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「PTSD」の危うさ

<虐待「不安」の増加>に引き続き『「心の専門家」はいらない』から。「PTSDと「心のケア」」が興味深かったので紹介する。
もっとも、この本は全体が興味深い。“問題を「心」に閉じ込め、さらにそれを専門家に譲り渡すようなことはするな”というのが主旋律になっている。それは不登校、介護、犯罪被害などいろいろな場面で必要とされる「ケア」の意味をとらえなおすための基本的な視座を与えてくれるものだと思った。

事件や災害が起きると「専門家を派遣せよ」という主張がよく聞かれるようになった。
だが見知らぬ人が“専門家でござい”と現れて心を開けるものではなかろう。しかも多くの場合、治されようとするのは“心”であって決して原因である“状況”ではない。例えば震災の下でケアを必要とするのは生活の具体的ないちいちの困難であって、それと切り離された“心”ではないはずだ。
「心の専門家」はどのように役に立ち、どのように役に立たないのか。

Amazonのカスタマーレビューに
「自分に都合の良い具体例だけを挙げて結論づけてゆくのは、仕方のないことであるけれど、説得力を半減させている」
という指摘があったが、今のところ僕には「典型的な具体例」が挙げられているとしか感じられない。
「この本は、将来心理臨床にたずさわろうとしている人は一度読んで見る価値が、あるかもしれません。この本に書かれているどの部分が一理あり、どの部分がそうでないかをよく考えることは、心理臨床家の社会への説明責任を考える上で、ためになるのではないでしょうか。
 この本にはカウンセリングブームが残した、マイナス面が強調されすぎ、その「一部の人間の活動」を心のケアひいいては心理臨床全般に拡大解釈して書かれている感があります。その点、一般の方が読んだときに、心理臨床活動に対して著しい誤解が生じることが危惧されます。
 私はこの本を読んで、やはり心の専門家は必要であると再認識させられたまでです。参考になりました。」
公平な感じで書かれているようでいて、最後のところは捨て台詞に聞こえてしまう。「一部の人間の活動」以外については心理臨床活動を進める立場の人たちによる記録を読めばいいのだろうけど、小沢氏の議論に対する内在的な批判を読んでみたい。どのへんが「一理ない」のだろうか。
おそらく、「心の専門家」はいま必要なのだ。いなくなると対処に困るという意味で。だがなぜ困ってしまうのかという状況把握についても、小沢氏の議論に説得力を感じる。

大学入学時に「実の成る木を描け」という課題が与えられたのを思い出した。「バウムテスト」というらしいが、当時は「これで何かヘンな性向が見つかったりするのかな」とちょっとビクついたかもしれない。何でもなかったようだが。
(『新版 精神医学事典』(弘文堂、1993年)によると、
「木の全体の形、大きさや豊かさ、幹や枝の形と伸びる方向、葉や実のつきかたと性状、根の形状、全体のバランス、勢い、筆圧などについて細かくみながら、(1)樹木の形態分析、(2)鉛筆の動態分析、(3)樹木の配置のもつ空間象徴の解釈、の3側面から総合的に分析と解釈を行い、発達的、性格的、病理的観点から判定する。」
だそうだ。)

のちに聞いたのだが、このテストに引っかかって大学の「保健管理センター」に毎年呼び出されていた友人がいた。分析・解釈されて「あぶない」ないし「心配な」人格だということにされたらしく、本人は憤っていた。
「そんなんで何がわかるんだよ」
と。
僕たちは必ずしも、権威や科学や専門家に自分をゆだねようとは思わないのである。

だがここで「占いソフトに頼らないと自分を解釈できない症候群」(?)を思い出した。塾講師時代、そこにパソコンが置かれたときに、誰かが(僕だったかもしれない)いくつかの占いソフトをインストールしたのだが、入学願書を書く時期になってそれが大活躍してしまったのだ。
「自己PR」みたいな欄に何を書けばいいのかわからないというので生年月日やら星座と血液型の組み合わせやらを入力して「どういう人」か判定してもらい、そこで与えられたことばを実際に願書記入に使うのである。
単に彼らにボキャブラリーが不足していたからだと解釈することもできるけれど、不思議な思いで眺めたものだ。

最近、細木数子のことばに真剣に耳を傾けている(ように見える)出演者の表情を見たりすると、決して身近な親しい人ではない“誰か”“何か”に頼って自分を理解したいという心情は共通しているように感じる。
「そんなんで何がわかるんだよ」
とは反発せずにむしろ受容している。

