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戦場への想像力とメディア (1)

元アメリカ海兵隊員 アレン・ネルソンの講演を記録したブックレット『そのとき、赤ん坊が私の手の中に--みんな、聞いてくれ これが軍隊だ』を読んだ。「稚内 憲法を学ぶ会」の設立総会のときに手に入れたものだ。
このブックレットは安斎育郎が代表をしている「憲法九条・メッセージ・プロジェクト」(k-9mp)が発行しているもので、市販はしていない模様。ページ左端のメニューに「リーフレット・ブックレット・現代の万葉集等ご注文申し込み」というのがあるので、そこから注文することができる。

アレンは例えばこう問いかける。
射撃訓練は、最初は同心円状の標的(「牛の目」というのだそうだ)の真ん中を狙えと教えられる。その次は人の形をした標的で訓練するのだが、この人型のどこを狙えと言われるか?
頭ではない -- 体のなかで一番小さい部分だから失敗しやすい。
脚でもない --「殺す」ために撃つのだからそこではない。
心臓でもない -- 体の隅は撃ち損じやすいし、即死させる必要もない。

 ではどこを狙えというのか?「ここ(男性の股間)、急所を狙え!」と教えています。
 さきほど「グルーピング」といいましたが、下腹部に命中する弾は一発ではありません。五発も六発も集中します。このような負傷では、即死することはありません。私の戦友たち、いずれも十八、十九の若者で、こういう負傷のあげく死んでいくのを、この目で見てきました。激痛のなかで、何時間も泣きわめいて、やっと死んでいくのです。


知らなかった。いかに間違いなく殺すか、ということからするとそういうことになるのか。
アレンは、軍隊というのが「殺す」ということにいかに特化した組織であるのかを強調する。そこでは自分で考えることは許されず、ただ命令に従うだけの存在として鍛えられる。「お前たちの仕事はなんだ?」「kill!」とありったけの声で叫ばされるような日常。
毎日「殺し」という暴力を仕込まれているのだから、その兵士たちが街に繰りだすとき、暴力性だけを基地に残しておくというわけにはいかない、という。だから沖縄などで度重なる米兵による不祥事は起こるべくして起こるのだ、と。

そうして、さらに戦場のリアリティについて。

 この腐乱死体の臭いのすさまじさといったら、思わず胃のなかの物がこみあげてきて、ゲロを吐いてしまいます。目に涙がたまる。鼻汁が垂れる。全身の力が抜けてしまうような強烈さです。この臭いは、私は未だに忘れることができません。これが私にとっての、戦争の臭いです。
 映画のなかにも、『プラトゥーン』『プライベート・ライアン』など名画といわれるものがありますが、名画といえども「リアルである、本物だ」とはいえません。
 そこには、決定的に臭いが欠けています。みなさんは映画館にいくと、キャンデーを食べたり、ジュースを飲んだりして映画を鑑賞しますが、もし、戦場の臭いを伝える映画ができたら、「二度と戦争映画はゴメンだ」といって、映画館に足を運ばなくなるでしょう。*
 戦争の臭いとは、死体の腐る臭い、死体の燃える臭い、血の臭い、そして弾薬・硝煙の臭いです。

*香りつきの映画というのは実際に試みられているから技術的には「臭いつき戦争映画」も可能なはずだが、確かに実現はしないだろう。

阪神淡路大震災の被災者から聞いて印象に残っていることの一つは、「一番印象に残っている記憶は、“臭い”なんです」という話だった。そのときの衝撃とか喪失感とか不安とかは“臭い”の記憶と切り離せない、そういう経験だったということだろう。
文字情報や視覚情報に頼ってものごとを経験することに慣れ親しんでしまっている僕たちはそれで「分かった」つもりになりがちだけれども、もちろんそれが十全な経験であるとは言い難い。「だからどうせわかりっこない」とあきらめたり文字情報や視覚情報を軽んじていいというのではなく、それが制限された経験だという自覚は必要だろうということだ。その上で、想像力を働かせなければならない。

写真誌『DAYS JAPAN』の編集長、広河隆一は「戦場を見ずに、戦争を必要悪だと言うな」と題したインタビュー(マガジン9条・この人に聞きたい)で次のように言う。

 実際の戦争というのは、一人の人間の体がずたずたにされて腐乱していく。その光景を見たら、一生逃れられないくらいのショックがあるのです。
 だから僕から言わせたら、それを必要悪として是にするなんていうのは、当然成り立ちませんよ。それは見ればすぐにわかること。1人の人間がそのようにして無惨に殺された光景を見ただけでそれだけのショックを受けます。ましてや何千人、何万人という人がそうやって殺されていくというなんていうのは、許されるはずがない。
 だから僕らは目をそらさずにその事実を見なければいけない。
 本当の戦争のことを知らない人が、戦争は必要悪だと言ったって、そんなものは通るはずがありません。

 やはり戦争というのは人間の体が吹き飛ばされて、焼け、目鼻が外れ、腐乱し、髪の毛がバーッと壁にへばりついて、人間のどこの部分なんだろうというような肉片が転がって……、そういうことなんです。人間の体が真っ二つになるというのは、ほんとに恐ろしい光景です。おとなだけでない。小さな男の子や女の子までも。それが戦争です。

 誰だって、自分たちはこういう状況だから殺されても仕方ないんだって思う人はひとりもいないのです。自分の娘の顔が半分に割れて壁に付着しても仕方のないことだと思う人なんかいないですよ。そこを見なければならない。目をそらさずに。


ここで「戦場を見る」というのは、さまざまな情報から自分なりに戦場の経験を組み立てなければいけないということだろう。しかも、自分の生活がそういう状況に陥ったら、自分の親しい人がそういう目にあったら、と自分の問題として引き受けながら。

授業で「戦場への想像力が奪われてがちだ」という話をした際、マスメディアには出てこないような写真の掲載されているWebページのことを紹介したら、「被害者の写真なんて見なくてもいい。“何人死んだ”でわかる。戦争の悲惨さを一方的に伝えるようなのは偏っている。」という反発を受けたことがある。
「“何人死んだ”でわかる」という「わかり方」で十分だとする感性。そして彼/彼女にとって、報道や教育における「公正・中立」とは“何人死んだ”かのみを伝えることであって、生や死の具体的な現実は余計な修飾なのだ。こうして、「必要悪だ」とか「理想じゃなく現実を見なきゃ」といった“現実主義的”なもの言いは戦場の“現実”を切り捨てることによって成立する。
おそらくそれは彼/彼女が独自につくり出した世界認識の方法なのではなく、そのようにメディアが世界を構成してみせているからだ。パワー・ポリティクスないしパワー・ゲームという「現実」が強調されて戦争の必要性・必然性が語られ、戦場は戦略や軍事技術をやりとりするゲームのボードのようだ。

つまり、「戦場」の現実を見なくても「戦争」を理解できるかのようにマスメディアは伝える

それは、現実のマスメディアの宿命なのだろうか?
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