わっかnない

日々の発見を記録しよう
<< October 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | permalink | - | -
<< 【転載】仕組まれた?「自爆テロ」 | main | アクセス ベスト5 >>

ジャンケン文化

李御寧(イー・オリョン)『ジャンケン文明論』新潮社(2005年)を読んだ。アジア、特に日本・中国・韓国の共生への願いと展望を“誰も勝たない・誰も負けない”ジャンケン文明に見る。
モザイク的な記述のせいか気楽に読めて面白かったのだけれど、この本を知るきっかけになった鴻上尚史のエッセイのほうが実は対比が効いていて興味深い。『SPA!』2005年5月3/10日号「ドン・キホーテのピアス/“ジャンケン”は東アジアの誇るべき文化である」より。
 ずっと、「ジャンケン」について書きたいと思っていました。
 始まりは、イギリスに留学した時です。授業で、課題発表の順番を巡って、クラスがもめました。
 なんとかしようと、騒いでいるイギリス人相手に、「ロック・ペーパー・シザース(石・紙・はさみ)で決めたらどうだ?」と提案しました。
 みんなは一瞬、沈黙して、「それはなんだ?」となったので、ルールを説明しました。すると、説明を聞いたイギリス人達は、「決定をそんな偶然に任したくない」と言い放ちました。
 自分が何番目にやりたいかは、明確に主張することであって、「ロック・ペーパー・シザーズ」の偶然に任すべきではない、いや、ショウ(僕のことね)お前はそういう偶然に身をまかせて平気なのか? とまで言われたのです。
 僕はこの時、初めて、ジャンケンというものを意識しました。
 イギリス人を始めとするヨーロッパ人は、ジャンケンをしないのです。
 ジャンケンをしないから、ちょっとのことで議論します。
 簡単なゲームをする時も、誰が先にやるかを、必ず議論して決めます。
 日本人なら、ほぼ100%、無条件でジャンケンが始まります。
      […]
 で、僕は「日本人の精神構造と、ジャンケンは密接なつながりがある」と考えるようになりました。
 ヨーロッパ人は(アメリカ人もですが)子供の頃から、遊ぶ順番を議論で決めます。日本人は、ジャンケンで決めます。これが、その国民の考え方や感受性と無関係なわけがないのです。
 だって、幼児の時、ブランコに誰が最初に乗るかを決める時、議論で決めるということは、3歳から対立を明確にするということです。弁舌がたつ子、腕力がある子、説得力がある子が勝つという文化を生きるのです。つまりは子供心に、“競争”と“自己主張”が刷り込まれるのです。
 が、ジャンケンでブランコに乗る順番を決める文化には、“競争”も“対立”も“自己主張”も関係ないのです。
 ただ、ジャンケンという偶然に身を任せていればいいのです。
 根本的に、対立や主張とは無縁の文化の中で、子供は成長するのです。
 選択の基本を、偶然性に任せる文化とは、つまりは究極的な根拠を手放した文化です。論理性より、偶然性を選んだ文化であり、それは、空虚な中心としての天皇制まで通じる文化ではないかと、僕は考えています。
      […]
 著者は、名著『「縮み」指向の日本人』を書かれた人で、日本・韓国文化を比較しながら明晰な分析を得意とします。
      […]
 著者は、「ジャンケン」を、欧米のコイン投げ(トッシング・コイン)の二項対立の文化に対して、積極的な三すくみの文化であると位置づけます。
 勝つか負けるかという白・黒の文化ではなく、相互に勝ち負けが動くジャンケンのシステムは、現代のどんづまりを切り開く21世紀の可能性だと言うのです。
 欧米の二項対立は、文化すべてに浸透していると著者は言います。白か黒かを明確に決めなければいけない文化は、相対立する二つのものを同時に含むことが苦手です。
 刺激的で面白い例がたくさんあるのですが、例えば、「エレベーター」。これは「上げる(elevate)」という英語の動詞から生まれた言葉です。つまり、「昇る」ほうしか描写していないのです。フランス語もドイツ語も同じです。
 が、日本は「昇降機」と訳したのです。つまり、「昇り」と「降り」をちゃんとひとつの言葉に入れたのです。中国語も同じだそうです。
 どこを取っても刺激的な本です。「ジャンケン」にこんな可能性があったのかと、ハッとします。
 コインでなくジャンケンを選ぶことは、「物から人へ、実体から関係へ、択一から並存へ、序列性から共時性へ、極端から両端不落の中間のグレイ・ゾーンに視線を換えると、暗い文明の洞穴の迷路から、なにか、かすかな光が見えてくる。エレベーターの二項対立コードが昇降機の相互、融合のコードに変わっていく兆しだ」と著者は書きます。
 ジャンケンという優れた文化を持つ東アジアの国々は、その可能性を追及すべきだと著者は言うのです。

