以前
<上機嫌力>で齋藤孝のことを取り上げた際に言ったように、彼の主張している内容には注目してきた。
それは自分の
<硬直したからだとこころ>を解きほぐすにはどうしたらいいのか、感情とその表現を豊かにするにはどうしたらいいのかを竹内敏晴とか野口体操とか古武術に求めるのと同じ文脈でだった。
そこで、齋藤提唱の「3秒吸って、2秒止めて、15秒吐いて」や四股踏みをやってみたりすることもあった。
また彼がこどもたちに「からだを使って読む」訓練を指導するのも不自然には見えなかったし、それはそれで楽しそうに思えた。
演劇のセリフをことばを“パス”するように次の人にまわしていくという実践をテレビで観たときには、コミュニケーションの本質をついたやり方だなぁと感心したりもしたし。
だが、『創』2005年8月号掲載の斎藤貴男「「非国民」のすすめ:齋藤孝教授の教育論」に紹介されていた次のこと。千代田区が来年4月に開校する中高一貫校のゼネラルマネージャーとして(後に取りやめ)語ったことだという。
(以下すべて太字は引用者)
「今日はリクルートのつもりで来ています。僕とそりが合わないという人はまずだめです。プライドの変に高い方は無理という感じでしょうか。私はやり方を変えるので、特に九段中に今いらっしゃる方はよくよく考えて、できるだけ退くということを基本にですね。」
「2006年になりますと、この学校が本格的にスタートします。(従来の九段高、九段中とは)非常に様変わりする。でも、前の年度から仕込みをしていかないと、やはり生徒が年々腐っていきますので、というのは、今の(九段中の)中一は高校受験がないというので緩んでいるという噂もあって、玉はあまりよくないわけです。受験の際の玉ですね。」
この専制的でかつ競争主義的なもの言いは「重責を果たそうとする気負い」ゆえの過剰だったのだろうか。
斎藤貴男は今の教育改革路線との照合をここに見て、次のように断じる。
「以上のような齋藤教授の考え方は、政府が進める教育改革の流れと完全に軌を一にしている。グローバル・ビジネスの論理そのまま、限られた資源の“選択と集中”による生産性の極大化。エリート養成のためなら、ノンエリートの教育機会などクソ食らえ、と。」
その声が好みではなかったにせよ“ちょっと齋藤ファン”だった身としては居心地が悪い。
果たして、齋藤孝の身体論やコミュニケーション論がもしそうした政治的立場に内在的に結びついているのだろうか。
もし結びついているとしたら、身体論やコミュニケーション論の方を評価し直さなければならないことになりそうだ。
そこで、“齋藤孝論”を探してみることにした。
最近読んだ荷宮和子
『若者はなぜ怒らなくなったのか』(中公新書ラクレ、2003年)でちょっとだけ揶揄しているらしき箇所があった。
「これらの価値観に裏打ちされた島本和彦作品を読むことは、
「古典作品の意味を考えることなくただひたすら声を出して読む」といった行為よりも、はるかに有益な行為なのである。」(p.231)
確かに、意味が不明なままでは無意味だろう。意味を解釈してこそその音読にリズムや強弱が与えられるだろうから。
だが「意味を考えることなくただひたすら声を出して読む」にすぎないというのは正当な批判だろうか。彼の日本語理解ないし教育論はどのようなものだろう。
『噂の真相』2002年10月号の山田浩平「日本語ブームと暗誦文化の仕掛人齋藤孝の“間違いだらけの日本語”」によると、『声に出して読みたい日本語』には間違いが多いという。
『蜘蛛の糸』の「金色」へのルビ「きんいろ」は「こんじき」でなくてはならず、「玉」へのルビ「たま」は「ぎょく」でなければいけないらしい。
『雪国』の「国境」は「こっきょう」ではなく「くにざかい」が正しい、とも。
『古事記』については「古典文学を間違って引用し、中国語をまさに無理矢理、大和言葉に読み下して「美しい日本語」に仕立ててしまっているだけにすぎない」のだそうで、著者は「本当に“日本語”を知っているのか」とまで言っている。
日本語理解は必ずしも正確ではないらしい。
彼の日本語教育方法論については、渡辺知明が
「文章の「読み」と「朗読」―齋藤孝「声に出して読む理想の国語教科書」批判―」で次のように述べる。
たしかに声に出して読むことによって集中力を高めることはできます。むずかしい文章でも文字さえ読めれば、とにかく読み通すことはできます。しかし、それが「読み」なのでしょうか。齋藤氏の主張する「声に出して読む」という「朗読」の本質はこのあたりにあります。つまり、文章を「読む」ことの本質を抜きにしたまま、意味が分かろうと分かるまいと、とにかく声にすることのようです。