不安を埋め合わせる“権威”として機能するという意味では、占いも心理学も同じ位置にいるのかもしれない。

で、本題。
 阪神・淡路大震災をきっかけとして世に広まった言葉のひとつにPTSDがある。Posttraumatic Stress Disorder の略で、心的外傷後ストレス障害と訳されている。戦闘体験や自然災害、交通事故、暴力、虐待、強姦などの強烈な被害体験、また犯罪場面への遭遇体験などをきっかけに引き起こされる後遺症状であるとされる。不眠、悪夢、フラッシュバック(災厄シーンの再体験)、鬱状態などが、被害体験者を苦しめる。
 PTSDという診断名は、アメリカにおいて1980年版の『DSM掘弊鎖声栖気凌巴播計マニュアル第三版)』に加えられた。そもそもPTSD様の症状はアメリカにおいて、ベトナム戦争からの帰還兵のなかに見られるものとして注目されてきた。帰還兵のなかには、相手を至近距離から殺害したフラッシュバックに悩まされる人びとがおり、この人びとの回復を援助するために、多くのVeteran's Hospitarlと名づけられた療養の場が作られた。
 一方、時を同じくして女性解放運動の高まりがあり、そのなかで「レイプ・トラウマ」問題が積極的に取り上げられた。被害を受けた女性たちは共通した精神症状に悩まされたのである。男性の戦争体験と女性の強姦被害に共通するものは、症状を形成する社会状況であるとの認識が進み、PTSD概念が登場してきた。日本でこの語は、アメリカの精神科医ジュディス・ハーマンの著書『心的外傷と回復』の翻訳書が1996年に出版されてから、いっそう広く知られるところとなり、マスメディアの介在もあって言葉が一人歩きし、流行語の趣を呈しているほどである。当然そこに「心の傷」や「心のケア」という言葉が付随している。(p.173-174)

ここまでは、「ことばの経緯」として確認しておけばいいかな。
 PTSDは、極度に衝撃的な場面に遭遇することによって発症すると理解されている。しかしじつは、衝撃的体験をしたあとの「人間の関係」に問題があって、それが症状を強める場合が多いのではないかと、わたしには思えてならない。そのことはあまり論じられていないと思う。災害や事故そのものだけが症状を引き起こすように考える人がほとんどだ。災害や事件そのものの衝撃を否定するものではないが、そこから二次的に派生する周囲の無視や差別や裏切りなどに苦しみ、しだいに症状が深刻化されることがあるのを見落としてはならない。周囲の人びとの対応や関係のありようを抜きにして「発端の衝撃的なできごと」のみを取り沙汰すれば、症状は個人のなかに閉じ込められ、周囲の不適切な対応は問題のそとに括りだされてしまう。そのときPTSDという診断名は、本人の周囲の人びとを免罪する機能を果たすことになる。そこに医療による「心のケア」が加われば、本人は「不運なできごとに遭遇した気の毒な人」としてカプセルに入れられるようにして、関係から切り離されていくのである。診断名がもたらす隔離である。(p174-175)

このあと小沢氏はひとつの具体例をあげる。
火災に出会ったのちに失火責任者ではないかと誤解され、信頼していた職場の上司や仲間は自己保身のために守ってくれないという状況の中で心身に極度の不調を来たした女性の場合、被災体験をその原因とするPTSDと診断された。だが彼女を追い詰めたのは火災の体験そのものよりも、その後の周囲との人間関係ではなかったのか、と言う。
衝撃自体とその衝撃をひきずらざるを得ない状況の両方を対象にしなければならないにもかかわらず、その衝撃的体験をその後の経過から切り離し、さらに個人的体験としてそれを周囲との関係から切り離して「心の病」の問題に押し込めるとしたらPTSD概念は罪作りだということになりそうだ。
そうした診断の下に行われる治療は、過去のできごとを清算したり赦したりできるように心の持ちようを変えさせるということになるのだろうが、過去をひきずらせた今現在の周囲の関係に変化は起きないということになる。
治療そのものも<専門家--クライアント>という閉じた関係の中で完結させられようとしがちだろう。

そのように「隔離するためのレッテル張りとして機能する」という事態は確かに起こりそうだが、逆に本人が“診断名”を与えられて安心するという役割も果たすのではないか、とも思った。
「アダルトチャイルド」なんかも、“名称”が存在するからには同じような生きずらさを感じている人が他にも少なからずいるわけで、それを知ることによって一定の安心を与えられるだろうし、自分の状態に説明原理を獲得することでラクになることもできるのではないか。
このへんのことは、例に出された女性のことばを引いて次のように説明されている。
 彼女は「PTSD」や「トラウマ」という言葉の氾濫に違和感を覚える一方で、自分にとってのカウンセリングの意義を認め、その間を揺れながらこう記している。「……カウンセリングの場は、わたしの体験を重要なものとして聞いてくれる場であり、相手の反応に過敏に緊張することなく話しても大丈夫な、『安全な』場でありました。『安全感』がほんとうに欲しかったのです。そのことについて『語る』ことにどうしても非常な緊張や震え、怖さがあって、日常の人間関係である友人や家族、周囲の人たちには、ほんとうにかいつまんでぶつ切りにしか伝えられないし、ましてや火事の現場担当者である職場の人間関係となると、感情さえコントロールする自信がありません」「わたしはPTSDという概念を、都合よく自分の『回復』に向ける道しるべとして利用したと言えるかもしれません。またPTSDという診断名を人に告げ説明しはじめることで、わたしの体験してきている状態を相手に伝える糸口にする場合もあります。そこでは、何か具合が悪いとか調子が良くないとかいった漠然とした形ではない『深刻さ』を伝えられるのではないかという期待があるのかもしれません。(p.178)」