鴻上さんのイギリスでの経験に驚く。
李さんが指摘するようにモノの形で残っていない文化は考察の対象になりにくいだろうから、これまでなかなか指摘されてこなかったのだろう。
世界中の誰もがジャンケンを活用しているものだと思い込んでいた、というか考えたことがなかった。

“議論して決める”ということで思い出したのは中嶋義道さんの『ウィーン愛憎』で描かれていたドイツ人の感性だ。
“ことばで主張しないことは決して伝わらない”というその文化を知って、「その中で過ごすのはすごく疲れるだろうな」と感じた。
日本への留学生と日本人学生がトラブルを起こす際には、そのへんのコミュニケーション・コードの違いが元になることが多いと聞いたこともある。

また、非常勤講師組合の活動をしていた頃のエピソードを思い出す。

解雇の本当の理由が「子連れ出勤」だったということが判明したとき、当の外国人講師は「担当教員はそれでいいと言ったし、それが迷惑だなどと一度も言われたことがない」と主張した。それは本当だった。しかし大学側は「迷惑だと何度もサインを送った。日本人ならわかってくれるんだけどねぇ」と。
そう発言したのが同じ外国語の担当教員だったから、「そういうことも含めた異文化を扱うのが外国語教育だろうが!」とあきれたのだけれど、他方で、「はっきりと言われていない以上は知りえなかった」という講師の毅然たる態度に「そういうものか」と感じ入った記憶がある。

もうひとつ。

学生へのセクハラを理由に解雇通告された外国人の場合。
「いつ、どこで、誰にやったというのか、根拠を示せ!」と当人は息巻いていた。本人がやっていないと主張する以上、交渉担当としては“推定無罪”の立場で大学側と向き合わなければならない。
大学は「学生にコーラを買いに行かせて授業中に飲んでいた」という話ももち出してきた。それに対しても「いつ、どこで、誰にやったというのか!」だった。
ところがこの件に関しては複数の学生の証言という証拠が出てきて、本人も結局は認めたのだ。
“コーラ問題”そのものは重大ではない。しかしセクハラについての「いつ、どこで、誰に!」というのも怪しく思えてくるではないか。
このとき連想したのが「事故ってもお互いに自分の非を認めない欧米人」というエピソード。
セクハラの有無に決着はつかなかったが、“自己主張”と“議論”の文化をそのときに垣間見ることができたということだろう。

“何ごとも議論”というのと“以心伝心”のどちらがいい、ということではなかろう。それこそ「白か黒か決着をつける」ような構えだ。
ただ李さんが世界の流れとして「二項対立から共存へ」という様子を見とっていることに、少しほっとすることができた。
ことば/文化 | permalink | comments(0) | trackbacks(1)

スポンサーサイト

- | permalink | - | -

この記事に対するコメント

コメントする









この記事のトラックバックURL
http://kichihiro.jugem.cc/trackback/88
この記事に対するトラックバック
Breaking Through ・・・タイムの記事へ    韓国発のサプライズは決して少なくありません。『嫌韓流』のような本がヒットし、ネットの世界は大沸騰中ですが、韓国の戦後の発展をコピーキャットと証するなら、急成長を遂げたアジアの各国も大して違い
ひと皮むけた韓国、『嫌韓流』なんて古い古い! | TIME ガイダンス-choibiki's BLOG-ホンモノで学ぶ、英語を学ぶきっかけ探し | 2005/11/16 11:44 AM