ですから、むずかしい作品を読んだときに、子どもたちにできるのは、かろうじて作品の筋を読みとるか、直感でテーマと思われる部分を拾い出すくらいのものです。そんな「読み」は、単に文章から情報を拾い出すだけのことです。それはかたちを変えた詰め込み教育です。しかもずいぶん荒っぽいやりかたなのです。
荷宮による「意味を考えることなくただひたすら声を出す」という評価はある程度正しいらしい。
しかし思い出してみると、小学校や中学校での国語の授業ではそもそも音読は重視されていなかったし、音読がなされるときでも文字から音への変換がよどみなく正確になされればよしとされていたのではなかったか。
つまり「意味もわからず読む」のは無意味だろうけれども、意味解釈が「読み」に影響を与える場面というのはほとんどなかったなぁ、と改めて思うのである。
せいぜい詩の朗読のときには教師が「感情を込めて」やってみせていただろうが、こちらはそれを何か気恥ずかしく眺めていたような記憶がある。
学校教育の中で「学習することば」はまずもって文字であり解釈の対象であった。
自らの思いや存在の表現としての発話のことばを訓練する機会はなかった。
だから例えば次のような波瀬満子
『ことば まるかじり ききかじり』(太郎次郎社、1992年)にある発言は大事なのだと思う。
西江(雅之)----本の教育で抜けている点を一つあげれば、ことばは表情だという点ですね。たとえば、美空ひばりのせりふは太い活字で組んであるとか、森進一のせりふはかすれた活字で組んであるとか‥、そんなこともない。
波瀬----そうですよね。
西江----そういうことはないわけです。結局、ことばはだれが見ても同じという無表情な活字に還元されてしまう。幼稚園のときからずうっと、それが当然と考えるくせをつけられているように思いますね。[‥]アフリカの小学生に学校のテキストを読ませると、日本の子どもたちとちがうことがあるんですよ。たとえば「犬がワンワンなきました」という文章があったら、「犬が」と言ったら、ほんとに犬がなくように「ワンワン」ほえるんです。それも、いろんなほえかたで。[‥]「こんにちは」も「こんにちは!」も「こーんにちは」も「コンニチハ」も、書けば同じになってしまいますからね。つねに頭がそう向くように仕向けられているんです。
波瀬----そう、しむけられているんですね。“ことば”を、まるで国語の本を読むように、印刷の文字のように、同じようにしゃべってしまう。そして、そう仕向けられていることに気がついていない。気がついていないところが、コワイですね。
気づいてはいても実践的な方法を知らない僕にとって“齋藤メソッド”は新鮮だったし、社会的に受けいれられるのもそうした発見を伴っているからではないかと感じていた。
逆説的だが、身体性をはぎとった電子メディアによるコミュニケーションが日常化したからこそ“感じるからだやこころ”と“文字のようなことば”との乖離や、“表情を失ったことば”を意識化できるようになったと言えるかもしれない。
だが他方、「ナショナリズムこそが齋藤ブームの背景だ」という指摘がある。
「続・憂国呆談」番外編Webスペシャル 2002年11月号にある田中康夫との対談での浅田彰の発言。
頭だけじゃダメで、体で覚えようってのはいいけど、それだけじゃねえ(笑)。
だいたい、文字がダメで音声がいいっていう考え方こそが反動的なイデオロギーの核心にあるってのはジャック・デリダや柄谷行人の言う通りで、とくに日本の場合は、漢字は外国から輸入された理論(漢意[からごころ])を表記するものにすぎず、かなで表記される音声こそが日本人の身体に根ざした感情(やまとごころ)を表現しうる(かなは漢字から派生したものであるにもかかわらず)っていうような国学的イデオロギーが、つねにナショナリズムを支えてきたわけでしょ。齋藤孝も無自覚にそれを反復してると思う。
「文字がダメで音声がいいっていう考え方こそが反動的なイデオロギーの核心にある」って言われてしまうと、自分も反動イデオローグなのかと不安になってしまうが、どういう仕組みで音声・発話重視が反動イデオロギーに結びつくのだろう。ここの説明だけでは納得できない。
デリダは読んだことはないし、柄谷行人は読みにくかったよな。
すると、こんなのを見つけた。
『一橋新聞』1101号(2003年4月4日発行)
「ナショナルなものを謳いあげる「新しい国語教科書をつくる会」」で糟谷啓介が次のように言う。
