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雑学と教養

道新2005年1月5日「「教養」は再構築できるか---「雑学」を振りかざす専門家」より。
 間違えている人が多いけれど、「雑学」と「教養」は違う。いずれも基礎となるのが情報であることに変わりはないけれども、情報の処理の仕方が「雑学」と「教養」では違う。
 「雑学」とは「どんな知識や情報を所有しているか」が問われる「事実の問題」であり、「教養」とは自分が所有している知識や情報は「どうすれば人の役に立つか」を自らに問う「遂行の問題」である。
  […]
 教養の再構築とは、別に新たに何かの知識や技術を身につけることではない。そうではなくて、自分の持っている知識や技術が「他の人たち」にとって何の意味をもつのかと自問する習慣をもつこと、ただそれだけのことである。そう問う習慣を持つ人を私は「教養人」と見なしたいと思う。

僕自身もこんなことを以前書いた。(http://www.wakhok.ac.jp/%7Esaitoh/mado)
「教養とは知識そのものの量や質の問題であるよりもむしろ、知識の使い方にかかわる。何かと知識を披露したがる人を思い浮かべてみてほしい。特に話しの筋と関係ないところで割り込んであれこれと述べ立てる人。「教養がある人」どころか、単なる「イヤなやつ」でしかないだろう。「私は他者よりも優れているのだ」ということを示すための知識は、教養とは関係がないのだ。また、その知識が専門的で難解なものであるほど教養が深いというものでもない。教養とはアカデミックな文章や試験の答案で試されるのではなく、生き方、日常の生活の仕方、いちいちのコミュニケーションの場で試され、かつ鍛えられるのである。[…] 教養とはそのように知識を組織する力であり、またそれを実践の中に生かしていく力である。ふたつに分けてみれば、「自分で考える能力」とそれを「自分の行動に生かす能力」この両者を統合するものが教養なのだと言える。特に後者に注目してみると、いくら高級な思想を語っていても、その言っていることとやっていることとが大きく隔たっているような人を教養人とは呼べない。だから言い換えると、知識がその人の生き方や振舞いに深くかかわっている様子を、教養というのだ。知識それ自体は、教養ではない。」

ニュアンスは少々違うけれども、仲間を見つけたようでうれしい。
じゃあおまえにその「教養」とやらはあるのかい? と問われたら自信なんて全然ないんだけれども。

この人の『死と身体---コミュニケ−ションの磁場』(医学書院)は手に入れないと。こんな内容だそうだ。
 「コミュニケーションは<ことば>の外にある。病んだ人の前に立つとすぐわかる。身体の声が聞こえるから。ときには死者でさえも語りかけてくるから――。「誰もが感じていて,誰も言わなかったことを,誰にでもわかるように語る」著者の,教科書には絶対出ていないコミュニケーション論。」
うーん、気になる。
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