね。

中村さんが中心となって活動しているペシャワール会の活動には注目しつつ、敬意を払ってきた。
中村さんたちは戦争と紛争のさなかでの生活支援活動をしていて、その人が「丸腰の強さ」(引用部分にはない)を主張するのは重いと思う。

“平和ボケ”という言葉は「現実を見て武装しなきゃいかん」と言うための「理想主義派」への攻撃スローガンとして使われることが多かったが、このように反転させてつき返すというやり方に同意したい。
単にレトリック上の違いのようではあるけれども、どの「現実」をこそ見るべきなのかという視点の転換をもたらしてくれる。

 姜尚中
 たとえば9条が存在せずに、集団的自衛権が無条件に行使されていたら、アメリカのイラク戦争に対して日本は協力を拒否できただろうか。
 9条の存在するいまの憲法体制でも派遣せざるを得なかったのです。拒否なんてできるわけがない。
 確かに日本はイラク戦争に自衛隊を派遣した。しかし9条があるおかげで、「非戦闘地域」に派遣するだけですんだわけです。
     [‥]
 憲法「改正」については、このイラク戦争をどう総括するか、ということを議論のベースにするべきでしょう。国民の多くは、9条があるおかげでこれだけですんだ、ということに薄々気づいているのではないでしょうか。

姜さんの提起を僕なりの表現にすると、「9条のおかげで誰か迷惑をこうむりましたか?」ということになる。アメリカが少し迷惑していたかもしれない。
「将来、国民が迷惑をこうむる」というのが改憲派の考え方なのだろうが、「9条を変えると将来、迷惑をこうむる」という可能性の方が高いと考える。

 松本侑子
引用されている、長沼ナイキ訴訟の札幌地方裁判所の判決文(1973年9月7日)を孫引き。日本に自衛権があるとして、それをどのように行使しうるのかという一つの見識である。
 第9条において、いっさいの戦力および軍備をもつことを禁止したとしても、このことは、わが国が、独立の主権国として、その固有の自衛権自体までも放棄したものと解すべきでないことは当然である。
 しかし、自衛権を保有し、これを行使することは、ただちに軍事力による自衛に直結しなければならないものではない。
 すなわち、まず、国家の安全保障(それは究極的には国民各人の生命、身体、財産などその生活の安全を守ることにほかならない)というものは、いうまでもなく、その国の国内の政治、経済、社会の諸問題や、外交、国際情勢といった国際問題と無関係であるはずがなく、むしろ、これらの諸問題の総合的な視野に立ってはじめてその目的を達成できるものである。
 そして、一国の安全保障が確保されるなによりも重要な基礎は、その国民の一人一人が、確固とした平和への決意とともに、国の平和問題を正しく認識、理解し、たえず独善と偏狭を排して近隣諸国の公正と信義を信頼しつつ、社会体制の異同を越えて、これらと友好を保ち、そして、前記した国内、国際諸問題を考慮しながら、安全保障の方法を正しく判断して、国民全体が相協力していくこと以外にありえないことは多言を要しない。

「攻められたら・戦争が起きたらどうする」という風に問題をまず立てる人は、「攻められないように・戦争が起きないようにどうする」という論点を無視しがちであるように見える。
「どうせ武力に頼らざるを得ないのさ」というあきらめ(あるいは期待)の心情は、アメリカのやり方がスタンダードだと無意識のうちに刷り込まれているからではないのか。

 井上ひさし
 1977年には[‥]、ジュネーブ諸条約の追加議定書が作られます。 その追加議定書には、無防備都市をさらに発展させた、無防備地域の考え方が盛り込まれました。ある自治体が「私たちの町にはいっさい兵隊がおりません。軍事施設もありません。私たちの町に戦争に関係のあるものは何もありません。ですから私たちは町を開放します」と、無防備地域であることを宣言した場合、国際条約によって、そこは絶対に攻めてはいけないと決められるわけです。
 この無防備地域の考え方は、日本国憲法の前文および第9条の非武装平和主義にうながされてできたものです。この先、日本のような国にみんななりたいのだけれども、日本のような国がもし攻められたらどうしたらいいかということを、日本人以外の人が一所懸命に考えていたのです。コスタリカや日本などの軍備を持たない、あるいは持たないと憲法で決めている国の生き方が、みんなを励ましているのです。

この条約のことは知らなかった。
アメリカのオーバービーという人が日本の最近の「九条の会」よりずっと以前から「Article 9 Society」の活動を始め、「第9条を地球憲法に」と提唱していることは聞いたことがあった。

いずれにせよ、大きく知られていることではないだろう。

だが、目指すべき方向はどちらなのかということなのだと思う。
「昔ながらの紛争解決手段しかない」と決め付けることはなかろう。

以前紹介した北野幸伯さんの言葉----「例えばアメリカが100年前、イラクを植民地化しようと企てたと仮定します。/その場合、大統領は、「アメリカの国益上イラクの石油は絶対必要だ!」と本音を言えばそれでよかったでしょう。/今のように、「大量破壊兵器がどうのこうの」「国際テロとの関係がどうのこうの」と嘘をつく必要などなかった。/つまり今は、嘘をつかなければ、戦争を始められない状況になっているということ。/これは、(戦争はなくなっていないが)良いことでしょう?」

つまり、人類全体としては「殺すな」という方向に進んできたという「現実」がある。
その「現実」を踏まえた方向に希望を見たっていいじゃないか。

 渡辺えり子
 いま津波でたくさんの人が亡くなったり、凶悪な犯罪で人が殺されたりしている。そのことに対してこれだけ親身になることのできる人たちが、どうして戦争の人殺しだけ許すのか‥‥。戦争を認めたら人を殺してもいいってことになってしまいますよね。
     [‥]
 私が今言っているのは、反戦活動家じゃなくたって誰でも思う普通のことですよ。
 それを大声で言えなくなってしまっている今の日本は異常だと思います。こういうことを言うと仕事がなくなる、と自粛しなくてはいけない。すでに戦前のニオイがするでしょ?

こういう「普通のこと」に対して、戦争準備こそが「普通のこと」なのだという対立がある。

ひとつ明らかなのは、いま国家によって弾圧されているのが「殺すな」という側の「普通のこと」だということだ。
渡辺さんのように「自粛」しなければならなかったり、立川反戦ビラ事件のように「反戦」を訴えると逮捕されるという状況が続くことからして、どちらが国家にとって都合のいい「普通」感覚であるかは明らかだ。

他方で映画『男たちの大和』の俳優への記者会見で「家族を守るためなら戦争に行きますよ」という発言は「男らしい」と称揚される。

ナイキ訴訟判決文にあったように、「国家の安全保障」は「究極的には国民各人の生命、身体、財産などその生活の安全を守ることにほかならない」。
だとしたら、<生命を守るために生命を犠牲にしなければいけない>という転倒した状況をいかに回避するか。

戦争によって利益を得る少数の者たちが「国家」の名によってそういう転倒をつくりだすのだという構造が暴かれなければならないだろう。
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いまは12月5日(水)の18時35分。実は昨夜の21時、2ページの原稿を何とか片付けたので、しばしの開放感を味わっているところだ。しかし、このブログのストック原稿がなかなか貯まらない。前回の11月2日(日)がストックの格好のチャンスだったのだが、アホな佐渡屋太郎
前回の原稿に関する落とし前 【佐渡屋太郎-vol.31】 | 遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』 | 2007/12/07 10:51 AM