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「正しさ」にしがみつかないことばを

『ほぼ日刊イトイ新聞』で糸井重里が書いてる「ダーリンコラム」2003年10月27日付にこんなのを見つけた。(太字は引用者)
<絶滅してくれ、目くじら。>

左官屋のことを「しゃかんや」と
読んでいいのか悪いのかというようなことが、
「ほぼ日」に届くメールのなかで話題になってる。
これはこれで、たのしいサロンのおしゃべりになる。
広辞苑でも「しゃかん」という単語はでていて、
「→さかん」と書いてあるから、
正しかろうが間違っていようが、
事実上、広まっているということがわかる。

魚の鮭(しゃけ)も、
ほんとうは「さけ」かもしれないけれど、
実際に、すっかり普及してしまっていることばだ。

実は、ぼく自身の好みとしては、こういうの大好きさ。

落語家の人たちは、古い江戸の方言を再現するもんだから、
もっとすごい読み方をしているよ。
蛙(かえる)のことは、
はっきりと「かえろ」と言うもんなぁ。
吉原などの女郎(じょろう)は、
これまた明確に「じょうろ」と発音している。
「じょうろ買い」というような言い方ね。
ただ、またまた広辞苑を調べてみたら、
「じょろう」も「じょうろ」も、
どちらもでているんだよなぁ。
さすがに、「かえろ」はでてなかったな。
でも、話の流れのなかで「かえろ」が
「カエル」のことであることは、十分に伝わる。
それで別にかまわないじゃないかと、ぼくは思ってしまう。

評論家の呉智英が書いてから、
「須く(すべからく)」ということばの誤用について、
とてもおおぜいの人が注目するようになったけれど、
もともと呉智英は、
「すべからく」に代表されるような
「むつかしそうなことばを、えらそうに使う」人の
イージーな教養主義をからかいたかった
ということなのであって、
「すべからく摘発組」を組織したかった
わけじゃないと思うんですけどね。
それでも、「すべからく」が「べし」に結ばれてない
文章があると、どっとそれを指摘する投書が増える。

同じように、うまいものを食べて
「したづつみ」をうつという人がいると、
それに過敏に反応する人がいる。
「舌を包むんじゃないだろう、
舌で鼓(つづみ)をうつんだろう。
したつづみと言いたまえ!」と
説教を始めたりするのだけれどねぇ。
「腹鼓(はらづつみ)」という表現も
許されているんだし、
別にそこまで怒ることもないだろうにと思う。
ぼくは、ちょっと挑発的に
じゃんじゃん「したづつみ」をうってみたくなる。

ことばにしても、行動にしても、
まちがったことをそのままにしておくのは、
我慢できないことかもしれない。
そういう気持ちも、わからないわけではない。
しかし、だからと言って何が困るのだろうか、と、
ちょっとおちついて考えてみちゃぁくれまいか。
世の中にあるバグのような「言いまつがい」だの、
方言だの、発音のまちがいだのを、
そんなに厳密にチェックする必要があるんだろうか。

ぼくは、まったく自慢にはならないことだけれど、
あるときまで、「来日」を「らいじつ」と言っていた。
「市井」の読み方は、頭ではわかっていても
つい「いちい」と読んでしまっていた。
「出自」は、どうしても「でじ」と言いたくなって
グッとこらえて「しゅつじ」と読んでいたりする。
そのくらいダメなやつではある。
しかし、それがそんなに恥ずかしいことだとは思ってない。
自慢でないのは確かだけれど、
たいしたことじゃないと思う。

ぼくだって、
日本語を大事にする、ということには賛成なのだ。
例えば、「いい表現に感じ入ること」などは、
ぼくにとっての、ことばを大事にするということだ。
細かいミスに目くじらを立てるということではない。

なんかさ、標準的で、まちがってないものが
世の中のぜんぶになっちゃっているような感じが、
どうにも、ぼくには、いごこちがよくない。
適当に、いろんな間違いが混じっているくらいが、
世界をおもしろくしているんじゃないのかね。
正しさというのは、いろんな価値のなかで、
必ずしもいちばん高いものではない。
ぼくは、そう思っている。

目くじらの野郎が、泳ぎまくるほど、
世間がつまらなくなると、思っていいんじゃないかね。

先日テレビで「正しい日本語チェック」みたいな番組をやってた。
題材をほとんど思い出せないのだけれど、「<気のおけない>の正しい意味は?」みたいなやつね。
そしたら「街で調査したら誤答率80%」みたいなのが続々と出てくるの。
で、エラソーに振舞う(そのように振舞うよう要求されていたのかもしれない)センセーが「これが正しいのだ」と解説してみせる。

そこで思ったのだけれど、25%しか本来の意味で使われないことばっていうのはすでに“死んでいる”んじゃないだろうか。
あるいは、意味がずれたり逆転したりしている最中にあるとか。

例えば、<やさしい>っていうことばはもともとは「やせている」であってそこから「(身が細るほど)恥ずかしい」になって…(中略)…でそのうち今みたいな用法になっているという。
「本来の意味」で使えば正しいってもんじゃなかろう。ことばの生きた現場で通じなければしょうがない。

「正しいことばを知らないのは恥ずかしい」という構えで番組は進んでいったけど、「本来の意味」の使用がどんどん目減りしているとしたらそれはそのうち消滅するはずで、そこにしがみついてるかのようなセンセーの姿が少し滑稽に見えた。
田中克彦の言う「言語エリート主義」ってやつかな。

北原保雄編『問題な日本語』(大修館書店、2004年)では
「「全然」を肯定表現に使うのは間違いではないでしょうか」という設問に対して、結論としては次のように答えている。(p.17-21)
「全然」を肯定表現で使うのは必ずしも間違いではありません。否定的な状況や懸念をくつがえして〈まったく問題なく〉の意味で使う用法(『大丈夫?』『全然平気!』)や、二つの物事を比較して使う用法(「こっちの方が全然いい」)は、現在、一般化していると言えます。

こういう構えの方が全然いい、と思う。
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