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虐待「不安」の増加

<臆病の蔓延>に出てきた『「心の専門家」はいらない』の中に児童虐待についての記述がある。
<「民事不介入」と児童虐待>のつづきとして。しかし違う観点から。「誰のせいで問題が顕在化しなかったのか」ではなく、そもそもどういう状況を背景にして虐待が起こるのか、あるいは問題化されるのかということだ。
 叩いてしまったり抱きしめたり、怒鳴ったり甘やかしたり。子どもに一貫した態度など取れないものだ。折檻をすれば誰かが仲裁してくれたり、子どもが誰かのところへ逃げていったり。そんな具合に日が過ぎて、子どもは大きくなっていく。いろいろな親があり、子にとって迷惑な親でもそれは如何ともしがたく、ただ関係が閉ざされてさえいなければ、大概のことは折り合いがついていく。親子の関係はいつの時代も、そんなものであったろう。
 ただし、関係が閉ざされていなければ、という一語が重要だ。虐待の場は、きまって閉ざされている。声を掛けていく人、おせっかいを焼く人がいなくなり、おたがいが無関心になれば、虐待は増えていく。人の関係がどこでも閉ざされていくこと自体にわたしたちが危機感を持たなければ、この状況を変え始めることはできない。
 ところが、事態は別の方向に進んでいる。人びとがつながりやすい条件の援助ではなく、専門家と行政による対応の充実の方向である。人びとは気になることがあると、その家族に直接声をかけずに、行政に通報するようになった。
[…]
 「最近は虐待する親が増えてきた」と報道されるが、必ずしもそれだけではない。虐待にスポットを当てて行政と専門家が対応する件数が増えているのである。(p49-50)

行政や専門家に頼るということはそれ以外の関係に頼らずに済ますということであり、虐待の原因である「閉ざされた関係」をますます強化あるいは免罪するという構造になっているということのようだ。

かと言って現実の「閉ざされた関係」自体が変わるのを待ってから虐待問題に取り組みましょう、というわけにもいくまい。その間に子どもはますます傷つけられたり殺されたりしてしまうだろうから。社会的な原因を解消することにはならなくとも、当の親子の困難には対症療法的な行政や専門家の介入が必要な社会になっているということだろう。

だがマスコミのはたらきも加わって、本来なら“必要のない”介入を産み出しうるという。
 相談現場から語られる疑念をその記述(戸垣香苗・瀬川三枝子「児童相談所から見えてきたこと」『社会臨床雑誌』第9巻1号--引用者)からいくつか引かせてもらうことにしたい。
 第一に、マスコミに煽られた虐待不安が作られ、広がっているのではないかということだ。「2000年11月に虐待防止法が施行されてから、『虐待してしまうかもしれない』という不安を訴えてくる親が多くなっている。この間のマスコミ報道が、育児不安を煽っているのではないかと思う。虐待への不安をさらに一歩進めて、『子どもが嫌いだから虐待しそう、だから他の人に育ててほしい』という話が持ち込まれてくる。マスコミ報道に付随して心理学が送り込んでくる知識をどう崩していくのかが大変」。専門性をちりばめたマスコミ報道にひきずられる社会が、この現象を作り出している面がある。実際、わたしのところにも、知り合いの若い母親から個人的に虐待不安の声が届いてくる昨今だ。アダルトチルドレンや親からの暴力の再生産などの心理学情報も、そこに絡まっていることが多い。(p.50-51)

「マスコミが無視してきた」ことよりも「マスコミが問題化した」ことの問題性を指摘している。
“ことば”が与えられることによってその存在が明示化され、それまで気づかれなかった差別や抑圧に光があてられるようになるということはとりあえず「良い」ことのように感じられるだろう。
「セクハラ」とか「DV」とか、抑圧構造の中で「そんなもの」と見なされていた事態が実は問題があるものだとして発見された。

だが他方で、それが育児に対するよけいな「不安」を広げるという効果をももたらしているのだとすれば、相談件数の急増は必ずしも虐待そのものの急増を反映するものではないということになる。
一般に、事件数にせよ相談件数にせよ、統計的な増加現象が (1)事実が増えた (2)認識が増えた に加えて (3)意味が拡大した ということを意味する可能性がありそうだ。このことには注意しなければならないと思う。

「セクハラ」という“ことば”についてもこのことが言えそうで、「セクハラだ」と言えばなんでもセクハラなのかブログ--現役一橋大学生が卒論で考える、セクハラと表現の自由。私たちに「下ネタを喋る自由」はないのか? で問題にされているように、差別や抑圧の構造がないところにも拡大適用されて糾弾の根拠になるということが起こりえる。
(ある団体が、冬のソナタをパロディ化したミュージカルを始めた。
パク・ヨンハ役が言う。「君は、チェを傷物にしてしまった」
ペ・ヨンジュン役は答えて「傷物・・・、何のことだい?」
するとチェ・ジウ役が現れる。「あなた(注・ペのこと)への思いが私の中で大きくなりすぎて・・・私の中で大きく・・・、ていうかあんた大きすぎ、大きすぎだよ、羽賀研二だよ、ハガケン、ハガケン、サガケン!」
---これがセクハラだとされて電源を切られて公演中止に至った。誰を傷つけたんだろう?)


