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臆病の蔓延

『OK?ひきこもりOK!』より(p.45)。(以下太字は引用者)
彼らは、どこかにいるはずの完璧な理解者を求めているんです。[…]自分を100%理解してくれる理想の相手がどこかにいて、その人とはコミュニケーションしたい。逆に言えば、自分をわかってくれない相手は、すべてシャットアウト。コミュニケーションへの憧れが強すぎるあまり、見かけ上はどんどん自閉的になるという逆説が、ここにあるわけです。

斎藤環氏によるひきこもりの「彼ら」についての見方だ。
「それはかわいそうな人たちだ」
と哀れんでいられるだろうか?

人間関係に臆病なのは彼らだけではないだろう。

小沢牧子『「心の専門家」はいらない』(洋泉社、2002年)には次のような記述がある(p.36-37)
 「心の専門家」待望の背景には、人間の関係に渇望しながらそれをおそれる人びとの心情が渦巻いている。[…]
 安心できる何かに頼りたいという心もとなさが、「心の専門性」をうたう権威への依存心を強めている[…]できることなら日常の関係のなかで安心したいがそれは叶えられないと、人びとはあきらめているかのようである。人との直接的関係をおそれる気分は、あらゆる年代に共通していると感じられる。臆病の蔓延である。大学生たちの場合、その背景は次のように語られる。
 まず、幼いころからおとなたちに絶えず評価のまなざしで見られてきたと感じていることである。「わたしは親にずっと否定されてきたと感じている。いつも、もっと頑張れと言われ、これでいいと認められることがなかった。自分をともかく肯定してもらいたい。それをカウンセリングに求めるのだ」「わたしたちはずっと、親や教師にいつも評価のまなざしで見られ、いわば値踏みされてきた。そして自分も他人をそのまなざしで見るようになっている。おたがいを値踏みしあう、それがわたしたちの日常の人間関係なのだ」などに、その心情が表現されている。個人=自分が強く意識させられる情報・消費社会のなかで、他から認められたいという欲求はエスカレートするが、意に相違して、おとなたちは子どもを認めない。まだまだ、もっと頑張れの言葉がふりそそぐ。子ども・若者にしばしば使われる「傷つく」という言葉も、この事態に関係しているのであろう。

<寂しいけど深入りしたくない>
<人間関係は苦手だけど友だちはほしい>
<傷つきたくないけど理解されたい>
という気分についてはいろいろなところで論じられている。
この種の問題について僕が最初に目にしたのは大平健『豊かさの精神病理』(岩波書店、1990年)だったと思う。
「モノ語り」をキーワードにして、ブランドもので身を固める=身を守るなどのふるまいの背後にある対人関係の変化を読み解こうとしていた。
対人関係上の葛藤について、葛藤を避けるふるまいを身に付けているがゆえに親しい人にも相談できない。深入りすることでお互いが傷つくかもしれないから。
葛藤を避けるからこそ成り立っている“親しさ”なのだから、そこに葛藤を持ち込むようなことはできない。
だから、“第三者”であるクールな立場の精神科医に相談して判断をゆだねる…
小沢氏の言う「心の専門家への依存」が生まれるのに似た構図が描かれていた。

『豊かさの精神病理』は15年前に出版されたものだから、問題は「いまどきの若者」に特有のものではすでにないだろう。
“臆病”は再生産されつつ蔓延しているということになるのではないか。
(余談:僕は共通一次第一世代だが、70年代の終わりから大学で心理学の人気が高まっていた。関係はありやなしや。そういえば、ブランドを軽やかに消費する『なんとなく、クリスタル』の世界もそのころから顕在化したのだったか? 「熱い議論」や「まじめな話題」が疎んじられはじめたのもそのころかもしれない。)

ひきこもりがその“臆病”のひとつの形であって社会への適応の一種だと考えれば、ひきこもってない人がひきこもっていないのは偶然のたまものだと言うこともできよう。
「一般人」--運よく殺人者にも、強姦者にも、またロリコンにも被強姦者にもまた拒食症にも過食症にもならなかった人々は、そうした「異常」の部分をつねに、社会からの逸脱、そのような異常を犯した個体自体の異常性に原因を帰して考えたがる。そのことで「自分は正常である」という安心感を得、それによって「自分は適応している」ということを確かめたいからである。(中島梓『コミュニケーション不全症候群』筑摩書房、1991年)

誰もが殺人者や強姦者やロリコンetc.になり得た。でもそのことより、抱えている問題は同質のものであり得るということに注意を喚起したい。

すると次の問題はその「同質の問題」がどのように生じるのかということになる。
大学生の声として紹介されていた「自分を肯定してもらいたい」「値踏みされたくない」という意識をヒントにすれば、<本音を聞いてもらえる=存在を肯定して受容してもらえる>経験の欠如はどのようにして起きてきたのかということに言い換えられるだろうか。
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