『声に〜』等の日本語本が売れる一番の背景はグローバリゼーション。グローバリゼーションのなかでは、「ナショナルアイデンティティを強め、守らなければならない」ということが無意識にある。
斉藤さんはこの本で、「明治以前の文化の連続性」と「声に出すという身体文化」の2点をしきりにいっている。この2点を強調して、ナショナルなものを謳いあげようとしているのは間違いない。
ある対談で斉藤さんが「自分はナショナリストではない」と言っているが、この本は完全にナショナリズムだ。おそらく斉藤さんにとっての「ナショナリズム」とは一種の政治的な国家主義を想定しているのだと思う。しかし、日本語を話す共同体が歴史的にも連続していて、空間的にも日本の国土を覆っているという考え、国民というものを前提として話を進めていくことは、客観的にいってナショナリズムだ。
なるほど、「日本語」っていうところにこだわるのが齋藤の“ウリ”になっていると見るのか。
「発話ブーム」というより「日本語ブーム」の一環ととらえれば、当たっているようにも思う。
齋藤さんの「暗誦文化」というのは文字を一字一句間違えずに覚えるというやり方。これは本当のオーラルな文化と違う、文字文化に乗っかったものだと思う。
それと、声には非常に危ない面がある。これも『声の文化と文字の文化』でいわれていることだが、声を出すということ自体には、共同性にまとめ上げる危険な力がある。同じテクストを皆一緒に朗誦すると、皆がある種の共同体の感情をもつうになる。例えばラジオで詩の朗読が一番盛んだったのは第二次世界大戦中だった。詩の朗読は共同体の感情を強めるのに一番効果を発揮する。だからこの本は「身体文化」とはいいながらも、ある種の日本語共同体を強化する意図があると思う。
「声」の尊重は個々人のからだとこころを尊重するようでいて、共同体に回収する効果があり得る、と。
文字を前提にした発話だから、文字とその内容に対する無批判な態度(ひたすら読み上げる)は無自覚な“刷り込み”につながり得るということか。
「同じテクストを」っていうところが危険性をはらむのだろう。しかもそれが「伝統的」で「美しく力強い日本語」であるとされてしまうと、そうした規範をそれこそ“身体的に”受け容れてしまうことになりかねない。
確かに、『理想の国語教科書』っていう題名はうさんくさい。
この本に載っている作品をほめたり好きになるのは全くかまわない。だが、素晴らしいのは作品であって、どうして「日本語が素晴らしい」になるのか。なぜ作品の具体的な特質を、全体的な日本語というものに送り返してしまうのか。その点について深く考えず、「なんて日本語は素晴らしいんだろう」と思わせてしまうから売れたのだろう。
だからこれはある種「新しい国語教科書をつくる会」のようなもので、「新しい歴史教科書をつくる会」と似たようなものだ。「新しい」といっても、中味は古いのだけれど。
ナショナリズムに回収されて抑圧的にふるまうような「ことば」ならいらない。
<ことばの“みだれ”>で紹介した田中克彦による一文を改めて置いておく。
「ものを書いたり、人前でしゃべったりする人は、正しいことばや美しいことばの番人であることをやめて、自由な精神活動のために、まず言語的解放の側に立つべきであろう。美しいことば、力強いことばは、苦労してやっと字引の中からさがし出して来るものではなく、いじけぬ、きがねのない言語活動の中から生まれてくるのである。」
「いじけぬ、きがねのない言語活動」を実践するにはきっと「いじけぬ、きがねのない身体」が必要で、それを“技”として獲得することに意味はあるように思う。
その点では相変わらず“齋藤メソッド”には参照すべきものがあるように感じている。
そもそもの問題として立てた、「齋藤孝の身体論・コミュニケーション論とエリート主義的教育観に内在的な関連はあるか」については明確な解は見出せなかった。
ナショナリズムを媒介項にして結びついている可能性はあり得る、という程度の見通しにとどまる。
また、浅田の指摘と関連して、<コミュニケーションへの身体性の回復>ないし<ことばへの身体性の回復>という志向そのものがリスクをはらむものなのかどうか、この点はまた今後の課題だ。
この記事に対するコメント
声と言語については、最近、デリダ『声と現象』に関心を抱いています。
視覚障害者のために市報などを朗読して録音する活動に参加しているのですが、今度NHKの出張講座で鍛えてもらうことになっています。
大変客観的に批判情報をまとめておられて大変参考になりました。