カウンセリングが「安全」であり、だからそうした場が必要だった。そこから導き出されることは一つには臨床心理的アプローチの有効性であり、二つには「他の場が安全ではなかった」という事実だろう。
周囲との関係性の中でカウンセリングという安全な場を選びとって利用することができるというのは大切なことだが、それが「他の場」の安全性をもたらすものではない。

「他の場」とは日常の人間関係のことだが、ある意味カウンセリングとは日常の人間関係を変更しないままそれに適応する術を与えようとする営みだと言えるかもしれない。

だがそれは必要とされているし、流行であったりする。そこに見える問題点を小沢氏は二点にわたって指摘する。
 第一の問題は、誰もが悩みや葛藤を抱えながら生きていくという寛容な見方が失われ、それらはマイナス要因であると捉える機械的な見方が広がっていることである。もちろん災害や事故や親しい者の不慮の死は悲劇的だ。しかしそのような場面で、初めて人の支えの意味に気づく場合も多い。[…]喪失と恩恵、不運と新しい出会いが重なって、「傷」は正負まじりあった事件へと変貌していく。[…]
 二つ目の問題は、細分化されたラベルを用意する専門家側とそれを消費する利用者側の関係が出現して、自分が生きていくということの意味が薄れていく現象が起きることである。[…]精神病院で働く三輪寿二は体験的に、診断名で自分のアイデンティティを作ろうとする利用者が最近増えたとの印象を語った。何でもトラウマにしてしまい、それらをじっくり自分で考えるというよりも、行きずりに診断名を買う消費行為のように感ずることがある、と。(p.180-181)

権威や専門家が与えてくれる自己理解の枠組みは確かに便利だ。
だがそのことばで自分を括って「安心」するところで終わるのならば、いま抱えている具体的な困難の克服をもたらすことはないだろう。

その「治療」を誰かにゆだねることができたとしても、そこで与えられるのは「心の平安」ではあってもただの「適応」や「あきらめ」かもしれない。
場合によっては薬物による「感覚麻痺」でさえありうる。
『暗いニュースリンク』03/02/2005「米軍兵士と合成麻薬MDMA」より。
2001年11月、米国の食品医薬品局(FDA)は、合成麻薬MDMAをPTSD(心的外傷後ストレス障害)患者の治療手段として処方し、経過を調査する研究計画を承認しているが、アフガニスタン・イラクから帰還し、PTSD症状に苦しむ米軍兵達も、今年から被験者としてこの治療実験に加わっている。

MDMA処方の実験を主導するマイケル・ミソファー医師によれば、戦闘ストレスが原因でPTSDに陥った兵士達にMDMAを処方することにより、心理的障壁を取り除き、治療にあたるセラピストに対しても戦場での体験を話し易くなるなどの効果が期待されているという。

USAtoday紙2005/02/28付け記事によると、アフガニスタンとイラクに従軍し帰国した米軍兵士の内、すでに24万4,054人が除隊し、1万2,422人がPTSD症状により米退役軍人局のカウンセリングを受けている。米国では戦闘を経験した退役軍人の約30%がなんらかの精神障害を抱えるというから、米政府にとって軍人向けPTSD治療体制の確立は急務であり、MDMAなどの薬物による治療法が本格承認されるのも時間の問題だろう。

アフガニスタン・イラクの戦場から帰還した米軍兵士達にとって、退役後の仕事を見つけるのは至難の業である。そして、イラクの戦闘には沖縄駐留の海兵隊からも多くの兵士が派遣されている。戦場から帰還した彼等が、沖縄の米軍基地内医療施設で、PTSD治療の為にMDMAを処方されることが日常となり、退役後の蓄えのためにその薬物を国内流通させるようになった時、私達は薬物汚染を嘆くと同時に、戦争の影に恐怖し、たいした調査も討議もせず戦争支持を表明した日本という国家にあらためて愕然とするのだろう。

<感覚を麻痺させるという治療>が行われるというわけだ。
原因となった戦争そのものの見直しや帰還兵に対する経済的な処遇の改善ではなく“個人”の“心”がもっぱら対象とされるという点で小沢氏の危惧する問題のすりかえは起こりえるということだろう。
<社会関係への感覚の麻痺>のためにPTSD概念が使われていないか、いろいろな場面で注意が必要なのだと思う。
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