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ことばの“みだれ”

道新2004年7月30日「“誤用”広がる慣用句」からほぼ全文。
 「檄を飛ばす」「姑息」「憮然」について、70%前後の人が本来の意味とは異なる意味で理解していることが29日、文化庁の日本語に関する世論調査で分かった。本来の表現ではない「的を得る」「押しも押されぬ」を誤って使っている人も半数を超え、慣用句などの誤用が広がっている。
 既に一部の辞書は、本来とは違う意味も掲載しており、文化庁は「違う意味や表現が定着しつつあるのかどうか注目したい」としている。[…]
 語句の意味の理解では、「檄を飛ばす」について、本来の「自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めること」とした人は15%にとどまり、「元気のない者に刺激を与えて活気付けること」が74%に達した。
 「姑息」を本来の意味の「一時しのぎ」と答えたのは13%。70%が「ひきょうな」を選んだ。
 「憮然」も「腹を立てている様子」が69%に達し「失望してぼんやりとしている様子」という正答は16%。
 「話のさわりを聞かせる」と使う「さわり」は、本来の「話などの要点のこと」は31%。「最初の部分のこと」が59%だった。
 「物事の肝心な点を確実にとらえること」の意味で使う慣用句を選ばせる設問で、正解の「的を射る」は39%。「的を得る」が54%に達した。両方の表現とも使わない人は全体の2%だが、十代は12%に上り、若い世代では慣用句自体を使わない人が増えている。
 「実力があって堂々としていること」を意味する慣用句として「押しも押されもせぬ」を正答したのは37%で、「押しも押されぬ」との誤用が51%だった。

 文化庁の日本語世論調査で日常の言葉遣いを調べたところ「なにげなく」の代わりに「なにげに」を使う人は、1996年度の調査で十人に一人だったのに、今回は四人に一人の割合に増えた。年齢差を示す「一コ(いっこ)上」を使う人も過半数となり、若者言葉が徐々にほかの世代にも浸透してきていることを示した。
 「なにげに」を使う人は全体の24%で、同じ設問で尋ねた96年度の9%から倍以上に増えた。20代までは60%以上、30代でも42%だが、50代と60歳以上は8%にとどまっている。
 「一コ上」を使う人は96年度より9ポイント増え51%。30代までは80%以上で40代も63%、50代は39%だった。
 「腹が立つ」を「むかつく」は全体の48%が使い、20代までは90%以上。「とても…」を「チョー…」と言うのは全体の21%だが、20代までに限ると50%を超えた。
 「寝る前に歯を磨きます」を「歯を磨くじゃないですか」と言うのは全体の19%。20代までは40%以上で30代も35%だったが50代以上は一けた。自分のことを言うのに同意を求めるような表現は適切でないという抵抗感が強いようだ。
 「すごく速い」を「すごい速い」と言うのは46%。60代以上も34%と抵抗感が薄れている。文化庁はこの用法は江戸時代にもみられた現象とし「現代の文法では誤用だが歴史的には間違いとは言えない」とする。
 「とても明るい」を「全然明るい」と表現するのは21%。「全然」は本来、否定と結び付くが、文化庁によると、夏目漱石らが肯定の用法として使った例もあるという。

これにも少々ドキッとした。
特に慣用句に関しては、ここで披瀝するのが恥ずかしいような思い違いがいくつかあった。

こういう事態を憂える論調は珍しくないだろう。
例えば道新2004年12月26日<現代を解く>佐伯啓思「思想養う土台の危機---国語力の崩壊は何を示すか」より。
 若者の国語力が低下しているそうだ。確かに、町を歩いていても、「チョー ムカツク」「マジで?」「めっちゃ うれしい」「…みたいな」といった断片的な言葉が飛び交っている。
 「メディア教育開発センター」の調査によると、大学生のうち、中学生レベルの国語力しかもたないものが国立大で6%、私立大で20%であり、高1、高2レベルが、国立大で23%、私立で37%だという。国立でいえばほぼ三人に一人が、私立でいえば半分以上が高2レベルだということになる。
 「憂える」を「喜ぶ」と同じ意味だと思っていたものが約67%おり、この意味を正確に知っていたものはいなかった、という。同調査によると、留学生のほうが平均して優れた日本語能力をもっているケースがかなりみられる、という。