だから「大騒ぎするな、たいした問題ではない」ということではない。実際の虐待と、虐待(してしまう)かもしれないという不安とは区別しつつ、両者を生み出す社会的根拠のところを対象に据えなければいけないということだろう。

次の問題。
 第二に、行政や専門性が上に立って親を判定する構図が進行していることだ。「虐待の防止マニュアルがあって、親子関係でピックアップしたものが項目に当てはまれば虐待になる。客観的にやっているように思えるが逆にこわい。親の知らないところで虐待になってしまう」。[…]
 親子の関係は戸垣の言うとおり、「この親にこの子あり」のそれぞれの世界で、比べる問題ではない。親の姿も複雑だ。チェックリストで描けるほど、人間は単純ではない。[…]マスコミ報道だけで「鬼のような親像」をわたしたちは勝手に思い描き勝ちだが、それは観客席のひとりよがりなのだと思う。(p.51-53)

マニュアル化と上からの判断によって個別性と自律性が見失われる。
第三者が判断を加える以上、ある程度のマニュアル化は仕方のないことのようにも思える。そのせいで実態を正確に把握できないとすれば、それは第三者に判断をゆだねること自体がはらむ問題だろう。

親はなぜ判断をゆだねようとするのか。
 戸垣と瀬川が語る問題の第三点目は、大人が子どもにつきあえなくなっている現実だ。行政や専門家が「正しい」規準で対応しようとすれば、親自身はそこにまかせて、ごたごたした苦労から手を引こうとする。「妻が子どもにつらく当たる、虐待ではないか、と相談を仰ぎにくる父親がいた。自分が体を張るのではなく人にやってもらって責任のがれをしたいのだと思う。[…]親がもう子どものトラブルにつきあうのがしんどいらしい、いや面倒くさいのかもしれない。何しろ傷つくことは、大人のほうが怖いのだ。取り返しのつかないように感じ、怯えているとしか思えない」。
 […]日常の生活の核にある人と人との関係、すなわち近隣や友人知人、親子や夫婦の関係を自分たちで引き受けていくかわりに、引き受け先に手軽にゆだねようとすることの問題である。
 関係をどう引き受けていくかは、生き方の基盤であるが、それは手間ひまがかかり模索と工夫と辛抱が必要なものだ。だからこそ自分のもの自分たちのものと感じることができる。しかし人の関係にかかわる領域の引き受け先が出現すると、そこにゆだねる流れができる。しかも専門性の名のもとの「望ましい」方法なのだ。「ラクをしてよろしく生かしてほしい」との願望と、仕事とするからにはそこに応え、しかも顧客を増やそうとする消費社会の法則が呼応して、その流れを加速させる。「正しい親子関係、人間関係」の枠に人びとを管理しようとする行政の動きがそれに加わる。その事態を黙認してしまえば、人と人との関係は自分たちの手をはなれ、人は「生かされる消費財」としていっそう浮遊することになるであろう。

傷つきたくない、面倒は避けたい、責任から逃れたい、相手と向き合いたくない、という姿勢が第三者への依存を招いているとすれば、それは虐待や虐待不安そのものの根拠でもあるだろう。
そしてそれは「厳しくしつけてやってください」「学校で禁止してください」といった学校依存と同根であろうし、さらに子どもの顔色をうかがって好きなものを与えつづけるような態度をも生み出しているだろう。

つまり、「思い通りにならないから」と虐待するにせよ、外部の権威に頼っておとなしくさせるにせよ、カネやモノでご機嫌をとるにせよ、性根としては同じだということなのかもしれない。

この事態--関係を手間ひまかけて引き受けることができない--が親子関係にだけ起きていることではないとすれば、僕たちにとっても身近な問題なのであろうし、またそのぶん深刻なのだと思う。
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ペ・ヨンジュンに関連してですが、...
ペ・ヨンジュン | ペ・ヨンジュン | 2005/03/05 2:56 PM