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“ひとりじめ”は寂しい

かわもと文庫(http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/index.htm)「世相百断」第62話 <青色発光ダイオード裁判雑感>より。
 もともと中村氏は、会社を辞めるつもりも、会社を訴えるつもりもなかった。『僕が会社を訴えたわけ』(NE ONLINE「中村修二氏裁判速報」所収)によると、1979年に徳島大学大学院の修士課程を修了した中村氏は、就職時すでに学生結婚して子供もおり、「仕事で家庭を犠牲にしたくない」との思いから「妻の地元の徳島県にある日亜化学工業」に就職し、20年間勤めつづけた。

 その日亜化学工業をなぜ飛び出したかといえば、業績を正当に評価されず、冷遇されつづけて未来に希望をもてなくなったからだ。『僕が会社を訴えたわけ』によると、化合物半導体であるGaP(ガリウムリン)やGaAs(ガリウムヒ素)の製造を手掛け、それなりに開発の成果を上げても、大手企業のブランド力に負けて売上が上がらなければ社内では評価されない。揚句に「穀潰し」とみなされ、冷遇され、「どうせ辞めさせられるのなら自発的に辞表を書くのではなく、日亜が自分を解雇するまで、開発すべき新製品を自分で選択し、それを自ら単独で開発研究してみよう」と思いつめるまでになり、「上司などの了解もないまま、窒化物系青色発光半導体を開発することを自ら一人で決定し、実行」する。

 これが青色発光ダイオードの発明として実を結ぶのだが、もちろん会社から充分な開発費は支給されず、大学院時代に実験装置を手造りした経験を頼りに、社内会議にも電話にも出ないというきわめて異常な状態の中で開発がつづけられたらしい。そしてついには「窒化物系青色発光半導体素子の開発」に強く反対していた社長名で開発中止の命令が下される。「首を切られてもいい」という覚悟のもとに、こうした度重なる社長の実験中止命令も無視する異常な状況の中で、ついに中村氏の開発は1993年11月に青色LEDの製品化に結びつく。

 この異常な経緯が東京地裁をして「個人的能力と独創的発想で産業界待望の世界的発明を成し遂げた全く稀有(けう)な事例」と認めさせ、「教授の貢献度は少なくとも50%を下回らない」と判断させた。

 だから特許権譲渡の対価200億円も貢献度50%も、今後の同様訴訟に適用されるわけではない。

 さらにいえば、日亜化学工業を退社し、アメリカに渡ってからも、中村氏は同社を訴えるつもりはなかったという。『僕が会社を訴えたわけ』によると、同社が中村氏を企業機密漏洩で訴えることがわかって、「日亜化学は私をまるで犯罪人扱いしていましたから。訴えられるまでは、こちらから訴えてやろうなんて思ってもいませんでした」という事態に発展したらしい。

 この経緯に間違いなければ、判決に対して日亜化学工業が発表した「本件原告のように、ノーリスクで終身雇用或いは安定収入という企業の中にあって、巨額のリスク負担をした企業に破天荒とも言える巨額の成功報酬を請求することは、安定収入と巨額のリスク報酬の二重取りを求めるものであって理論上許されない」という主張は成り立たなくなる。同社は青色発光ダイオードの開発に何らリスクといえるものを負っていない。むしろ冷遇しつづけてきた社員の発明の成果を不当に独り占めしている。

『とくダネ!』でコメンテーターが「利益に結びつかないような多くの研究も抱えるというリスクを企業は負っている。リスクを負ってこそのリターンだということからすると、中村さんが個人的にどれだけリスクを抱えていたのかという疑問がある」というような発言をしていた。聞いていて、そのように考えればいいのかなーと漠然と思っていた。
でも事情は違ったようだ。
日亜化学工業は何らリスクを負っていなかった(というか、邪魔した)し、しかも会社を移ると機密漏洩で訴えようとさえしたという。中村さんの怒りをある程度理解できたように思う。「滅私奉公」という中村さんの発言の意味も具体的に知ることができた。
マスメディアは知ってた上で報じなかったのだろうか。
『とくダネ!』とは別だったかもしれないが、「中村さんが怒っているのは司法に対してなんだ。裁判長が準備書面を読まないまま判断を下すなんてのは珍しいことじゃないのだから」というコメントもあった。中村さんの「日本の司法は腐ってる」みたいな発言を指してのことだけれど、それが本質的な問題なのではなさそうだ。

ただ、中村さんの「アメリカはすばらしい」「自由競争はすばらしい」みたいなことばには違和感を覚える。優勝劣敗で“勝ち組”と“負け組”に二分されるような社会が魅力的なものだとは思えないから。
<企業が栄える>のか<個人が栄える>のかっていう二者択一しかないように見えること自体がきっと問題なんじゃないかな。

少しは関係してそうな気がするので、糸井重里『インターネット的』(PHP、2001年)p.25-26より。
 自分ひとりだけでできる趣味や快楽なんてものは、ほんとはあんまりありません。他人からは、いかにも孤独そうな趣味に思えても、ほんとに孤独に満足できることなど、ほとんどないでしょう。
 たとえば、模型飛行機の趣味を持っている人々にしても、ひとりでつくってひとりで眺めているだけでは、面白くありませんから、集まって、見せあったり飛ばしたり競技したりします。個人のつくったもの、個人の力を、みんなで分けあって楽しむというシェア(おすそわけ)は、クラブ活動などで、みんな体験してきたはずです。料理なんかでも、ひとりで黙々と食べて、“ぜんぶ、独占してやる!”というよりは、“ねえ、食べてごらんよ”というほうが、より楽しくておいしいでしょう。“いや、誰にもやらん!”という人がいてもかまいませんけれど、ね。分けあうということは、なぜかは知らねど、楽しい、と。その「シェア」というよろこびの感覚が、インターネット的なのです。
 インターネット的という考えからしたら、たとえば企業が市場を“独占する”ということなどは、ちっともカッコ良くないのですね。誰も、うれしくない。誰もうれしくない、ということを推し進める企業が、市場の主役である人々から嫌われていくであろうことは、これからの社会の動向を見ていかなければ結論づけられないとは思うのですが、予感的には、ぼくはそうなっていくだろうと考えています。

確かにオープンソースとかフリーソフトとか、一緒につくったりおすそわけしたりするという振舞い方はインターネットをひとつの場として広まり始めているように見える。インターネットじゃなくても地域通貨なんてのもこの流れに含めていいかもしれない。
歴史的にはどういうことなんだろう。
私的所有が成熟してシェアへ、ということなのかな。それとも私的所有への「抵抗」にとどまるのか。

いずれにせよ、“ひとりじめ”より“おすそわけ”の方がすてきだと思う。
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私もこの和解ってなんか変だなと思ってたんです。 だって、普通和解の内容をわざわざ高裁が発表するなんて異常です。何のための和解かといえばそういった内容をウヤムヤにするための和解でしょう。内容を発表したら和解の意味がない。 ってことは、高裁の現場ではそう
【日亜青色LED】高裁の和解は変だよ | ニコラテスラって素晴らしい | 2005/11/19 11:07 AM