佐伯氏はこのあと「他人にきちんと意思を伝えようとする力」そのものの衰退を嘆き、「思想の基盤としての国語力」の回復を訴える。

ことばへの知識はそれはそれで豊かになった方がいいのだろうけれども、ここで考えたいのは<正しいことばづかい>というものを想定することの意味である。

田中克彦(『ことばの差別』農文協、1980年)はこんな風に言う。
原著傍点部分は<>で示した。
 ことばのいちじるしい特徴は、それが変化するという点にあるのだが、ことばにはげしい非難が投げつけられるのもまた、この同じ変化するという性質にむかってである。ことばの<変化>は、まず最初はことばの<みだれ>としてあらわれる。より正確に言えば、普通の人間は、ことばの上に生じる変化は何であれ<みだれ>として受けとるということである。
 ところで、みだれという呼びかたには、それに好意を持たない気持ちがあらわれているが、変化をみだれと感じるのはどんな人であろうか。それは年長者が、あるいは社会的上層の者が、上から下を見たときの気持ちである。親から見た子供、教師から見た生徒、文化人から見た非文化人のことばは、いつでも多少はみだれており、逆に、どうも近ごろの親のことばはみだれていて聞くに耐えないと嘆く子供がいるだろうか。
  […]
 もっとも人によっては、みだれでない「正しい」変化もあるはずだというだろう。しかしそもそも、ことばにおける正しさは、だれが判断するのだろうか。ラテン語で数字の百のことをケントゥムと言ったが、それは変化によってセントやチェントになった。どちらが正しいのだろうか。フランス語は正しい変化によって成立したが、イタリア語はよこしまな道によってできあがったとは言わないだろう。つまり東京語は正しいがイバラキ語ははずかしいことばであるなどとは言えないだろう。
 だから、ちかごろことばがみだれていると言ったり書いたりする人は、それに先だって、「自分のものさしからは」とつけ加えてみるべきであって、決して社会や「美しい」日本語の名においてことばを糾弾してはならない。
  […]
 ちかごろは、本気でことばの問題を考えてみたことのない人でさえ、言語は精神の活動と分かちがたく結びついている----などともっともらしい顔をして言うのがはやりになっている。ほんとにそうならば、ものを書いたり、人前でしゃべったりする人は、正しいことばや美しいことばの番人であることをやめて、自由な精神活動のために、まず言語的解放の側に立つべきであろう。美しいことば、力強いことばは、苦労してやっと字引きの中からさがし出して来るものではなく、いじけぬ、きがねのない言語活動の中から生まれてくるのである。

最後の一文が好き。

もし僕が「チョー」とか「なにげに」とか自然に言い出すとしたら、それはきっとそうした言語表現が自分の精神活動にふさわしいと感じたときだろう。
現在それを使っている人は、それが自分の感覚を正しく表現するからこそ選んでいるのだ。誰かの指示する<正しい>ことばが自らの生き生きした感覚にそぐわないならば無理して使う必要はない。
多くの論者が言うように、「腹が立つ」のでも「頭に来る」のでもなく「むかつく」のはその感情を抱く“からだ”がそのように反応しているからだろう。胸につかえているのだ。
「全然明るい」だって、「全然心配ないよ」という相手への配慮の気分がそう言わせているのではないか。

実は僕自身に<正しいことば>を志向する気分はある。
他方で、無味乾燥でない<生き生きしたことば>へのあこがれも強い。
いちいちの実践で折り合いをつけていくしかないのだと思う。
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